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コルシカの修復家 作者:さかな

9章 盤石のルーヴル、あるいは偽りの楽園

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第七七話 葬られた真実(1)

 今はいつで、ここはどこなのか。
 一瞬、ルカの頭の中は全ての記憶を消されたように真っ白になった。だがすぐに、滲み出るインクのようにそれはじわじわと戻ってくる。

 サロン・ド・コルシカの会場にいたことは覚えている。ごった返す人の中で、ニノンらと共にアダムの講評を聞いていたのだ。評価は上々だったのに、どうしてアダムは晴れない表情をしているのか……。
 分からないまま、やがてカヴィロの番がやってきた。彼の出展した絵画について、イヤフォンから流れてくるのは酷評ばかりだった。
 耳元で繰り広げられる男たちの会話に嫌気が差しはじめた頃、突然誰かに肩を叩かれた。振り返るとそこには、帽子を目深にかぶった背の高い男が立っていた。

 話があると彼は声をひそめて言った。
 ルカには身に覚えのない話だ。気味が悪いとさえ思う。だがその思いは、男の顔を一目見て一変する。
 そっくりだったのだ。男の顔が、ニコラスに。
 ダニエラ・ダリだとルカはほとんど確信していた。だからひとつ返事で彼の後について行くことにした。

 会場を抜け、人気のない町を歩くその間、一切の会話はなかった。思い返せばその時点で妙だった。話をするだけなのに随分と歩かされている。しかも、町の中心からどんどん遠ざかっているのである。
 さすがにと思い、男の背に声を掛けようと息を吸い込んだ――そこで突然記憶は途切れていた。


 ルカはとりあえず四つん這いでベッドから脱し、あたりを見渡してみた。先ほどまで眠っていた大きな天蓋ベッドの他に、クローゼットのような家具が壁際に寄せられている。誰かの寝室なのだろう。それも中世の宮殿のように豪勢な。
 なんにせよ、見覚えのない部屋であることに変わりはない。

 それよりルカが目を奪われたのは、壁に飾られた一枚の肖像画だった。
 頭には立派な王冠、右手に王の杖、そして赤いビロードのマントを羽織った男。起き抜けの視界に真っ先に飛び込んできたのは、この男の足先だったのか。
 頷きながら、ルカはほんの小さな引っ掛かりを覚えて眉をひそめた。この男の顔に見覚えがある。心許ない記憶の糸を手繰り寄せ――すぐに思い出せた。コルシカの歴史の教科書に出てきた男だ。
 ボナパルト一世。後のフランス皇帝である。

――古い絵画がまだ額縁の中に残されているなんて。

 ルカは驚きを隠せなかった。目ぼしい絵画は全てエネルギーに変換されたとばかり思っていたのだから。
 よく見れば、この部屋の壁にはあといくつか小さな絵画が飾られていた。そのどれもは修復の手が及ばず薄汚れていたが、きちんと額縁に収まっている。おそらくだが、ボナパルト一世の肖像画と同じく、古くに描かれた絵画なのだろう。

 不思議な感動を噛み締めていると、部屋の隅にある扉が目についた。ルカはその扉まで駆けていき、ドアノブを回した。ガチャガチャと音が鳴るだけで、扉は開かない。
 諦めて視線をその扉から離すと、もう反対側にも扉があることに気がついた。焦る手つきでドアノブを回す。今度はガチャリ、と扉が開いた。

 ルカはそろりと扉から顔を出し、あたりをうかがった。薄暗い廊下が奥まで続いており、左右にいくつか扉が並んでいる。壁にはやはりたくさんの絵画が掛かっていたが、先ほどとは違って、いくつかは中身のない額縁も混じっていた。

 廊下を進みながら、ルカは手当たり次第に扉のノブを回した。
 ベルベットの上質なソファがたくさん並んだ応接間、豪華なシャンデリアのぶら下がる暖炉の間、向かい合えば互いの顔すら見えないのではないかと思うほど長い食卓の置かれたダイニング――。
 そのどれもに人の気配はおろか、空気の流れさえ感じられない。
 徐々に焦りが募りはじめた頃。ルカはとある部屋の前に辿り着いた。

「〈Salle du(サル・デュ・) Trône(トロン)〉……?」

 扉の右側、壁に貼り付けられた金属製のプレートには確かにそう刻印されている。廊下は行き止まりで、他に扉も見当たらない。
 ルカは長く大きな観音扉を押し開いた。キィと木の軋む音が響く。細く開いた隙間から、削いだ刃のような鋭い光が漏れた。

 Trône(トロン)――玉座。
 その名の通り、部屋の奥に一脚の椅子が鎮座していた。背もたれの異様に長いその椅子は、窓からの光を背に受けて暗く影を落としている。
 そこで、ルカはぴたりと歩むのを止めた。影の中に潜むようにして、誰かが椅子に腰掛けていたのだ。

