登校日
1999年8月4日。天気、晴れ。
7月に、恐怖の大王なんて降って来なかった。
空から降るのは雨か雪。
あるいは雷の後の、ひょうだけだった。
◆ ◇ ◆
夏休みの登校日。僕はスキップしながら教室に向かった。
休みの間にワックスをかけた廊下は、上靴で歩くとキュッキュと動物の鳴き声みたいな音を立てて面白い。弾んだ拍子にランドセルに下げたキーホルダーもジャリジャリ鳴り、まるでお祭りのお囃子みたいだ。久しぶりに見るといつも怒っていて怖い教頭先生も優しそうに見えるし、日焼けした女の子達がきゃっきゃと騒いでいる姿は可愛らしい。
僕は廊下ですれ違った人達に朝の挨拶をすると、5年生の教室に入った。
「おはよう」
クラスメイトと挨拶を交わしながら、自分の席に向かう。
廊下側から3番目の列。僕は背が低いから一番前の席だ。ここの席は教卓に一番近い場所だから、授業中にぼーっとしてたらすぐに見つかっちゃうんだ。2学期になったら席替えをするから、僕がこの場所に座るのはもしかしらあと何回かかもしれない。
でもクラスで一番ちびの僕が後ろの席になるなんてことは絶対ないから、窓際か廊下側か、どちらかの一番前であることは確かだ。
僕は自分の席に座ると筆記用具を机の中に入れた。今日は登校日だから授業はない。ホームルームが一時間あるだけですぐに終わるんだ。
僕は机の中を整頓するとランドセルを持って再び立ち上がった。そしてランドセルをロッカーにしまう。一息つくと、僕はあたりをきょろきょろと見渡した。
(ゆうちゃんはどこにいるんだろう?)
教室の中を探すと、ゆうちゃんはいつもと同じように窓際で金魚に餌をやっていた。水換えをしないですっかり緑色になった水槽を見て、仲良しの恵美ちゃんと何か話している。
今日のゆうちゃんは水色のボンボンで髪を二つに結んでいた。洋服は水色に白の水玉ワンピースで、日焼けしてない白い肌に似合ってる。
ゆうちゃん、まるで水の妖精さんみたいだ。今日は僕も水色の服を着てるからおそろい。ゆうちゃんとペアルックってなんだか嬉しいな。
夏休みは楽しいけど、大好きなゆうちゃんに会えないのはちょっぴり寂しかったんだ。だから僕、みんなが面倒くさがるこの登校日を楽しみにしていたんだ。
「おはよう!」
僕が元気よく挨拶すると、ゆうちゃんはゆっくりと振り返った。
久しぶりに見るゆうちゃんの顔。それを見たら、僕は胸の中がくすぐったくなった。
ゆうちゃんの瞳って、きらきらして少女漫画のヒロインみたいだ。マシュマロみたいに白い肌に、ほっぺは綺麗なさくら色。矯正している歯を見られるのが嫌だからって、他の女子みたいに大きな声で笑わないんだ。それかなんだかお嬢様っぽくて、他の子とは違うって気がする。
実際ゆうちゃんのお父さんは建築会社の社長さんなんだ。だからゆうちゃんは社長令嬢。れっきとしたお嬢様。
「おはよう、やっちゃん」
僕に挨拶を返すゆうちゃん。歯を矯正しているからかちょっぴりごもごもって喋り方。でもそれが可愛い。だって僕の妖精さんだもの。誰より素敵さ。
「おはよ〜、やっちゃん!」
これは恵美ちゃん。大太鼓みたいな迫力のある声だ。
恵美ちゃんは身体も大太鼓みたいに大きくて、ぼくより8センチも背が高い。体重は女の子に聞くのはデリカシーないと言われて教えてくれなかったけど、たぶん僕の2倍はあるんじゃないのかな? クラスの男子の中で一番背の低い僕と、クラスの女子の中で一番背の高い恵美ちゃんだもん。それくらいの差はあると思うんだ。
恵美ちゃんは赤いユニクロのTシャツにジーンズのスカート姿だった。Tシャツには見たことがあるキャラクターの顔がプリントされているんだけど、横に伸ばされたせいで顔が歪んで元が何なのか分からなくなっている。
