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短編 恋愛

フィナンの天使は進化した

作者:守野 伊音
「うーん……いい天気」

 フィナンはベッドの上で両手を上げて肩を回した。昨日まで酷使していた瞳と肩が悲鳴を上げていたが、昼近くまでぐっすり眠り続けたおかげで疲労はだいぶ飛んで行ってくれた。
 量が多く癖のある、紫に白を混ぜて水で薄めたような曖昧な色の髪は、風呂上り碌に乾かさず眠りについたおかげで鳥の巣よりもひどい惨状だ。もっさりと膨れ上がった髪に手を突っ込み、がりがりと頭を掻く。
 よれたシャツを直しもせず、裸足で床に降りて空になった絵の具を蹴飛ばす。
 フィナンは画家だ。食うにも困る画家が氾濫する中、ありがたいことに食うには困らない程度には売れている。昨日も贔屓してくれている貴族令嬢の誕生日祝いの絵を納品してきたばかりだ。
 荒れた部屋を見回して、ぼりぼりと腹を掻きながら欠伸を一つ。部屋中に散らばった絵の具に、板、パンくずは食べこぼしか消しパンの残りか。

「……とりあえず、画材買いに行くかぁ」

 ふわぁと欠伸をして、部屋の惨状から目を逸らした。


 歯を磨き、顔を洗い、伸ばしたというより勝手に伸びた髪に適当に櫛を入れて一つに纏める。食べるものもないので、遅い朝食兼正常な昼食を取りがてら、散歩してもいいかもしれない。仕事開けなので懐も温かい。
 くたくたによれたシャツから、少しよれたシャツへと着替え、タイを締める。ベストを合わせ、帽子をかぶると、フィナンは鏡を見直した。
 眠たげなアーモンド形の瞳をくいっと上げて、にっと笑う。

「よし」

 懐は温かく機嫌は上々、睡眠だってぐっすり取れて体調も万全。
 天気もいいし、風も気持ちいい。今日はいい日になりそうだ。


 鼻歌交じりに靴に足を突っ込む。爪先を床にとんとんと歌わせ踵を収めながら、フィナンはご機嫌で扉を開けた。
 ご機嫌に揺れていた瞳は、そこに影を捉えた。廊下の突き当たりにある窓から入る光で左に伸びた影だ。影はまっすぐ伸びているから、屈んで靴を履きながら戸を開けた自分の影であるはずがない。
 つまり、そこに誰かが立っているのだ。
 ここは借家で、他の部屋も人が埋まっているからそれ自体は別段不思議なことではない。隣の住民か、はたまたこの階層の誰かを訪ねてきた客人だろうと簡単に当たりがつけられる。
 愛らしい薄桃色の靴と、綺麗なレースの靴下。そこから伸びる足首まで覆った長いスカート。上品なお嬢様だ。
 隣りの部屋の、万年床で生やしたキノコを食べて生計を立てている売れない劇作家の知り合いだろうか。彼も隅には置けないなと感心する。

「これはどうもすみませ」

 外を気にせず扉を開いてしまったことを謝罪して顔を上げたフィナンは、その動きを止めた。

 視線を上げた先では、絶世の美女がいた。男なら奮いつきたくなるような、というにはあまりに美しい。まるで芸術品の一つであるかのように完璧な配置の顔は、そういった感情で見ることすら申し訳ないと思ってしまいそうだ。
 丁寧に伸ばされた長い金髪の一部が編みこまれ、金の糸を束ねている。束ねた部分に薄紫色の花を挿し、露わになった首筋にも小さな薄紫の花、耳にも薄紫色の石が揺れている。
 国立美術館で数多の人間を虜にしてきた芸術品がそこにいるといわれたって、フィナンは納得しただろう。
 しかし、フィナンはそれに見惚れたりはしなかった。ひくりと口元が引き攣る。絵の具がすっかり入りこんで取れなくなった爪先で、無意識にそれを指さす。

