第14話
「一条! 彼女は?」
妻からジャケットを受け取りながら如月が言った。
「さあな、帰ったんじゃないのか。私が子供と話すのも嫌なようだ」
吐き捨てるように言う聡に、二人とも呆れ顔だ。
「おいおい、ここは駅から遠いんだ。遅くなるのが判ってたから、車で家まで送って行こうと思ってたのに……」
如月は妻に、夏海を追いかけてみる、と声を掛けた。
それを聞いた聡は、さも面白くなさそうに、
「随分お優しいことだな。一キロ程度、たかだか十数分の距離じゃないか」
聡はソファに座り込んだまま立ち上がろうとしない。双葉は、そんな彼を見下ろして言った。
「ホント、バカね」
「どういう意味だ!」
「ちょっと一条くん! 二歳児を抱えてそれだけ歩いて……多分、この時間じゃ子供は寝ちゃうだろうし。彼女の家まで電車で一時間近く掛かるのよ。私だったら、交代で抱っこしてくれるパパの腕が欲しくなるわねっ!」
「……」
双葉は大学時代から如月と交際しており、もちろん聡とも二十年近くの付き合いだ。勤務中は一条先生と呼ぶが、プライベートでは学生時代と変わらず、一条くんと呼ぶ。
いかに女心に疎い聡にも、彼女の言わんとしていることは判る。しばし逡巡したが、
「待て! 私が行く」
如月を追いかけ車のキーをひったくった。
〜*〜*〜*〜*〜
泣き疲れたのか、悠はあっという間に母親の腕の中で寝息を立て始めた。夏海にしても、泣き顔のまま電車に乗るのは躊躇われる。途中の公園で気持ちを落ち着かせ、再び歩き始めた。
ゴールデンウィークは今日が最終日だ。明日からはいつも通りの日々に戻る。
子供の顔を見て、聡は明らかに動揺していた。彼も少しは、自分の犯した罪を自覚したのだろうか。鯉のぼりを買うなどと言い出したのは、そんな理由もあったのだろうか……。
聡がもし、三年前のことを後悔して謝ってくれたなら……。
「ありえない、よね」
悠の顔を見つめ小さな声で夏海は呟いた。
その時、後ろから迫ってくる車のライトに気づき、夏海は小走りで道路の脇に避けた。やり過ごそうとしたのだ。ところが、夏海の脇をすり抜けたワンボックスはブレーキを掛けると、真横までバックしてきた。一瞬身構えて携帯を握り締める。しかし、運転席から降りてきたのは、なんと聡だった。
車を出す時、聡は如月に引き止められる。
「なあ……三年前に何があったか知らないけど、あの子は間違いなくお前の子だ」
「一条の血を引いてることは、間違いなさそうだな」
頑なな言い方に、如月も溜息を吐く。
「ああ、判った。そういうことにしておこう。聡……権利を主張する前に、義務を果たすべきじゃないか? 事情はどうあれ、親にも頼らず、たったひとりで子供を産み育てることは大変なことだよ。せめて母親には敬意を払うべきだ」
「バカを言うな! 全て、彼女の身持ちの悪さが招いた事態だぞ! もし、私の息子なら、私たちは被害者だ。三年も我が子の存在すら知らなかった。あの子もそうだ。一条家の人間として受けるべき恩恵を何も受けていない。子供に寂しい惨めな暮らしを余儀なくしたのは、全部彼女の責任だ!」
「……本当にそう思ってるのか?」
如月の静かな問いに、聡は言葉を詰まらせる。
「……それは」
「彼女に対するお前の視線は尋常じゃない。まるで、嫉妬に狂った男そのものだ」
「何を言うんだ!」
「頭を冷やせ。もう四十目前だ。やり直しのきく歳じゃない。本当に欲しい物が何か……もう一度じっくり考えろ。聡、人生は後半分しかない……だが、まだ半分ある。今なら、三年のビハインドを取り戻すことが出来る」
この時、聡の中に悠を見た瞬間の感情が呼び戻された。
「ああ、判った。考えてみる」
そう答えていたのだった。
双葉の言った通り、子供は既に眠ってしまったようだ。
――『交代で抱っこしてくれる、パパの腕が欲しくなるわね』
そんな言葉が頭を過ぎり、思わず手を差し伸べるが……途中で引っ込めてしまう。
聡は子供から目を逸らせつつ、短く声を掛けた。
「乗るんだ。送って行く」
「結構です!」