なんだか恵美ちゃん、夏休み前より太ったみたいだ。ほっぺたがぱんぱんであんパンマンみたいな顔になっている。
「やっちゃん、昌志君見た? 金魚の水換え当番、昌志君なのにずっとさぼってたんだよ! これ見て!」
ゆうちゃんはほっぺたを膨らませながら緑色の水槽を指さした。ぷんぷん怒っているゆうちゃんもかわいい。
「先生に言いつけてやるって、ゆうちゃんと言ってたんだよ」
恵美ちゃんが鼻息荒く言った。どうやら、恵美ちゃんはすっごく怒っているようだ。これはとっても危ない。
いつもおしとやかなゆうちゃんがたまに怒るのはかわいいから良い。でも、血の気の多い恵美ちゃんを怒らせるのはと〜ってもまずいんだ。
なぜって恵美ちゃんは女子のリーダーで、学級委員なんだ。廊下を走ったり決まりを破ったりするとすぐ怒るし、誰かが恵美ちゃんと仲の良い女子を泣かせるともの凄い勢いでやってきて犯人をやっつける。だから影で僕ら男子は恵美ちゃんのことを“デカ”なんて呼んでるんだ。そして休み時間に廊下を走って恵美ちゃんに見つかることを「ケンモンに引っかかる」なんて言う。
もちろんそんなこと本人にばれたら怖いから、僕ら男子だけの秘密だけど。クラスで一番強くて怖い、それが恵美ちゃんなんだ。
「昌志君がさぼったせいでこんなに水よごれちゃって……金魚たちがかわいそうだよ」
ゆうちゃんが悲しそうに呟いた。ゆうちゃんが悲しいと僕も悲しい気持ちになる。
「ゆるせない!」
恵美ちゃんが眉を寄せる。怖い……恵美ちゃんが怒ると、僕は身体が恐怖で震えるんだ。
こんなに怒っている恵美ちゃんは久しぶりだ。昌志君、大丈夫だろうか?
昌志君は僕と同じで背も低いし痩せてて、えのき茸みたいにひょろっとしている。だから、怒った恵美ちゃん得意の張り手をくらったらりしたら大変なことになる。
僕の頭の中に、昌志君が恵美ちゃんの張り手を腹に受けて勢いよく後ろに飛ばされる姿が映った。泡を吹いて床に倒れる昌志君。救急車で運ばれて、次の日町内新聞に載るんだ。
『山中島小学校で事件! 学級委員の張り手で昌志君(10)が田中医院に入院』
……怖い。怖すぎる。
僕はぞっとした。もちろん入院はおおげさすぎるけど、恵美ちゃんに殴られたら昌志君はきっと怪我をする。
どうにかしないと!!
僕は考えて、すぐにある事を思い出した。
それは一学期最後の学級会でのこと。「暴力はいけない」って担任の佐竹先生が言ったことから、恵美ちゃんは張り手を封印するってみんなの前で誓ったんだ。そして男子を殴らないっていうのを、恵美ちゃんは2学期の目標にするって言ったんだ。
だけど恵美ちゃんがどんなに注意したって、言葉だけじゃ悪いことをする生徒がいる。そうしたらやっぱり罰は必要だってことになって、結局多数決で悪いことをしたら“しっぺ”をするって事に決まったんだ。最高でしっぺ10回。それ以上は駄目だって。
……だから恵美ちゃんは昌志君を殴ったりはしない。しっぺはするだろうけど、それじゃあ昌志君だって怪我はしないだろう。
僕はひとまず安心して大きく息を吐いた。
「昌志君は見てないけど、僕が探して言っておくよ。だから……」
そう言いかけて、指をコキコキ鳴らしている恵美ちゃんと目があった。
「男子はすぐそうやってかばい合うからな〜。男同士の友情とかいっちゃってさ〜」
じろりと僕を睨む恵美ちゃん。こ、怖い!!
「やっちゃんはそんなことしないよ。ねー?」
歯が見えないように軽く微笑むゆうちゃん。
僕はそれを見て思わず微笑みを返してしまった。
あぁ、ゆうちゃんの笑顔最高!