「…………アンジェ?」

 フィナンより頭一つ大きな芸術品は、この世の春を解放したかのような笑みをふわりと浮かべる。

「お久しぶりです、先生」

 七年前に別れた弟子は、天使の名にふさわしい笑顔を浮かべた。





 十年前、フィナンがまだ十代で、今より生計が不安定だった時代。
 一度だけ弟子を持っていたことがある。持ったというか、拾ったのだ。

 明日の食事に困ったり、たまに懐が温かくなったりの日々を繰り返していたある雨の日。安宿へ帰ろうと急ぎ足で裏路地を走り抜けていたフィナンは、ゴミ捨て場で震える金色の少女を見つけた。
 大きく息を吐けば白く染まるほどには寒い雨の夜に、少女は裸足でかたかたと震えていた。年の頃は十歳を超えるかどうかといった年齢だ。厄介事には関わりたくなかったが、子どもが夜の闇で一人震えていることは尋常ではなかったし、その胸元が引き裂かれたかのように乱れているのを見て見ぬふりをできるほど鬼畜ではない。
 フィナンは少女を脅えさせないようそっとしゃがみ、傘を差しかけた。
 少女は傷ついた獣のように眦を吊り上げ、フィナンに背を向けないままゴミの中に身を隠そうと這いずっていく。

「…………ご両親は?」
「…………死んだ」
「家は?」
「…………出た」

 酷く簡単な返答ではあったが、答えてくれたことに安堵した。答えの内容自体に安堵できる要素は欠片もなかったが。

 寒さで青白くなりすぎてはいるものの、白くすらりとした手足。整った顔付きの、身寄りのない美しい少女。破片で切ったのか血を流す裸足の足に、乱れた服。
 フィナンは大きく息を吐いた。肺の中が空っぽになりそうな特大の溜息を吐き、湿った頭をがりがりと掻く。

「来る?」

 これを見捨てられるのは人非人くらいだろうし、見捨てるために人の道を外れたいとは思わない。
 傘を差し出した手とは逆の手を差し出す。フィナンはこの頃から既に爪の間に絵の具が詰まっていた。それに気づいた少女は目を丸くして、初めて警戒以外の視線をフィナンに向けた。

「画家、なの?」
「駆け出しのね。言っとくけど、私は貧乏だよ。パンの耳恵んでもらいながら生活してるくらいだ。それでもいいならおいで。屋根のある寝床くらいは提供してあげられるよ。私が怖いならどこか優しいご夫婦の家を探してあげるから、とりあえず今日はおいで。そのままでは凍えてしまうよ」

 しゃがみこんだコートの裾が地面について水を吸っていくけれど、フィナンは根気よく少女に語りかけた。青い瞳が汚れていくコートの裾を見て、全て自分に差しかけられた傘を見て、差し出された手を見た。
 最後にようやっとフィナンと目を合わせた少女は、ぐしゃりと顔を歪ませた。

「絵を、教えてくれるって、言ったのに」

 寒い雨とは違う水をぼろぼろ零してしゃくり上げる子どもに、フィナンはびっくりした。

「絵が好きなの?」

 少女はしゃくり上げながら頷く。綺麗な顔をぐしゃぐしゃにしてフィナンの胸に飛び込んできた。尻もちをついて受け止める。コートもズボンも下着も壊滅したが、フィナンは諦めて震える身体を抱きしめた。ころころと転がっていく傘を見ながら、開いたコートの中に子どもを包む。

「絵、教えて、くれるって、言った、のに、ひ、ひどいこと、しようと、する、から、にげ、にげて」
「…………分かった。大体分かったから、もういいよ」

 弟子に、モデルに。そういう名目で子どもを連れ込み、無体を働く人間は少なからずいる。どこにだってそういう輩はいるのだ。そんな奴らが同じ画家を名乗るのは胸糞悪いが、どこにだって鼻つまみ者は現れるのが世の常なのである。
 画家自体がそういう目に合うことだって少なくない。人通りの少ない野山で、招かれた貴族の屋敷で、いつだってそういう危険は付きまとう。だから、女の画家は少ない。
 だが、それはいま腕の中で震える少女に言うべきことではないだろう。
 自分の明日さえ知れぬ身でひょいっと拾える代物ではないとも分かっていた。それでもいまこの時この子を見つけたのが自分である以上、これもまた運命だろうかとフィナンはため息をついた。




 十にもなれば一通り自分でできる年頃だ。風呂も着替えも一人寝も。
 手がかかるどころか、フィナンよりも家事がうまく世話になってしまったほどだ。
 うまく結えないと鏡の前でしょんぼりする背中に負けて、髪だけは結ってやったが、フィナンだって手先が器用な訳ではない。そもそも、器用ならば自分の髪だって鳥の巣のまま一纏めにしたりしないのである。鏡の前を陣取り、二人であれやこれやと思考錯誤しながら鳥の巣二号を作り出すのが朝の日課だった。