「ダニエラさん……?」

 確かめるように、おそるおそるルカは訊ねる。男は答える代わりにゆっくりと立ち上がった。無言の圧力に思わず退きそうになるのを我慢して、陰る姿に目を凝らす。一歩踏み出した男は、目深に被ったシルクハットのつばを掴むと、おもむろに帽子を脱ぎ去った。

 ルカの瞳が揺れる。
 違う。ダニエラ・ダリではない。

「あんた、誰だ?」

 影の差した男の顔に、わずかに笑みが浮かぶ。

「サンジェルマン伯爵――と、世間では呼ばれている」
 低くも高くもない男の声が、沈んだ空気の中に響いた。
「君を待っていたんだよ、ずっと」
「え?」

 待っていた、とはどういうことか。
 疑問にのまれそうになる頭を振って、ルカは本来問いただそうとしていた言葉を引っ張り出した。

「俺をここへ連れてきた男はどこですか。聞かなきゃいけないことがあるんです」
「それなら問題ない。あれに君を連れてくるよう頼んだのは私だ」
「じゃあ、話があるっていうのは……」
「そう、私だよ」

 男は手にした立派な杖をつき、ゆっくりと一歩ずつこちらに歩み寄ってきた。
 彼の言葉が本当ならば、この男こそ世界を救った救世主であり、発電所のトップということになる。そんな男が自分になんの話があるというのか。ルカは頭の中をほじくり返してみたが、理由などさっぱり見当たらない。
 何も言えないままじっとしていると、伯爵はついにすぐ目の前までやってきて、壊れかけのおもちゃのようにゆっくりと顔を傾けた。

「海よりも深く、空よりも濃い……君の瞳の色はとても美しくて、懐かしい」

 伯爵の言葉が耳に入ってこないほど、ルカは得体の知れない気味の悪さに支配されていた。
 すぐ近くで見る伯爵の顔は皺ひとつなく、まるで陶器でできた人形のようになめらかで、それがいっそう不気味さを際立たせている。たっぷりと豊かに生える白髪は年齢を物語っているものの、それだけだ。時を感じさせるものが、それだけしかない。

「かつて、君の住む島は〈奇跡の島〉と呼ばれていた。それがなぜだか知っているか?」
 唐突に問われ、ルカはわずかに首を振った。
「あそこでは、それはそれは美しいラピスラズリが採れたんだよ。あの島でしか採れない、不純物のいっさい混じっていないラピスラズリがね。君が修復家なら、この石が宝石以外に使用されることを知っているだろう」
 なぜいきなりそんな話題が出たのか。分からないままルカはおそるおそる口を開く。
「ラピスラズリは、絵の具の顔料になる」
「そうとも。そして、あの島で採れるラピスラズリを顔料として作られる色を、私はこう呼ぶことにしたのだ。〈コルシカン・ブルー〉と。君の瞳はコルシカン・ブルーそのものだ」

 目を細める男から、ルカは一歩身を退()いた。
「どうして俺をここに呼んだんです」
「言っただろう。ずっと会いたかったのだと」
 伯爵は杖の上で手を擦り合わせた。指という指の先端に至るまで、年相応のしわが、やはりどこにも見当たらない。
「俺のことを知ってるんですか?」
「知っているとも。全て知っている。君の知らない君自身のことも全て」
「知らないこと……?」

 まるで、会ったことはあるのにこちら側が忘れてしまっているみたいな言い方だ。
 その時不意に、マキの森でニノンと出会った時の記憶が蘇った。
――私たち、どこかで会ったことがある?
 彼女はそう問いかけてきた。咄嗟に否定したものの、どこか懐かしい思いが湧いたのも事実だった。もしもそれが勘違いではなく本当だったとしたら。
 つまり、どこかでニノンに会っていたのだとしたら?

――俺はなにか、大事な記憶を失くしているのか?

 物心ついてからの記憶に欠落した時期などない。だから九割方は、そんなはずないという気持ちで占められている。だが残りの一割は、その先を知りたがっている。
 言葉にしなかった疑問が顔に表れていたのか、伯爵は少しだけ口の端を歪めて笑った。

「望むなら、教えてあげてもいいが」
 ただし。と、息をのむルカの眼前に伯爵の白い手のひらがゆるく掲げられた。
「君がルーヴルに入ってくれるなら、だ」

 突拍子もない提案に、ルカは思わず言葉を失くした。発電所お抱えの修復家が足りてないはずがない。声を掛けるくらいなら、自ら志願してやってくる人材を雇えば良いのだ。

「ルーヴルのもとで働きたい人はたくさんいるはずです」
「君じゃないと意味がない」
「どうしてですか?」
「私が君を選んだからだ」
 ルカは眉をひそめた。男は杖をつきながら体を窓の方へと向ける。射し込んだ光の帯の中を、ゆっくりと埃が舞っている。

「エネルギーショックから五〇年。あの忌まわしい事件は歴史になりつつある。きっとあと数十年もすれば、経験者はこの世界からいなくなるだろう。私は、そうやって世界から危機感が薄まってしまうことを危惧している。歴史を繰り返さないためには、人々をもっと統率しなければならない」