「ゆうちゃん甘いよ〜! 男は優しくすると図に乗るから厳しくしなきゃ駄目だって、うちのお母ちゃんが言ってたもん。やっぱりしっぺ5回は必要だよ〜」
恵美ちゃんはそういうと怖い顔をして僕を見た。
「ひぃ!」
僕はその顔を見た瞬間、おしっこをちびりそうになった。
だって恵美ちゃんの顔は、昨日うちのお父さんがレンタルショップで借りてきたウルトラマンのビデオに映っていた、『ピグモン』って怪獣にそっくりだったんだもの。あの怪獣は優しくて大人しいはずのに、ピグモンの顔をした恵美ちゃんは乱暴だし怖い。
恵美ちゃんって考え方は正義の味方みたいなのに、やることは本物の怪獣みたいだ。
どうしてお嬢様のゆうちゃんがこんな恵美ちゃんと仲良しなのか? 女子の友情こそ、男の僕にはさっぱり分からないよ。
「め、恵美ちゃん……」
僕は何と言えばいいのか分からなくて、金魚みたいに口をぱくぱくさせた。その時、
キーンコーン カーンコーン
タイミング良くチャイムが鳴った。
僕たちは慌てて自分たちの席に戻った。僕たちの担任・佐竹慶吾先生は時間に厳しいから、チャイムが鳴ったらちゃんと自分の席に座って先生が来るのを待って居なきゃいけないんだ。
僕が席について一息つくと、すぐに先生は教室にやってきた。休みの間に髪を切ったのか、角刈りの頭がすっきりしている。今日もトレードマークの白いポロシャツに、灰色のジャージ姿。毛むくじゃらの手にはプリントを持っていた。
「きりーつ」
日直が声がけをする。今日の日直は、ゆうちゃんの隣の席の早苗ちゃんだ。
僕たちはかけ声に合わせて立ち上がると挨拶をした。久しぶりの号令で、学校へ来たんだなと実感する。僕は「着席」の声で席に座り、先生の話に耳を傾けた。
佐竹先生は教室内をざっと見渡すと、出席の確認をしてホームルームをはじめた。
「プリントを配るぞ〜」
佐竹先生の野太い声。ちょっとうるさい。僕は先生の真ん前の席だから、あんまり大きな声を出されると頭がガンガンするんだ。
プリントには夏休みに注意することや、心がけることについて書かれていた。それをみんなで読み合わせをしながらゆっくりと内容を確認する。
いつも大人達が言っていることだ。火遊びはやっちゃ駄目とか、知らない人についていっては駄目とか、僕らにしてみれば聞くのに飽きた話だったけど先生は真剣に話していた。
僕は欠伸をこらえながら、帰ったら何をして遊ぼうかと考えていた。先生の話が大人にとってはとても重要なことで、わざわざ登校日なんて作って話をしなきゃいけないことだって分かってたけど、せっかくの夏休みをこんなことで削られるなんて子供にしてみれば迷惑な話だ。
何度も同じ事を聞かされて……こういうのを耳にたこができるって言うんだっけ? 小学5年生にもなってそんな初歩的なことを先生に注意されないといけないようではどうなんだろう? 確かに僕たちはまだまだ子供だけど、何回も同じ事を言われないと覚えないようなバカじゃあない。
けどその話は30分も続いた。ずっと話していた先生じゃなくて返事をしていた僕ら生徒が疲れきった所で、やっと佐竹先生は話を切り上げた。
「1学期の図画工作の作品を配りまーす」
そういうと、先生は一人ずつ名前を呼んで図画工作の作品を配った。
あの手に持っていた大きな袋に入っていたのはこれだったのだ。なんだかもっとすごい物を期待していた僕としては残念だったけど、この間描いた絵は自分でもよく描けたと思っていたから返ってくると聞いて嬉しくなった。お母さんに見せて自慢しよう。
「靖くん」
僕の名前を先生が呼んだ。僕は元気よく返事をすると絵を受け取った。なんだか顔がにやけてしまう。
席に着くと、うきうきとした気持ちで絵を眺めた。持って帰って部屋のどこに飾ろうかなあとか、お母さんは何て言うかなあとか考えながら。
だけど次に先生が言った言葉を聞いて、僕のうきうきは一瞬で吹き飛んでしまった。
「呼ばれなかった人の作品は、校内作品展に出してます。職員室前の廊下の壁に貼ってます」
名前を呼ばれなかったのは……
「大ちゃん、すごーい」
僕と同じ列の一番後ろ、クラスで一番背の高い大ちゃんだった。
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