 アンジェはよく働いた。朝はフィナンより早く起きて朝食の支度をしたし、掃除もこまめに行う。洗濯は各自で、でもシーツは二人で一緒に。そんな些細なルールをちょこっと決めただけで、二人の生活は非常に滞りなく進んでいった。



 無心で筆を滑らせるアンジェの後ろから絵を覗きこむ。窓から見える景色だ。流れる風の様さえ閉じ込めてしまったかのように息づく風景に、ほぉっと息が漏れる。

「いいね、世界が綺麗だ」

 くしゃりと頭を撫でれば、アンジェは絵より余程美しく微笑んだ。
 この子には才がある。そう気づいたとき、フィナンは自分がそう言われた時より何倍も嬉しかった。


 あまり定住を好まないフィナンは、よく移動した。子どもを連れ回るのはどうだろうと、この頃だけ少しは加減したが、それでも定住よりは旅をしていた間のほうがよほど長い。
 少し長居するときは、大家の家や宿屋に飾る絵を描いて家賃や宿代を安くしてもらったり、時にはタダにしてもらった。以前仕事をした時に縁のある貴族からの紹介で、次の貴族に紹介してもらい、その紹介でと縁を繋ぎ、貴族の肖像画などでたまにがつんと稼いでは次へと進んだ。
 刹那的と言われればそうだったのかもしれない。しかし、画家などそんなものだ。パトロンについてもらえれば安定した生活が望めるが、そんなものは鬼才か顔の良い画家だけだ。
 だが、フィナンはそれでよかった。家族から画家になることを反対されて家を飛び出したのだ。見つかりたくはない。あちこちふらふら放浪しながら絵を描くのは性にあっていたから余計にだ。
 貴族の屋敷に行くときはアンジェを連れてはいかなかった。天使のように美しい少女だ。パトロンになりたがる者は多いだろう。しかし、出会いがあれだったので必要以上に警戒した。金持ちの道楽で手籠めにさせて堪るか。

「先生!」

 最初はなかなか外に出たがらなかったアンジェは、一緒に買い物に、一緒に絵を描きにと時間を掛ければ一人で外出だって出来るようになった。
 仕事を終えて部屋へと向かっていたフィナンを見つけた少女は、ぱっと笑って買い物かごを揺らして駆け寄ってきた。
 あまりたくさんは渡してやれない小遣いをうまくやりくりして購入した可愛らしいワンピースを着ている。ふわふわとした春色の、まるでアンジェの為に作られたかと思える愛らしいワンピースだ。レースや刺繍は自分で編んで縫い付けている。どうやらこの子は自分より手先が器用だと、フィナンは苦笑した。

「お帰りなさい、先生」
「ああ、ただいま。何を買ったの?」
「林檎です。三つもおまけしてくださったんです」

 嬉しそうににこにこ笑うアンジェの向こうでは、やに下がった店主と視線が合った。あの野郎、と、フィナンは舌打ちした。最初にフィナン一人で買いにいった時はおまけどころか傷みかけの虫食いをよこそうとしたくせに、と。

「あ、先生。少ししゃがんで頂いても宜しいですか?」
「ん?」

 何かに気付いたアンジェが控えめに窺ってきて、とりあえず腰を屈める。同じ絵の具の匂いがする身体がふわりと近寄ってきて、失礼しますとするりと手を伸ばしてきた。首元でごそごそと動き、少し締まる。