 振り向いた伯爵の顔に、造りもののような笑顔が浮かんでいた。
 話が大きすぎて、ルカはついていくのに必死だった。つまりこのままではいけないと――暗に諭している。杖から離れた右手が、ゆっくりと目線の高さまで持ち上がる。

「私はその腕に素晴らしい才能が眠っていることを知っている。開花させるためには、ほんの少しでいい、出た芽を間引いてやればいいのだ」
「間引く、なにを……」
「君の中に生えるいくつもの思想から、正しい道に進むことを邪魔する、ほんの数本の芽を」
 伯爵の指は、宙で小さな新芽をむしり取るような仕草をしてみせた。

「道野ルカ、君を私の右腕にしたい」

 名誉なことだとでも言うように、伯爵は目を弓なりに細めた。なのに、なぜかルカは自身の腕が粟立つのを止められなかった。

「断わると、言ったら?」
「断らないよ。絵画の修復しかしてこなかった君ならば絶対に」
 自信に満ちた声で伯爵は言いきった。
「いずれ世の修復家はルーヴルに認められた者以外、活動できなくなる。逆を言えば、今後は全ての修復家をルーヴルの傘下に収めるのだ。これからも絵画修復に従事したいと願うなら、君は再びここの門をくぐるだろう」
「そんなこと……」

 うまく言葉が出てこなかった。嫌だと口にすることはただの我儘ではないのかとすら思えてくるのは、やはり目の前に佇む男があまりにも偉大な人物だからなのか。
 悩むうちに脳裏を過ぎったのは、ミュラシオルでカヴィロの絵画を修復した時のことだった。何を大切にして修復に取り組むのか。画家と議論を交わし胸を熱くしたこと。それからニノンの語った未来。昔画家は、芸術家と呼ばれていたこと。アダムやニコラスと共に語らった、絵画についての様々なこと。自分は絵画が好きなのだと思い知らされた。ヴェネチアでクロードに迫られたこと。自分にとって絵画とはなんなのか……。
 次々と蘇っては、泥の中に埋もれた真の思いを掘り起こしていった。
 だからルカは、男の目を一心に見つめて告げることができる。

「俺は、絵画の医者になりたいんです」
 ふ、と伯爵の瞳が無になった。
「エネルギーのために、人のために修復をするのは正しいことだと思います。でも、だからこそ、絵画のために修復する人がいてもいいんじゃないかって思うんです。画家が込めた想いは絵画に宿って生き続けます――修復すれば何度だって。それは時にエネルギー以上のなにかを、人に与えてくれる。俺はそんな場面にたくさん遭遇したから……」

「そう言えるのは、エネルギーショックを経験していないからだ。命より尊いものなどありはしない」

 今度こそルカは反論する言葉を見つけられず、口を固く引き結んだ。満足げに微笑みをたたえた伯爵は、声色を驚くほどの優しいものに変えて囁いた。

「私はいつでも待っている。そしてもう一度、君と共に道を歩むことを楽しみにしている」
「もう一度? 待ってください、どういうことですか? やっぱり俺はあなたに会ったことがあるんですか? 伯爵……サンジェルマン伯爵!」

 音も立てずに男が一人、部屋にやってきた。伯爵はそのベージュの髪の男に何かを耳打ちすると、そのまま椅子に腰掛けてしまった。
 流れるようにこちらにやってきた男に向かって、ルカは必死に声をかける。

「ダニエラさん。ダニエラさんですよね」

 一度だけ感情のない視線を寄越してから、ダニエラと思しき男は事務的にルカの腕を拘束した。そのまま出口へと引きずられてゆく。ルカは半身を捻り、ダニエラの顔を見上げようと首を伸ばす。

「あなたにも聞きたいことがあるんです。ニノンのことで。ポケットに紙が入ってたんです。あなたに会えと書かれていました。知ってることを教えてください。些細なことでもなんでもいい。だから、」
「伯爵。ドラクロワ女史がこの少年に会いたいと」
「ダニエラさん!」
 まるでルカの声など耳に届いていないかのように、ダニエラは伯爵の方へと顔を向ける。
「ドラクロワ――ああ、ドゥノン翼長かね」
「修復部門のトップは彼女ですから。いずれにせよ一度は会っておかないと、後が面倒ですよ。それで、話はもう済んだのですか?」

 渾身の力を込めて暴れてみるが、後ろで掴まれた腕はまったく振りほどけない。

「サンジェルマン伯爵――あなたは一体誰なんだ!」

 必死に呼びかける声は、満足げな伯爵の頷きによって一掃された。それ以上成す術のないルカは、死んだようにじっとしたままの男を睨みつけることしかできない。暗く陰った口元が少しだけ微笑んでいるように見える。
 扉が閉まるその瞬間まで、ついに伯爵が口を開くことはなかった。
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