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           第19話
 夏海より三十分遅れて、聡は出社した。しかし、どうにも八方塞がりの気分である。
(彼女は一体、何を考えているのだろう?)
 考えれば考えるほど聡には夏海の真意が量りかねた。あの後、何度訂正しても夏海は『一条先生』と呼び続けた。最後には思わず『所長命令だ!』と叫んだくらいだ。すると、そのまま夏海は口を閉じてしまった。

 確かに三年前、『このままにはしない。信じて欲しい』と言った記憶はある。その約束を違えるつもりなど、これっぽっちもなかった。最初から嘘を吐き、聡を騙したのは夏海のほうだ。匡と関係しながら、兄である聡の誘惑に乗った……いや、誘惑したのだ。
 自分は悠の為に、最大限の譲歩をするつもりでいる。なのに、なぜ、その提案を聞く前に、彼女が怒るのかが判らない。
 おまけに、あの時彼女は『やめないで』と聡に抱きついた。
(昨夜も、夏海が望んだから抱いてやったのだ!)
 
 ――いささか虚しい自己弁護に、聡は深くため息を吐いた。
 全く、酷い有様である。出社して所長室に繋がるドアを開け、夏海の姿を見るなり彼の脳裏に浮かんだのは……息も絶え絶えな夏海の表情だった。頭を振り、追い払おうとすればするほど、濃密な時間を思い出して興奮が甦る。挙げ句の果てに、この場で彼女を抱き寄せ、唇を奪いたい衝動に駆られる始末だ。
 これではとても仕事にはならない。聡はパソコンの電源を切り、席を立つ。そして、夏海から逃げるように事務所を出て行くのだった。


 しかし、何処に行っても聡の脳裏から夏海と悠のことが消えない。ヒルズ内にある旅行代理店のパンフレットを目にした時は……
(――仕事を休んで二人を連れてバカンスにでも行けば、夏海との関係も良化するのではないか?)
 そんな考えすら思い浮かぶ。ゴールデンウィークだというのに一人で出社し続けた男の思考とは思えない。どうやら彼の仕事中毒は、夏海との一夜で見事に解消したようだ。
 パンフレットを見ながら、空想に思いを馳せる聡の横を、四〜五歳の男の子が駆け抜ける。
すると、自然に今朝の出来事が思い出され……。

〜*〜*〜*〜*〜

「いただきます!」
 四畳半のキッチンに置かれた食卓セットを三人で囲んだ。
 目玉焼きやウィンナーが並び……テーブルは昨夜とは違い、本来の用途に使われている。
 悠は子供用の椅子に座り、オムレツのケチャップを顔につけながら嬉しそうに口に運んでいた。

 夏海ひとりなら、急いでスーツに着替え、メイクもほどほどに飛び出していただろう。でも、子供がいればそう簡単にはいかない。
 聡がシャワーで妄想をふくらませ、一喜一憂している間に……。悠を着替えさせ、お着替えや必要なものをバッグに詰め込み、三人分の朝ご飯を作り、尚且つ、自分の仕度も済ませたのだ。
 確かに、二つ三つ業務を掛け持ちしても、この朝の戦場には及ばないだろう。

 聡のほうは、ここ数年は朝食など口にすることもなく、出社後にコーヒーを飲む程度だったが……そんなことを言う隙すら与えてもらえなかった。朝の主導権は明らかに夏海の手にあった。そのまま、コーポの来客用のスペースに停めておいた如月の車で、三人揃って家を出たのだった。

 夏海のコーポは江戸川区の葛西駅から十分程度の距離だ。保育園はコーポから駅までの中間に位置している。
 保育園の前で車を停め、夏海たちが園に入っていくのを窓を開けて見送った。すると突然、悠が振り返り、「いってきま〜す」と、聡に向かって大きく手を振る。

「あ、ああ、気をつけてな」
 咄嗟に手を振り返したが、何と答えたらいいのか判らず……ボソボソ口の中で言うだけだ。そんな声で夏海たちまで届いたはずもないが、見送られたのが嬉しかったのか、悠は満面の笑顔で、更に大きく手を振り返してくれた。
 この時、まるでヒーターのスイッチが入ったかのように、聡の胸は温かくなり、彼の顔にも自然と笑みが浮かんでいた。

 ――三年前、夏海の嘘に騙されたフリをして彼女を妻にしていれば、あの子は今頃、自分をパパと呼んでいただろう。上手く言葉には出来ない。だが、想いは溢れんばかりに、聡の体中を駆け巡るのだった。

〜*〜*〜*〜*〜

 とにかく、話し合わねばならない。覚悟を決め、聡は終業間近に夏海を呼び止める。
「仕事が終わったら、何処かで話せないか?」
「そんな……無理です。悠のお迎えは、遅れるわけにはいかないんです」
 何を当たり前のことを……夏海はそんな口調だ。だが、聡も引けない。
「判った。悠を迎えに行き、その後どこかで食事をして、君の家で話そう」
「ま、待って下さい。ちょっと時間をおきませんか? その……」
「何のために?」
「それは……色々、私にも都合があって」
 口ごもる夏海を見て聡はカッとなり、
「まさか、私が君の家に居ては困るのか? 悠にはすでに父親候補がいるというんじゃあるまいな!?」
「…… 一条先生」
「聡だ! 何回言わせれば気が済むんだ。今夜は私の車で迎えに行く。外で食事をするんだ。いいな!」


 この時の聡は、まるで2歳児顔負けの駄々っ子であった。
 夏海は開いた口が塞がらない。
「じゃあ……あの子が好きなファミレスで構いませんね? 子供に合わせて下さいますよね?」
 少しは嫌がらせの意味もある。
 聡のような男が、ファミリーレストランに、しかも子連れで入ったことなどないだろう。ドリンクバーに水やスープを取りに行かせてやろう……それに懲りたら、二度とこんな強引な誘い方はしないだろう。そんなことを思いつき、心の中で笑った。
「……判った、それでいい」
 そんな夏海の思惑を知ってか知らずか、聡は全面的に彼女の要求を受け入れたのだった。

 
 夏海の不安は別の所にもあった。
(――話だけで済むだろうか?)
 
 昨夜の状況を考えれば、よもやそれだけで済むはずがないだろう。夏海の目にも、聡があらゆる意味で焦れているのが丸わかりだ。聡は悠を欲しがっている。そして夏海のこと……いや、彼女の身体も。
 もし、聡に求められたら……答えは決まっている。

 信じることの出来ない男を、それでもまだ、信じたいと思っている。そう、もう一度『愛している』と言われさえすれば……愚かにも、同じ言葉を返すであろう自分に、夏海は気付いていたのだった。

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