「タイが曲がっていましたよ」
「ああ、ありがとう。どうにもこういうのは苦手で」

 少し気恥ずかしくて頬を掻くと、その袖のボタンもぴんっと飛び跳ねている。アンジェはワンピースよりも愛らしくくすくすと笑った。

「先生は絵の才がおありですのに、こういう所は可愛らしいですね」
「お前は絵も家事の才も両方あるよ。いいお嫁さんになれるね」

 買い物かごを受け取ると、あっと声を上げたアンジェに手を差し出す。うっすらと頬を染めたアンジェは、恥ずかしそうに口元を覆い、きょろきょろと視線を泳がせる。

「し、失礼します」

 耳まで赤く染めたアンジェは、そぉっと白く細い指を伸ばし、気長に待っていたフィナンの手をそっと握った。



 気づくべきだったのだ。
 フィナンは後悔した。
 いつからか、アンジェの瞳には熱が篭りはじめていた。色を持ち、熱を持ち、青い瞳から溢れだした熱の名は、恋だった。
 多感な時期だ。普通と呼ばれる生活から一歩外れた場所で、年上の男と二人っきりで過ごす。それも、大好きな絵を教えてくれる、先生と呼んで慕う男だ。多感な時期の少女が、親愛を恋と勘違いしても仕方がない。そうさせてしまったのはフィナンの罪だ。師であり、大人であるフィナンが気づき、気をつけなくてはいけない事だったのに、初めての弟子で浮かれた。始まりの夜の子どもがあまりに哀れで、可哀相で。一身に慕ってくれる様があまりに愛らしくて、愛おしくて。
 まるで娘のように、妹のように、可愛がってしまった。
 きちんと境を隔ててやらねばならなかったのに、隔てさせることを忘れてしまったのはフィナンの罪だ。

 ああ、可愛い可愛いアンジェ。
 私はお前を受け入れてはやれないんだ。
 お前の気持ちに答えてはやれないんだよ。

 何度そう言おうとしたか分からない。
 しかし、言えなかった。何故ならアンジェは何も言わなかったのだ。きっと瞳から溢れだしている気持ちに気づいていないのだろう。フィナンが気づいていることにも気づいていないのだ。
 アンジェが自分の中で仕舞っている気持ちを無残に切り裂く権利が、自分にあるのだろうか。
 花が綻ぶような笑顔を浮かべて自分を呼ぶアンジェに答えながら、フィナンは全てを覆い隠して笑った。
 出会って三年が過ぎ、アンジェは十三歳になっていた。



 それから一年間、フィナンは考え続けた。
 きちんと溝を作り直せばいいのかと境を立てもした。しかし、そうすると「先生、私は何かお気に触ることをしてしまったのでしょうか」と、アンジェはさめざめと泣いた。食事も喉を通らなくなり、花は今にも散ってしまいそうにやつれてしまった。花よりも儚げな姿で必死に謝り、気に障る場所があるなら直します、先生が私の全てですと泣いて縋る美しい少女に愕然とした。
 少女のそれは、既に恋を通り越し、執着と依存が乗っ取っていたのだ。

 このままではいけないとフィナンは必死に考えた。美しく才ある少女を、自分の所為で壊してしまう訳にはいかない。たとえ画家にはならずとも、色んな道があるはずなのだ。どんな道でも選べるこの子の行く先を、自分の至らなさで壊してしまうなんて許されない。何より自分が許せない。
 幸せになってほしかった。冷たい雨の夜に一人震えていたこの子には、温かな家で優しい愛に包まれて生きてほしかった。それはフィナンの願望だった。フィナンの願いだった。そうと分かっていたけれど、フィナンはアンジェに幸せになってほしかった。
 だって、愛しているのだ。
 可愛いアンジェ。
 優しいアンジェ。
 その想いに答えてやれないことが歯がゆいほどに、愛おしいアンジェ。
 どうか幸せになって。
 私のことなど忘れた場所で、私を踏み台にして高く高く飛び立ってほしい。


 フィナンは、アンジェを手放すことにした。
 信のおける知り合いの画家にアンジェを弟子入りさせてくれるよう頼みこんだ。画家は中年の男だが、朗らかな性格の妻と二人暮らしをしている。子どものいない夫妻は快く引き受けてくれた。しばらくは不安定になるだろうアンジェはどうしたって心配だけれど、傍にいれば悪化する。離れることがアンジェの為だと思った。
 そして、それは正しかった。

