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〜第2章 子供〜 第13話
 五月五日、こどもの日のパーティに、夏海は息子・悠と一緒に如月の家に招かれた。
 如月夫妻には、中学二年の長男、小学六年の長女、五歳の次女の三人がいた。
 夏海は子供を産むときに実家を出たきりである。悠には父親だけでなく、祖父母もいないのだ。当然、端午の節句を祝ってくれるような人間もおらず……。そのことに気付いた双葉が、夏海親子を呼んでくれたのだった。

 自由が丘にある如月邸は、一条の実家ほど大きくはない。だが、必要十分な愛情に包まれた『家庭』と呼ぶに相応しい、温かな家であった。
 そして今日は、その空間に恐ろしいほどの違和感を漂わせ……なんと、聡もいたのである。


「なぜ……いらっしゃるんですか?」
 顔を見るなり、険の含んだ声で夏海は問い質した。
「私が友人の家に居たら悪いか?」
「いえ……ただ、今日はこどもの日のお祝いですから。一条先生には、関係のないことだと思いまして」
「……たまたまだ」
 ロクな言い訳すら思い浮かばず、視線を巡らせながら答える。だが「関係ない」に力を入れて言われると、いささか居心地が悪いのも事実だ。
 実は、ゴールデンウィークに入る直前に、如月から声を掛けられた。
「五月五日に、こどもの日のパーティをするんだ。お前も来るか?」
「は? 何だそれは?」
 如月が双葉と結婚して十数年になるが、子供の祝い事に誘われたことなど一度もない。それが、見た目より繊細な聡への気遣いであることは、彼も承知していた。
「いきなり、どうしたんだ? そんなこと今まで」
「織田くんが、子供を連れて来るぞ」
 ――その一言で、聡は如月の家を訪ねることに決めたのだった。


 夏海は、息子の悠を、如月をはじめ誰にも会わせたくないと思っていた。
 理由は明白である。如月夫妻は、悠の顔を見た途端、口を押さえて呻いた。それほど、悠は父親にそっくりなのだ。まるで縮小版コピーとでも言えばいいのか。そこに、なんと当の本人が居合わせたのだから……大変なことになるのは目に見えていた。

 聡は、悠の顔を見た瞬間――見る見るうちに真っ青になった。視線は固まったままだ。如月家の子供たちの後を、必死で追いかけ、走り回る悠の姿を見つめ続けている。
 はしゃぎ回る悠が、パーティの後片付けを手伝う夏海の姿を見つけ駆け寄った。
「ママぁ! ゆうくんもね、ほしいの。コイさんほしいの」
 正確には「ひさし」だが、普段は「ゆうくん」と呼んでいる。悠も母親の真似をして、自分のことを「ゆうくん」と呼ぶ。

 如月家の庭には大きな鯉のぼりが立ててあった。
 夏海親子の住むコーポは六畳一間と四畳半のキッチンしかない。窓枠に取り付けるタイプの鯉のぼりが精一杯なのだ。それも一メートル足らずの……それ以上になると、隣近所から邪魔になるとクレームが来る。
「ゆうくんも、鯉のぼり持ってるでしょ?」
「おっきいのほしいの!」
 悠は、目を輝かせて訴える。
「ゆうくんが大きくなったらね。勇気くんは大きいでしょ? ゆうくんはまだ小さいから、小さい鯉のぼりでいいのよ」
「ヤダ! ほしい、ほしい! おっきいのがいい! ママぁ!!」
 次第に泣き始めて……如月家の子供たちもバツが悪そうになる。
 夏海は子供たちに優しく微笑むと「ごめんね」と謝り、すぐに引き上げようと考えた。泣いて駄々をこねる悠をそのままにし、キッチンの双葉にお礼を言いに行く。

「すみません。片付けが手伝えなくて……」
「いいのよ。こっちこそごめんね。余計なことで泣かせちゃったわね」
「いえ、いいんです。お友達のオモチャとかも、欲しがるのはしょっちゅうだから……」
 貧しいことが恥だとは思ってない。お金で幸せが買えるものでないことも判っている。ただ……両方を併せ持つ、如月の家庭を目の当たりにすると辛い。充分なものを与えてやれない不甲斐なさに、夏海は奥歯を噛み締めた。


 リビングに戻ると、悠は泣き止んでいた。傍には聡が座っている。本来なら当然であるはずの光景に、夏海は胸の奥がズキンと痛んだ。
「ママ! おじちゃんがおっきいコイさんかってくれるって!」
 その言葉に、夏海の心は引き裂かれた。悠のせいじゃない……そんなことは判っている。でも、無邪気な笑顔が、息苦しいほど彼女の胸を締め付ける。
「ダメよ――ダメ。ゆうくん、知らないおじさんに、何かを買って貰うなんてダメなのよ。ママいつも言ってるでしょ!」
 ヒステリックに叫ぶ夏海に、聡はビックリして口を挟んだ。

「大したものじゃない。それに、知らなくはないだろう。会社の上司だ」
「普通の上司は、鯉のぼりなんて買ってくれません! それに……うちは小さなコーポです。立てる場所もないんです」
 頑なな返事に聡も思わずムキになる。
「コーポの敷地内ならいいだろう。大家には私が交渉する」
「結構です! 余計なことはなさらないで下さい!」
「給料の一部だと思えばいいだろう! 子供が欲しがってるんだ……可哀想じゃないか!」

 『可哀想』……その言葉は、夏海の心に埋められた地雷を踏んでしまった!

「あなたに……あなたにだけは、この子を哀れんで欲しくはないわ! お給料はちゃんと頂いてます。それ以外は一円の施しも受けません! 失礼しますっ!」
 泣きじゃくる悠を抱き上げると、夏海は如月邸を飛び出した。涙が溢れて止まらない。でも、その涙は誰にも見られたくなかったのだった。


「なんだあの女!」
 たかがあんな事にムキになって……頑固にも程がある。自分のせいで、子供に不自由な思いをさせながら、はした金は受け取れないということか。だが……可能性は確信へと変わった。
 聡たち兄弟は、大人になって面差しがだいぶ変わったが、子供の頃は非常によく似ていた。悠は間違いなく、一条家の血を引いている。匡か自分の子であることはほぼ間違いないだろう。
 欲しい――聡の心はそう叫んでいた。
 最早、匡の子でも構わない。息子と呼び、自分の築き上げた全てを托せる子供が欲しくて堪らなくなった。

 この時、聡は自身が大きな過ちを犯していることなど、気付く由もなかったのだった。

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