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コルシカの修復家 作者:さかな

9章 盤石のルーヴル、あるいは偽りの楽園

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第七八話 葬られた真実(2) VSドラクロワ

 机の上にセピア色の絵画が一枚乗っていた。
 手前の机では父親の光太郎とクロードが談笑しながら作業をしている。
 それが夢だと分かったのは、祖父である光助が工房の奥に置かれた薄暗い机にじっと座っていたからだ。よくよく見ればセピア色だったのは絵画だけではなかった。部屋も、人も、すべて色褪せている。

 いつの間にやってきたのか、足元には飼い犬のレオがいた。レオは甘えるように顔をすねに擦りつけてくる。ルカはレオをそっと抱き上げ、伸びた雑巾のような腹をじっと見つめた。

『おまえんち、なんで母ちゃんいないんだよ』

 それがいつ投げられた言葉なのかもう覚えてはいないが、普段なら適当に受け流すやっかみも、この時だけは立ち止まって睨みつけた記憶がある。口に出したのは自分の癖に、村長の息子のダミアンは上向きの鼻をひくりとさせて後ずさった。それほどに鋭い視線だったのかもしれない。

 ルカの母親は、ルカを産み落とす時、代わりにその命を天に捧げたのだという。
 だから、ルカにとって家族とは祖父であり父親だった。
 けれど周りは違ったらしい。子どもたちにとって当たり前から外れていることは、なじる格好の餌だった。

「お前もオスだもんな。この家、男ばっかりだな」

 訳も分からずしっぽを振り続けるレオを、ルカは床に下ろしてやった。

 空は青く晴れやかだった。小高い丘の上で、十字をかたどった御影石が光る。小さな白い花束を墓脾のたもとに横たえて、ルカは丘の向こうに広がる悠然なる山の脈々を見据えた。

『母ちゃんがいないなんて、変なの』

 それが貶すために用意された台詞のひとつに過ぎなかったとして、どうして幼い子どもが悟れるだろう。
 ルカは早く大人になりたかった。早く大人になって、この村を出ようと思った。常識という、誰が取り決めたのかも分からない偏見の檻の外へ出るために。真に自分のいるべき場所を探すために。


 *


「――――う……」

 急に意識が脳の中で目を覚ました。妙な倦怠感が節々に残っている。また寝ていたのか、とルカは重たい瞼をこじ開けた。
 数脚のイーゼル。本棚みたいな道具の棚。大理石の机に大きなドーム状の装置。天井の高い部屋だ。どこかの修復工房なのだろうが、今しがた見た夢の中の煩雑な部屋と比べてしまうと、とても工房とは思えない清潔さだった。

「初めまして、コルシカの修復家さん」

 突然の背後からの声に、ルカは肩をびくりと揺らして振り返った。そこには頭に派手なターバンを巻いた、長身の女性が立っていた。

「驚かせちゃったかしら。ぐっすりだったものね……無理にだけど。あの人、おとなしい顔して時々乱暴なのよね」

 あの人、とはダニエラのことだろうか。
 女性はたおやかな腰つきでルカの座るソファをぐるりと回り込むと、向かいのソファに腰を下ろした。
「私はジェルメーヌ・ドラクロワ。 ルーヴルで修復部門の長をやっているの」
「はぁ、どうも」

 素っ気ない返事を返しつつ、ルカはちらっと目の前の女性を見やった。ちりぢりとパーマのかかった髪は編み込んだ髪と束ねて高いところでひとつに束ねられている。額の上にぐるりと一周巻かれたターバンの、プロヴァンス地方の模様に織り込まれた青と黄色はとても目を引いた。それに首元や耳や腕、至る所にアクセサリーが輝いていて、身なりに気をかけているのが分かる。
 修復部門の長――玉座の間で、ダニエラは確かにそんな名を口にしていた。こんなに広大な工房を与えられているのだから、相当な地位にいるのは納得できる。

 上品なアンバーの瞳は意志を持ってじっとこちらに向けられている。だが、ルカには今度こそ本当に心当たりがなかった。そもそも彼女の名前を聞くのさえ初めてなのだ。
 それとも、彼女はサンジェルマン伯爵の代わりに、ルーヴルへ入所するよう説得しに来たのか。

「どうして俺をここに呼んだんです?」
「あなたのこと、知りたいからよ」
「え――」

 正確な意味を図りかねて、ルカは困惑の色を浮かべた。そんな様子を楽しむかのように、両の瞳が三日月のように細くなった。ドラクロワは組んだ足の上に頬杖をつき、うふ、と小さな笑い声を漏らす。

「まだ可愛いボウヤなのね」
「……ちゃんと働いてるし、もう大人です」

 ムッとしてルカは思わず言い返す。にこりと返された微笑みはなお子どもっぽいと伝えてくるようで、なんとも居心地が悪い。撫でるような視線から逃れようと、ルカはさっと目を背けた。視界の隅で、白のペプロスから覗くすらりとした足が組み替わる。

「今までどんな経験を?」
「経験?」
「修復に関してのよ」

 ああ、とルカは納得する。ルーヴルに招き入れたいという伯爵の意見は彼の独断なのだ。それも、彼女はつい今しがた耳にしたというところか。きっとどこの馬の骨とも分からない人間の素性を気にしているのかもしれない。

「あの、俺、ルーヴルに入る気は」
「ええ、わかってるわ。ただあなたに興味があるだけ」
 断りを入れようと発した言葉は途中で遮られてしまった。
「伯爵が誰かに執着するなんて聞いたこともないから。あの人に会ったことがあるのは、フランス大統領とシュリー翼長だけよ。あなたは三人目の謁見者ね」