 こっそりとやり取りしていた手紙では、最初の頃は心配していた通りだった。食事もとらず、夜も眠らず、着の身着のままでフィナンを追っていこうとしていたという。
 しかし、一年、二年と経つ頃にはそんな気配も薄れ、絵に没頭し始めた。元より才のあったアンジェは、今では名の知られた画家となった。遠く離れたフィナンの耳にも届くほどの評判だ。
 口さがない中には、身体を使っただの愛妾だの罵る噂も混ざる。
 フィナンはそれらを鼻で笑った。あの子の絵を見たことがないのだろう。一度でも見ればくだらぬ噂より絵の話題しか出てこないはずだ、私は見たことがあるぞと自慢した。絵の基本を教えただなんて恥ずかしくて言い出せやしなかった。
 それでも、あの子の絵は素晴らしいのだ。一度見れば虜になる。あんなに美しい世界は見たことがない。綺麗なあの子の見た世界だからこそ、あれほどに美しいのだと滔々と語るフィナンに、初めは馬鹿にしていた者達も、そんなにも素晴らしい絵を描くのなら一度見てみたいと興奮した面持ちで話した。
 何気ない日常を形作っただけだ。目に見えた物に近づけ、景色を紙へと映し出す。しかし、そこに彩が現れる。画家の目で見た彩で彩られた世界、それが絵だ。隣り合って歩く恋人同士が同じ空を見ても、同じ青を見ているとは限らない。その者だけの空がある。その空を描き出すのが画家なのだ。
 アンジェの彩は美しかった。彼女の見ている世界はそれほどに美しいのかと、今にも彩が弾けだしそうな絵に見惚れ、夢の中でまどろんだ。
 美しい世界で生きる、美しい少女。
 フィナンは少女を愛した。少女の天稟を愛し、共に過ごした時間を愛し、少女の彩に焦がれた。
 彼女の紡ぐ世界に恋をした。アンジェの紡ぐ世界に恋をしたフィナンは、それを決して語ることはなかった。画家の絵とは自身だ。画家自身なのだ。七つも年下の少女に恋をしたと声高々に語れるほど、フィナンは恥知らずではなかった。



 二年前、手紙が届いた。アンジェを預かってくれた夫妻からの手紙だった。
 この度アンジェは独り立ちをした。だから、もう仕送りは必要ないとの旨が書かれていた。元々そんなの必要ない、どうしてもというのならもっと金額を減らしていいんだと言われていたものを、フィナンが強引に送りつけていたものだ。貯まってしまった分は、独り立ちする資金としてアンジェに渡したと書かれていて、改めて感謝の手紙と美しい色が出ると評判の絵の具を送った。
 そうか、画家になったのか。
 いろいろと大変だろうけれど、彼女ももう大人だ。ならば、彼女が選択した道にとやかくいうつもりはない。その資格も、フィナンにはない。
 遠くから見つめよう。離れた場所から轟く彼女の名を聞いて勝手に悦に浸り、彼女の絵を見る機会があればすかさず出かけて目に焼き付けよう。
 それくらいは許されていいだろうか。
 手放した癖に、最後まで面倒を見てやることも出来なかった癖に。まるで雛鳥を見送ったかのような感慨を覚えた晩、フィナンは飲み明かした。相手のいないグラスに酒を注ぎ、打ち鳴らして飲み干す。何度も手紙を読み返した。独り立ちしたアンジェの旅立ちだけでなく、フィナンへの激励の言葉まで幾度も幾度も綴られていて、本当にありがたい。
 一人であげた祝杯は、今までのどんな夜よりもうまい酒だった。


 フィナンは変わらず細々とやっている。たまにすっからかんとなり、ひいひい泣きながら画材を買うだけの金しか工面できなかったりと危機に陥ったりはするけれど、画材すら買えないほどの危機には陥らずなんとかやれていた。
 あれから弟子はとっていない。時々弟子入り志願がやってきたり、弟子を持ってみないかと声をかけられる。だが、たった一人の弟子すら幸せにできなかった自分がどの面下げて新たな弟子を取れるというのだ。

 そうして、なんだかんだと変わらぬ時を送っていたフィナンの日常は、目の前に現れた天使によって粉々に砕け散った。





 握り潰して空になった絵の具が散乱した床を懐かしそうに眺めて、天使は微笑む。絵の具で汚れた脱ぎっぱなしのシャツにズボン、転がっている空のコップに折れた筆。普通の人ならば眉を顰めるほど絵の具の匂いが篭りきっていたが、同職であるアンジェは気にならないらしくどこか嬉しそうだ。
 その様子をちらりと窺いながら湯を出す。食料品の類は今から買いに行こうと思っていたので茶葉すらないのだ。
 とても美しい大人の女性になったアンジェに、白湯を出す。なんだか非常に申し訳ない。これだけ散らかり放題の部屋に、今しがた荷物を蹴りのけて確保したソファーに座らせるのも居た堪れない。

