序
それを見つけたのは偶然だった。
鞄から財布をとりだした瞬間にこぼれ落ちた100円玉。それを拾おうと手を伸ばした学習机の下に、ひっそりと息を潜めるようにその写真は隠れていた。
それを見るまで僕は『思い出』というものがこんなにも突然に、そして鮮明に浮かび上がってくるものだなんて思いもしなかった。人間の脳味噌というのはもっと効率的に出来ていて、『ある一日の記憶』なんて情報として不必要なものは、バラバラに分解されて他の似たような記憶と一緒にゴミ箱に捨てられるんだと思っていた。
小学生の頃好きだったアニメの主人公の名前が思い出せないように、すべては「こんな風だった」と表現されるような曖昧なものになってしまう。
夢だったのか現実だったのか、記憶なのか想像なのか。時が経つ程に、それはどんどん薄れていって分からなくなる。
悲しいけれどそれが当たり前で、年を重ねていくということなのだと僕は思っていた。
けれど。
その写真を見た瞬間、僕はそれが間違いなのだと思い知らされた。
『あの日の思い出』は僕の中を光の速度で駆け抜けて、それが確かな形を持った意味のある物で、決して捨ててはいけない大切な物なのだと僕に気付かせたのだ。
そしてそれは目も眩むほどの鮮明な輝きを持って、あの夏の日と、あの時の僕を『今』という現実世界に喚び起こしたんだ。
僕は忘れていたけれど、その『思い出』は頭の中にじゃなく心にずっと焼き付いていたんだ。忙しい日々の中『今』に追われ、過去の自分を振り返る余裕すらなかった僕の中に、それはいつも存在していた。
そしていつか僕の中に蘇る日を、机の下なんて埃っぽい場所で、気長に、けれどしたたかに待っていたんだ。
きっとその『思い出』はいたずらっ子だったんだろう。その偶然を起こすタイミングとして『今』を選ぶなんて、ずいぶん粋なことをする。
……いいさ、好きにすれば。
僕は小さく微笑んで目を閉じ、その『思い出』のいたずらに身を任せた。
ゆっくりと、瞼の向こうにあの夏が帰って来る。
僕らが見て、体験した景色が戻ってくる。
水気を含んだ風の匂いに蝉の声。
太陽の眩しさに柔らかな草の感触。
苦い土の味に、誰かの温かな手のぬくもり。
あの日、あの時、あの場所で。
僕らが求めたもの、得られなかったもの、手に入れたもの。
あの時の全てが 蘇ってくる。
僕の中から溢れてくる。
津波のように押し寄せてくる『思い出』は、あっという間に『今』の僕を飲み込んだ。
僕の目の前の景色は取り散らかった僕の部屋から、懐かしい小学校の昇降口に変わる。古ぼけた木造校舎。誰かが書いたらくがきが消えずに残っているロッカー。肌にまとわりつく蒸し暑い空気に、子供達の声。
いつのまにか僕の姿も、あの頃に戻っていた。
少年時代の僕だ。ちびで、ドジばっかりしている小学5年生の僕。
背中にしょった黒いランドセルには当時流行だった『だんご3兄弟』のキーホルダーが下げられている。服は水色のTシャツに、カーキの短パン。ズボンのポケットにはその日のお小遣い百円。
それはあの日の僕だ。
あの夏――1999年8月4日の。
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