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           第29話
 聡の母・あかねは、幼い悠の姿を見るなり抱き締め、涙をこぼした。
 そして、夏海の手を取り、「苦労したでしょう……これからは遠慮なく甘えてちょうだいね。なんでも、頼ってくれたらいいのよ」そう言ってくれたのだった。

 義母の涙を見たとき、夏海は初めて、自らの過ちに気付く。
 聡に対する憎しみや悲しみで、あかねらにも何も知らせなかった。知らせていれば、悠に寄る辺のない寂しさや孤独を、経験させずに済んだのだ。我が子の存在すら知らなかった、と聡が怒っても、申し訳ないとは思わない。むしろ、自業自得だとすら思うが……。
 誰に言ってもどうせ無駄だと、何もかも独りで背負い込み、家族の気持ちなど考えもしなかった。
 それは同時に、夏海の心に、実家の両親のことが思い浮かんだ。
 ――父、母を裏切って、随分酷い真似をしてしまった。
 実家には一度も連絡を取っていない。ひょっとしたら探しているのではないだろうか? 両親は元気でやっているのだろうか? ……と今になって、不安になる夏海であった。

 
 そしてあかねから、聡の結婚に至る事情や一条家の近況も聞かされた。
 聡からは何も聞いてないので、夏海には驚く事ばかりだ。

「夏海さんが会社を辞めてすぐかしら、次男の稔さんが離婚してしまったの」

 まず、夏海と聡が『クローゼットの情事』に陥った原因とも言える、次男の稔だが……。
 五年連れ添った妻・恵美子と離婚し、そのまま家を出て、あの時の情事の相手、家政婦の亮子と再婚した。一条グループの後継者と目されていた彼の不祥事に、周囲は大反対したそうだ。だが、稔は自分が無精子症で子供は望めないことを親に告白し、後継者の座を降りたのだった。その後、外聞をはばかった父・実光が、稔の本社取締役を解任し、社長の肩書きも外し、ロンドンの支社長として海外に赴任させた。今年の春には、本社に戻ってきたというが、亮子に連れ子がいて不倫の末の再婚ということもあり、実家には全くと言っていいほど顔を見せないらしい。

 そして、
「稔さんの離婚の事情が事情だけに、親として申し訳なくて。そんな時に、聡さんが縁談を了承してくれて……」
 あかねは、稔に対する負い目を忘れようと、ことさら、聡の縁談を進めてしまった。
「聡さんは母親想いで、とてもやさしい方だから……子供のことさえ知っていれば、あなたにも決して不実な真似はなさらなかったはずよ」
 肩を落としつつ、それでも息子の誠意を信じ、全て自分のせい、というあかねに、「私もそう思います」と、夏海も同意するしかなかった。

 一方、夏海と同じ歳の聡の妹・静だが――ジュリアード音楽院に留学し、今は、ニューヨークを基点にピアニストとして活動しているという。アメリカ人の恋人もおり、結婚の話が出やしないかと、実光は戦々恐々としているそうだ。
 そして、匡の結婚と間もなく子供が産まれることも聞き、「これだけが明るいニュースかしら」と、あかねも嬉しそうに微笑んだ。


〜*〜*〜*〜*〜

  
「じゃあ、結婚式もなし? 写真も撮らないの?」
 聡の両親の来訪から数日後、夏海は、双葉と二人で事務所の階下に位置する、ウェストウォーク内にランチに来ていた。
 引越しの荷物も片付き、悠も同じウェストウォークにある保育施設に通い始め、ようやく落ち着いたところだ。

「ん、聡さんは三度目だし。子供もいるし……ね」
「でも、一条のご両親はすすめてくれるんでしょう。身内だけで、式と写真撮影だけでもやっとけば? 将来、子供が見たがるものよ」
 夏海も女性である以上、ウェディングドレスに憧れないわけではない。だが、
「もう入籍も済ませて一緒に住んでるんだぞ。何を今更……」
 聡はそう言って、両親に断わってしまった。
 ――どうせ悠のための結婚なのだ。結婚に不可欠な愛も信頼もないのに、神様の前で一体何を誓うのだろう。
 納得の上とはいえ、考えるたびに、夏海の胸はチクチク痛む。

 そんな夏海の表情に、双葉はストレートに切り出した。
「ねえ、何か悩みでもある?」
「え?」
「結婚一ヶ月でしょ。今幸せでなきゃいつ幸せになるの? って時期じゃない」
「そう……ね」
 そう言ったきり、夏海は俯いて、食後のコーヒーカップを廻している。
「子供のために結婚してくれ、とでも言われた?」
 図星であったが、そうとは言えない。
「まあ……悠のために、努力して欲しいって。仲の良い夫婦になりたい、って言ってたかな」
「でも、アッチのほうは上手く行ってるんでしょ?」
 双葉はなるべく明るく、夏海が笑って答えられるように、話を振ってくれた。
「まあ、それは、ね。全然『ダメ』じゃないと思う。わざとじゃなかったのかな?」
「う〜ん、どうかな? あの頃は結構マジっぽかったわよ。元々、神経質な性質たちだから。そうは見えないけどね」
「そうよね。心臓に毛が生えてる感じなのにね〜」
 二人で顔を見合わせて笑った。

 双葉は夏海の様子を見ながら、
「不満があるならハッキリ言った方がいいわよ。秘密はいいけど、不満はダメ。小出しにするのが長続きの秘訣よ」
 結婚十四年という双葉の言葉は重い。でも、愛情で結ばれた如月夫婦とは違うのだ。
 夏海は軽く首を振って、
「言わない約束で結婚したから……二度と過去のことは言わないって」
「約束は破るためにあるのよ」
「弁護士の妻がそういうこと言っていいの?」
「当たり前じゃない!」
 双葉は、聡の智香との離婚騒動は知っていたが、夏海との一件は何も聞いてはいない。もちろん気にはなったが、やたら踏み込まないのも友情だ。聡が話さない以上、夫をせっついて聞き出すこともしない。双葉はそういう女性であった。

「双葉さんは凄いな。如月先生も理解があって、素敵な旦那さまだし。羨ましい」
 如月家のような家庭が持ちたいと願ったが……果たして、自分と聡で、そんな家庭を築き上げられるのだろうか? 全く自信がない。
 だが、そんな夏海にあっさりと、
「あ、そう? でも、あれで結構遊んでるのよ。上手くやるから尻尾は掴ませないけどね。単独出張のたびに、現地で調達してると睨んでるわ!」
「そ、そうなの?」
「家庭を最優先にすること、後は、病気さえ持ち込まなきゃ、多少のことには目を瞑る気でいるもの」
「……」
「エッチだって子供が生まれるたびに減って……今じゃ月イチだし。まあ、もうすぐ四十だから仕方ないんだろうけど。ああ、十年前が懐かしい!」
 双葉のあまりにアケスケな物言いに、その方面に不慣れな夏海は、赤面して俯くだけであった。

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