 隣りに座ることも出来ず、絵を描いているときの木椅子を引っ張ってきて前に置く。しかし、そのままずりっと引っ張って斜め前に置き直した。どうにも居心地が悪くて前にも居辛かったのである。
 フィナンは両手で持ったカップを遊ばせた。無意味に揺らして中で波打つ湯を眺めている間もアンジェは無言だ。少しでも換気しようと開け放した窓からは、子ども達がはしゃぎながら駆け抜けていく声がする。その元気と明るい空気を少しでも分けてほしいなと思いつつ、ちらりとアンジェを窺う。
 瞬きすらしていないのではないかと思える瞳がじっとフィナンを見ていた。思わず目を逸らした。しかし、これではいけないと唇の裏をそろりと舐める。

「えーと……久しぶりだね」
「はい、ご無沙汰しております。突然伺ってしまって申し訳ありません」

 気負って絞り出した言葉に、まるでこの十年間などなかったかのようにふんわりとした声音で返してきたアンジェに拍子抜けする。

「本当だよ。驚いた。言ってくれれば片づけくらいしたんだよ?」
「ふふ、すみません。今度は私が先生を驚かせようと思ったので」
「なるほどね。参った、降参だ」

 くすくすと少女の頃のまま笑うアンジェに、フィナンも微笑んだ。
 ああ、この子は変わらなかった。よかった。自分なんかの為に変わってしまわなくて本当によかった。
 ほっと肩の力を抜き、フィナンは足を組んだ。

「元気そうでよかった」
「ええ、先生もお元気そうで何よりです」
「まあ、それなりにやっているよ。お前の噂も聞いているし。素晴らしい絵を描いているね」
「先生にそう言って頂けることが何よりの喜びです」

 穏やかに微笑んだアンジェは、カップを両手で握って俯いた。そして、意を決したように顔を上げる。雰囲気が変わって組んでいた足を下ろす。

「フィナン先生。本日は、先生にお伺いしたいことがあって参りました」
「何だい?」

 聞かずとも、本当は分かっていた。フィナンは戸棚の上にカップを置いて背筋を伸ばす。
 アンジェは花よりも可憐な唇をきゅっと噛み締めた。

「どうして私を置いていったのですかっ……!」

 身を切り裂いたかのような悲痛な声に、フィナンはそっと瞳を伏せた。
 お前の為だからだよ。そのほうがお前の為だったからだよ。
 先生として生徒に答えるのならそれが正解だろう。お前の為だと断言して断ち切るべきだ。お前と私はそれ以上の関係ではないのだと線を引いて、お前の人生を生きるのだと、私はお前の人生に必要ないのだと断言して思い知らせる。

「私の想いに気付いていたのでしょう。それをお厭いだったのなら、一言そう言ってくださればよかったのです。気持ちが悪いと蔑んでくださったのなら、私はちゃんと絶望できた。それなのに、優しい方へと託してくださった。毎月毎月きちりと仕送りを送ってくださった。あなたはいつもそうです。あの夜ですら、私に絶望を与えてはくださらなかった。世界の色はこんな闇しかないのかと絶望しかけた私を、見つけてくださった。世界を呪わせてくれたのなら、絶望させてくれたのなら、私は何もかもを諦めていけたのにっ!」

 悲痛な声を上げて涙を流すアンジェを前に、用意していた答えを言おうと思った。
 そうするべきだと思っていたのだと。お前の為なんだよと。
 しかし、いざその問いを投げられて、フィナンが答えた言葉は違うものだった。

「私が、立派な人間ではないからだよ」

 苦しそうに歪んでいた青い瞳が見開かれた。唇すらも薄ら開き、驚愕を表している。
 何をそんなに驚いているのかと、フィナンは苦笑した。これだけ立派な大人の女性になって尚、幼い勘違いの尊敬を未だ胸に抱いていてくれたのかと思うとこっちが泣きだしてしまいそうだ。

「……お前が私を慕ってくれていたことに気付いていたよ。気づいたまま、知らぬふりをしたまま、何食わぬ顔でお前を育ててやれれば良かったのに、私には無理だった。お前が慕ってくれて嬉しかったよ。お前が笑ってくれると、自分が特別な人間のように思えた。なんだって出来る気がした。だが、私はお前の想いに答えてやることはできない。アンジェ、私は本当は、何も持っていない、何もできないちっぽけな人間なんだ」

 両手でぐしゃりと薄紫色の髪を握り潰して俯く。頭を抱えて、自分の膝だけを見つめる。
 弟子に自分の醜さと惨めさを吐露するのは、かなり、きつい。それでも言わなければならない。そうでなければ、進めない。自分も、この子も、進んでいけないのだと、会いに来てくれたこの子を見てようやく気付いた。せめてこれくらいは先生らしくしたい。
 生徒を導けずとも、背を押して先に進むよう促してやりたいのだ。

