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《『倉本藍の営業/日下渚の困窮』シリーズ一覧》

日下渚の困窮(4):不揃いな天秤

作者: 賀茂川家鴨

倉本蒼「希望は、誰かに与えられるものではなく、自ら獲得するものではないでしょうか。もっとも、希望が現実に存在するならの話ですけれど」

「行ってきます」

 冬の終わりのことです。

 私、日下渚くさかなぎさは目をこすります。眠いのです。

 肩辺りまである黒髪を束ねて、左耳の上辺りにしっぽを作ります。

 真奈花まなかお姉ちゃんはまだ眠っています。

 わたしの容姿は、真奈花よりも子どもっぽいです。

 真奈花の髪は金髪で、目の色は蒼色です。

 わたしと真奈花とは血が繋がっていません。

 かつて、わたしの両親が真奈花を養子にしたためです。

 早朝四時半に起床したわたしは、配達用の新聞を受け取るために出かけました。

 いつもより三十分早いです。


 わたしは部屋をこっそりと出て、マンション二階のドアに鍵をかけました。

 隣室の倉本さんが、手すりに腕を着いていました。

「おはようございます、倉本さん」

 倉本さんはわたしを一瞥すると、疲れた笑顔を浮かべました。

 倉本藍くらもとあおさんは、肩辺りまである黒髪を垂らしています。

 私と同じクラスで、トマトが挟まれたサンドイッチをよく食べています。

「おはようございます。渚、君は、まだ新聞配達を続けているのですか」

「はい。倉本さんは、お疲れですか」

「そんなところです」

 わたしは、アルバイトを終えてからそのまま登校できるように、安物の黒いジャンパーの下には制服を身に着けています。学生用の肩かけ鞄を携え、準備万端です。

「君は、とことん努力家ですね」

 倉本さんは雄大な朝日を背に、腕を広げました。

 倉本さんの闇色の瞳が、影に彩られた身体の中で、くっきりと浮かびます。

「ところで、どうして君はそこまで落ち着いていられるのですか。君の知り合いは魔物になり、君はその魔物の哀しみに道連れにされそうになってしまいました。私や真奈花は平然と魔物を蹴散らし、いま、君はこうして生きています。私が記憶を消すまでもなく、君は平然としています。どうしてですか」

「それは、わたしが盗み聞きしてしまったからです」

「盗み聞き、ですか」

 わたしは倉本さんの隣に立ち、手すりに背をもたれました。

 倉本さんは振り返り、再び朝日を眺めます。

「真奈花お姉ちゃんと倉本さんが、夜中にこっそりと会話しているところを、盗み聞きしてしまったのです」

「具体的には?」

「倉本さんが悪魔で、真奈花お姉ちゃんは、わたしが安心して学校に行けるようにするために、倉本さんを従わせる契約していて、それから……」

「あはは、滑稽な話ですね。すべてお見通しというわけですか。どうしますか。私に真奈花の魂を返してほしいですか」

「いいえ、お姉ちゃん……真奈花は、そんなこと望んでいないと思います」

「おやおや、そうですか」

 倉本さんはわたしに向き直り、わたしの肩をつかみました。

 倉本さんは、満面の笑みを浮かべます。

「真奈花は面白いですよ。他人のために悪魔を従わせたのです。普通の人間は、金や色欲、永遠の生命など、自らのために下らない願い事ばかりしては、破滅していきます。何かを得るということは、何かを失うことでもあることに、何故気づかないのでしょうか。それに比べて、真奈花は他人のために、強い意志と欲望を持って、悪魔を我が物としてしまったのです。これには一本取られました」

 倉本さんはニヤリと怪しく笑いました。

 でも、ちっとも怖くありません。倉本さんはわたしと真奈花のために、いろいろと勉強を教えてくれました。絵画のこととか、音楽のこととか、学校ではなかなか教えてくれないことも、たくさん教わりました。

「私にはあなたの面倒を見る義務があります。私は知的生命体の強い欲望が大好きです。さあ、渚、君の悩み事を言って下さい。私が何でも叶えてあげましょう」

「ごめんなさい。わたしは、自分で頑張りたいのです」

 私は首を横に振りました。倉本さんは笑顔のまま頷きます。

「君なら、そう言うと思いました」

 私は胸の前で手を組み、ふとこみあげてくる涙をこらえます。

「わたし、思ったのです。わたしのせいで友達が魔物になってしまったのは、わたしのこころが狭いからです。でも、人間はお金がないと、こころも貧乏になってしまうみたいです。だから、高校を卒業したら就職して、お金をたくさん稼いで、真奈花や倉本さん、大家さんやほかのお友達にも、幸せを分けてあげられるようになりたいのです」