 三人目の謁見者。それがどれほど珍しいことなのか、内情を知らないルカでさえ容易に想像できた。だが謁見を許された理由はあやふやで、本人でさえ未だに疑問に思っているところだ。話したところで第三者が理解できるとも思わない。

「さぁ、お話ししてくれる?」
 目尻を柔らかく垂らし、ドラクロワは優しく首を傾けた。どうにも子ども扱いされているような気がする。不服に思いつつも、ルカはしぶしぶ頷いた。

「コルシカ島で父と修復工房を営んでいました。実際に働き始めたのは十三の頃で、でも手伝いはもっと小さな頃から」
「修復家の家系なのね。私と同じだわ。それで、過去にどんな作品を修復したのかしら」
「いえ、そんな大層なものは……。一般家庭から持ち込まれるような小さな作品ばかりです」

 片田舎の小さな工房に流れる絵画といえば、大掃除の際に倉庫から出てきた価値のよく分からないものか、あるいは家族の誰かが見よう見まねで製作したものか、そういったガラクタと呼ばれても仕方のないようなものばかりだった。有名な画家やある程度価値の保証が見込まれる作品は、ほぼ全てルーヴル(ここ)に運ばれるからだ。

「そう――」
 ドラクロワは心ない相槌をうった。
「質問を変えるわね」
 声色が急に冴えたものに変わる。
「今まで請け負ってきた絵画の中で、一番高かったエネルギー返還率はどれくらい?」
 声色だけじゃない。空気までもが一瞬にして引き締まった。ルカは眉根を寄せる。
「それは、わかりません」
「わからないほどたくさんの功績があるってことかしら」
 いいえ、とルカはかぶりを振る。
「修復した後のことには特に興味がありません。だから、自分が修復した絵画がどれほどのエネルギーになっているのかも特に知らなくて」
「そう。あなたは、修復自体に興味があるのね」
「はい」

 ルカが頷いたと同時に、ドラクロワは静かに立ち上がった。自然と彼女を見上げる形になる。その表情は笑顔を形作っているのに、目が全く笑っていない。

「やっぱりあなたはボウヤね」

 恐ろしく冷えた声が降ってくる。
 氷のような眼差しで見下ろされたかと思うと、ドラクロワはペプロスを翻し、部屋の奥へと歩いていく。

「やりたいことをやりたいままにやるのは子どものやり方。世の中ってね、そんなに単純じゃないの。ルールがあり秩序がある。たとえ目には見えなくてもね。それは社会を形作る大事な基盤なの。道路だってそうでしょう。ただ地面に線が一本引いてあるだけ。それと信号機。それだけで人は混乱を起こさず自然の何倍も早く移動する。不思議よね」

 大きな棚の前で、彼女は筆や刷毛やあるいは薬品のビンなんかを次々と掴んでは籠の中に放り込んでいく。

「――道野家。もともと日本で活動していた修復家」
 ハッと息を呑み、ルカは顔をもたげてその背を見つめた。
「それがあるときコルシカ島に移り住んで修復家業を始めた。移ってきたのはあなたの曽祖父の時代からで、こちらに来てから数えると、あなたは道野家四代目の修復家」
「……どこでそれを」
 列挙された情報はどれも正しい。知らない相手に知られているという気味の悪さは、ここに来て二度目だ。ルカの背中を冷たいものが伝う。

「ごめんなさい。その辺の経緯はすべて調査済みなの。私が知りたいのはそんな形式的なものじゃなくて、もっと内側のことなのよ」
「内側?」
 彼女は肩越しに振り向いてそっと笑うと、棚のそばから離れた。そうしてたくさんあるイーゼルのうちのひとつから、一枚の絵画を抱え上げた。

「伯爵がそこまであなたに執着する理由を知りたい。あなたの内に秘められたものの正体を」

 ドラクロワはしずしずとこちらに戻ってくると、腕の中の絵画を丁寧に机に下ろした。微かに漂う絵の具の油っぽいにおい。それからシンナーのような、洗浄液独特のツンとしたにおい。
 ちらりと目線を絵画へ動かしたルカは、そこに未完成の女性の姿を見た。

「あなたならこの絵、どう修復する?」

 試されている。修復家としての腕前を。ルーヴルに相応しいのかどうかを。ルカは強い視線から逃れるように、横たえられた絵画に手をかけた。

 どこまでも続く荒野に、一人の女性が立っている。荒野は地平線の先まで続いており、途中にはぽつぽつと枯れた木が生えているのみだ。ここは不毛の地なのかもしれない。けれど、遥か向こうの空には雲に切れ目が、そこからは太陽の光が射しているようにも見える。
 なによりルカが気になったのは、女性の表情が描かれていないことだった。細かく言えば口元だ。だから未完成に見えたのだ。よく観察してみれば、口元の部分は描かれていないのではなく、絵具層がまるまる剥がれているだけだった。
 ルカは今一度絵画を全体的に眺めてみた。そこでふと、あることに気がついた。

「これ、ほとんど修復が終わっていますね」
「ええそうよ。大半は私が手を入れたわ。残るはこの女性の表情のみ――それを加えれば修復は終わり」
 ドラクロワは籠の中から筆を一本取り出し、こちらへと差し出した。
「描いてみて、あなたの考える表情を」

 ルカはその筆の先を見据えたままじっと考えた。
 エネルギー効率を考えるならば、この女性を微笑ませるのが一番良い。統計学に基づけば、笑顔の多い絵画ほど還元率が高くなるのは立証済みだった。
 けれど彼女の立つ地は荒れ果てていて、おおよそ似つかわしくない表情にも思える。ただ、それは荒野の解釈によっても異なってくる。
 画家が描いたのは絶望の淵か。
 それともいつの日か訪れる希望を予兆したものか。
 女性が浮かべていたのは憂いか微笑みか。

 考え抜いた末に、見出した答えは――
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