「それなのに、お前を縛り付けてしまいそうだった。お前を手放してやれなくなりそうで怖かった。お前は、どこまでも飛び立てる人間だ。なんだって出来る。お前にはその才能がある。望めばなんだって出来る。そんな人間を、私の我儘で閉じ込めてしまうなど許されるわけがない。…………私はお前が可愛いよ、アンジェ。本当にそう思っている。だからこそ、幸せになってほしいんだ。こんな、先のない私のような人間に囚われていてはいけない。お前は優しいから、私に恩を感じてくれているのだろうけれど、もういいんだ。私はお前からたくさんの美しいものをもらったよ。だから、もういいんだアンジェ。恩は返してもらったよ。恩義を感じていてくれるなら、どうか先に進んでくれ」

 不甲斐ない自分の惨めさを吐露する間、アンジェを見ることすらできない。逃げ出さないよう自分の頭を押さえつけ、言い募る無様な人間を『先生』と一身に慕ってくれたこの子に申し訳なくて堪らない。取り繕うべきではなかったのだ。もっと早く、こんなどうしようもない人間なのだと曝していれば、多感な年ごろの少女のことだ。あっという間に幻想の『先生』に見切りをつけただろうに、そうされることが怖くてずるずると長引かせてしまったフィナンの罪だ。

 アンジェは何も言わない。流石にこれ以上畳み掛けていくことはできないフィナンの沈黙も手伝い、部屋の中は物音一つしないしんっとした空間が出来上がった。
 だからこそ、見てはいなくとも、アンジェが息を吸ったのが分かった。その息が紡ぐ言葉は『がっかりしました』だろうか。いや、優しい子だからそう思っても口には出すまい、『分かりました』だろうか。
 どれだけ頭を抱えて縮こまってもこの子の前から消え去ることもできないのに、穴があったら入りたい。入って隠れて、誰からも忘れ去られたいと願ってしまう。
 アンジェに吸い込まれた息は、言葉となって、答えとして吐き出された。

「先生、私は、あなたをお慕いしています」

 とても静かな声だった。

「その想いを隠していたつもりでした。……実際は、隠しきれず溢れていたようですが、あなたに隠していました。しかし、先生、フィナン先生。私は、あなたに一つ嘘をついていました。隠し事ではなく、明確な意思でついた嘘です」

 何を言っているのだろうと思わず顔を上げたフィナンは、ぎょっとした。椅子ががたりと音を立てる。
 そこにいたアンジェは、まるで宗教画のようだった。
 凄絶な色気を迸らせた、凶悪なまでの美しさ。

「最初は勘違いでした。状況からすれば仕方のないことでしたが、私は、あなたの勘違いを利用しました。あなたに恋をするためにはこれしかないと、私はあなたを欺き続けたのです」
「何、を」

 花のようだった唇が、娼婦のように弧を描く。
 天使の名を持つ美しい女の姿にフィナンは青褪めた。宗教画のようだと思った。
 人間を誑かす、魔性の類だと。

「先生、俺は男なのですよ」
「………………………………は?」

 一段低くなった声音を咄嗟に理解できなかった。声ではなく何か物音がしたと処理しかけた頭の中で、もう一度繰り返す。
 俺は、男、なのですよ。

「……………………は?」

 もう一度呆けた声を上げたフィナンに、アンジェはにこりと微笑んだ。

「だから、あなたに置いていかれた時は気づかれていたのだと思いました。男に恋をされて気持ちが悪いと疎まれたのだろうと。ならば仕方がない。手を放されたのならばしがみつくしかないと思い直し、まずは基盤を固めようと努力しました」
「ちょっと、待て」
「しかし、その間もあなたが恋しくて堪らなかった。柔らかなあなたの絵は誰もを虜にする。男だろうが女だろうが、あなたの虜にしてしまうのです。私に差し出してくださっていた手をどこの女に差し出すのだと、想像するだけで身悶え、胸を掻き毟り、夜も眠れませんでした。おかげで叶わぬ恋に身を焦がす方によく絵が売れましたよ。そんなある日、とある貴族の館でこれを見つけました」