「高卒で就職ですか。君は人間ですから、もっと大きな夢を抱くために、考える時間を得てもいいのですよ」

「そんな余裕はないのです」

「大学では、奨学金が貰えます。成績優秀なら、利子なしで借りられますよ」

「あんなこと言いましたけれど、将来、お金を返せる自信がないのです。もし返せるとしても、何年にもわたって借金を背負って生きていくのは嫌なのです。それに、わたしは倉本さんみたいに頭がいいわけではないのです。だから、私は大学には行きません」

 わたしは頑張って笑いましたけれど、目から熱いものがこぼれてきました。

 倉本さんは私の顔を眺めて、薄く微笑みました。

「……ふむ。渚、話は変わりますが、いまの社会をどう思いますか」

「社会、ですか?」

「そうです。君達のような大衆が支配する人間社会です。社会では家計、いわゆるお金がものを言います。私の肌感覚ですが、現代の人間社会では、経済格差に翻弄されていることを嘆く人間をたびたび見かけるようになりました。渚、君はその一人です。君は、社会をどう思いますか」

「……よくわからないのです」

「では、もっと実際的なことをにしましょう。君は、いまの自分の給料をどう思いますか」

「高校生にしては多いほうだと思うのです」

「不満ではありませんか」

「生活は大変ですが、文句を言うわけにはいきません」

「どうしてですか」

「わたしが働いているところは、新聞を配達するためだけではなくて、働いているわたし達にお給料を渡すためにも、必死で頑張っているのです。それに、わたしよりも辛い思いをしている人間は世界にたくさんいると思います」

 倉本さんはにこにこ笑いながら、肩をすくめました。

「今日の授業の一環として、私は君の意見をあえて批判してみましょう。まず、前者について。君はデスティエット・ド・トラッシーと同じことを言っています。この言説が持つ矛盾は、カール・マルクスが何年も前に『資本論』の中で批判しています。ことによると、君の頭の中身は、経営者により、都合のよいものにさせられているのではありませんか」

「昔の偉い人のことはよくわかりませんが、そんなことはないと思うのです」

「ふむ、そうですか。では、後者について。経営者は、下には下がいることを労働者に見せ付けることで、低賃金で過酷な労働を強いることが容易になります。君は過酷な労働を強いられているのではありませんか」

 わたしは普段のアルバイトを思い出します。大変なことといえば、毎日早起きして、あちこち歩くくらいです。もちろん、あちこち歩き回ると、すぐに息が上がってしまいます。お腹も空きます。でも、おかげで、学校を寝坊で遅刻することはありません。少しだけ体力もつきました。

「わたしは過酷な労働をしているわけではないと思います」

「君の基準ではそうかもしれません。私は人間ではありませんから、過酷な労働の絶対的な基準というものがわかりませんが、相対的な基準なら簡単に作り出すことができます」

 わたしは少し頬を膨らませました。

「みんな良い人ばかりです。倉本さんも働いてみればわかります」

「あはは。いくら働いてみても、人間の気持ちはわかりませんよ。私は悪魔ですから」

「なら、どうしてわたしのことを気にかけてくれるのですか。悪魔が人間を気遣うのですか」

「ふふ、君は盗み聞きをして答えを知ったはずです。本来、人間生活がどうなろうと、私には興味のないことですが、私には君を保護する義務がありますので、見過ごすわけにはいきません」

 わたしは目をぱちぱちさせました。

 わたしには、倉本さんがどうしても悪魔に見えません。

「さて、授業はやるべきことを済ませてからにしましょう。そのときは真奈花も一緒ですね」

 倉本さんは、二回の手すりを飛び越えて、一階に着地しました。

 地面までは、高さ五メートルくらいあります。わたしにはとても無理です。

 身体がそこまで強くないので、きっと、骨が折れてしまいます。

 倉本さんは振り返り、わたしを見上げました。

「渚。君は、将来のことを、じっくりと考えてみてください。私はこれから営業に向かうとしましょう」

 倉本さんは、忽然と姿を消しました。わたしは、ちっとも驚きません、

 倉本さんの声が頭の中に響いてきます。

「悪魔でよければ、悩みを聴きます。いつでも私に呼びかけて下さい」

 私は小さく頷くと、新聞配達に向かいました。(了)

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