夏海の返答は更に短い。そのまま、聡を見ようともせず、再び駅に向かって歩き始めた。
「いいから乗るんだ!」
カッとなり、頭ごなしに命令しようとしたが……急いで口を閉じる。
「いや……まだ夜は寒い。子供に風邪を引かせたくはない」
その言葉は、夏海も無視できなかったようだ。
「そんなに迷惑か?」
「それは……」
後方に再び車のライトが照らし出され……夏海は促されるまま車に乗り込むのだった。
〜*〜*〜*〜*〜
それは如月の車らしく後部座席の中列シートにチャイルドシートが装着してあった。夏海は、グッスリ眠った悠をそこに乗せる。母親の温もりから引き離され、悠は身じろぎしたが、睡魔のほうが勝ったようだ。
夏海は、そのまま横に座ると、シートに折りたたんであったブランケットを、悠の上に掛けてやった。
時間が経つごとに車内は重い空気に包まれていく。すると、突然、聡が口を開いた。
「なぜ……結婚しなかったんだ?」
「誰と?」
「子供の父親だ」
本気か冗談か……判断がつかない。
「して、くれなかったわ。子供が出来たと告げた途端、手の平返して冷たくなったの。堕ろせって……お金を叩きつけられたわ」
「私に対する嫌味はもういい」
夏海に嫌味のつもりはなかった。
「あなたが聞いたんじゃない」
そんな、小さな反論が聡の耳に届くはずもなく……。
聡は前を見つめたまま、更に訊ねた。
「一人で産んだのか? ご両親は?」
「妊娠が判ったら大反対。当然よね……父親の名前を言わなかったから。家を借りて当座の生活に貯金は使い果たして……臨月まで働いたわ。でも、出産費用が足りなくて、今もローンを返してるの」
「高村さんの事務所は、給料が安すぎたんだ」
「元々、一人で細々とされてたの。でも、一歳未満の子供は中々預かってもらえなくて。在宅じゃ限界があって、初めは悠を背負って事務所に行ってたのよ。色々融通も利かせてもらって……高村先生には本当に感謝してます」
「あの子は、周りから苛められてないのか? その、父親がいないことで……」
「まだあの歳だから。保育園は母子家庭も少なくないし。でも、大きくなったら色々聞かれるのは覚悟してるわ」
聡のバツの悪そうな口ぶりに、やはり罪悪感があるのだろう、と夏海は考え……すぐに、思い違いに気付かされた。
「君は? 君自身は肩身の狭い思いをすることはないのか」
「産気づいた時も、自分でタクシーを呼んで病院に行ったわ。産むときも、産まれてからも、誰一人お見舞いには来てくれなかった」
「自業自得だろう。いい加減な生き方をして、相手の男に捨てられるような真似をするからだ」
またこれだ。夏海は大きくため息を吐くと、
「もういいわ! あなたの言う通りよ。あんな男を信じた私がバカだったの!」
そんな夏海のヤケクソの言葉に、聡は誤解を深めてしまう。
「今はどうなんだ。誰かいるのか?」
「採用前に調べたんでしょう? シングルマザーに寄って来る男はいないわ。だって子供の父親にされそうで、皆及び腰だもの」
“子供の父親”――その言葉に、聡は即座に反応する。
「子供の、父親が欲しいのか」
「そうね。如月先生のご家庭を見てたら、この子にも普通の家庭を与えてやりたいって思う。悠のパパになってくれて、ちゃんと働いてくれる人なら文句は言わない。大きな鯉のぼりがなくても、子供は幸せになれるわ。私がそうだったもの」
「自分はどうなんだ? 子供の父親は君の夫だろう。尻の軽い自分の行いは反省したわけか?」
とことんムカつく聞き方だ。だが、もう言い返す気にもならない。私の尻が軽いなら、そんな女と簡単に関係した自分の無節操さは、どれくらい高い棚に上げてしまったのだろう?
「ええしっかり反省したわ! もう二度とあんな惨めな思いはしたくない!」
「そうか……」
何を思ったのか、聡はそれきり何も聞いては来なかった。夏海も、時折、悠の様子をうかがいながら、後はずっと窓の外を見つめていたのだった。
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