 フィナンは弾かれたように立ち上がった。椅子が倒れて転がっていく。
 そんなフィナンを気にせず、それどころかどこか楽しげな様子でアンジェは一枚の紙を取り出した。
 十代半ばか、それよりもまだ少し年下の少女の似顔絵だ。癖のある髪を無理矢理まっすぐに伸ばし、重たい飾りをつけたまま両端に長く垂らした少女は、アーモンド形の瞳を濁らせ、にこりとも、引き結びもしないつまらない唇でこちらを見ている。

「お前……それ、どこで…………」
「東の豪商、アタカ家の一人娘、フィリス・アタカ。未だに探されていますよ、先生。だから、ずっと男の恰好をしていらしたのですか? 家に連れ戻されないように?」

 フィナンはアンジェにした事のない乱暴な動作で紙を奪い取り、すぐに引き裂いた。無駄にいい紙は破きにくかったが、裂いた後はぐしゃぐしゃに丸めて放り出す。今が冬ならばストーブですぐに燃やしてやりたかったが、あいにくと春の温かさを風が運ぶ季節。火はなくて、替わりに足で踏みつぶす。

「…………誰かに言ったか?」
「まさか! 俺はあなたの弟子ですよ。先生を売るはずがないではありませんか。しかし、どうして家を出たのですか? 画家になることを反対されたのですか?」

 頭痛と疲労がどっと伸し掛かってくる。座ろうにも椅子はさっき自分で蹴倒してしまった。フィナンは長い長い溜息を吐いて額を押さえた。

「あいつらは血を残したいだけだ。画家になりたいのなら子どもだけ作ってよこせと言われて完全に縁を切った。あんな家の血は残さないほうが世界の為だ。私に兄弟がいないのも運命だろうよ……しかし、まだ諦めていなかったとは。子どもが望めない歳になるか、あっちが死ぬかの根競べだな、これは」

 ほとんど忘れていたのに、未だ終わっていなかった事実を知って疲労が増す。もうソファーに座ってやろうと顔を上げたフィナンは、手首に温もりを感じて瞬きする。
 次の瞬間、くるりと視界が変わってソファーに座っていた。
 念願のソファーに座れ、ほっと気が抜けたはずだった。絶世の美女が両端に腕をつき、足の間に膝をついていなければ。

「先生、あなたをお慕いしています」
「……何故、いま、言った?」

 いつの間にか口内がからからに乾いている。嫌な汗が背を伝い、身体が冷え切っていく。おかしい。なんだろうこれは。フィナンは混乱した。
 可愛いアンジェ。
 その名の通り、天使のように愛らしいアンジェ。
 そうだ、目の前にいるのは可愛いアンジェだ。そのアンジェと向き合っているのに、何故こんなに緊張を強いられているのだ。
 何故、天使とは程遠い、悪魔のような瞳で自分を見下ろしているのだ。

「先生、分かっておいでですか? 俺は、あなたを見つけたのですよ?」
「そう、だな…………それが?」
「一生懸けても探し続けるつもりでした。一生懸けて見つけ出すつもりでした。そのあなたを見つけたのです。二度と、逃がすとお思いですか?」
「…………アンジェ?」
「あなたがどこに行こうと構わない。俺はずっとお傍にいますから。あなたがこの手を離すなら、俺があなたを捕まえる。俺は、もう二度と、あなたを逃がすつもりなんてないのです…………先生、あなたはあの夜、俺を見つけてくださった」

 アンジェは、まるで春が到来したといわんばかりの満開の笑顔を浮かべた。

「けれど、あなたは俺に、見つかってしまったのですよ」

 うららかな風が吹く昼下がり。
 フィナンは悪魔に見つかった。



 天使の名を持つ悪魔は、その言葉を違えることなくフィナンの傍に居続けた。

 隣の売れない三流劇作家が書いたのとか疑いたくなるどたばたとした騒動中も、実家が絡んだ揉め事中も、目を覆いたくなるような恋愛劇中も、本当に生涯懸けて傍に居続けた。


 ドレスを着た悪魔との結婚を報告しに行った画家夫妻は、驚かないばかりか、何故かああ……と同情的な視線をフィナンにくれた。
 絶対逃げきれないと思った。
 そうしみじみと語る夫妻に、フィナンはようやく気が付いた
 悪魔の独り立ちを知らせてくれた手紙の激励は、本当に、心からの激励だったのだと。

 最早、恐怖も疲労も躊躇いも底を尽きたフィナンは、呆れた瞳で悪魔を見上げる。
 すると悪魔は、天使の名にふさわしい美しさで、幸せそうに笑った。






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