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コルシカの修復家 作者:さかな

9章 盤石のルーヴル、あるいは偽りの楽園

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第七六話 奪還作戦inPARIS

 エネルギー価格、一ヶ月ぶりに低落――そんな文字が、新聞の一面を大々的に躍っている。男はハンチング帽と新聞の間から顔を覗かせると、サングラスを少し下げ、大通りに目をやった。
 鮮やかなワンピースの女、重たいスーツを着込んだ男、顎髭を蓄えた洒落た老人、大きなテディベアを抱えながら手を引かれる幼い少女。
 午前十一時半。パリ、ローアン通りは平日にもかかわらず様々な人間で溢れ返っている。

 男の右隣に座るオレンジ色の髪の少年が、右手を軽く上げた。空になった盆を抱えたままウェイトレスが笑顔でテーブルにやって来る。

「ご注文は?」
「ホットコーヒーを。シュガーはいらないわ」
 ウェイトレスに一番近かったハンチング帽の男がまず答えた。普段顔の右半分を覆っているウェーブ掛かった緑色の髪は今、帽子の中に仕舞われている。大きなリングのピアスも外しているし、化粧っ気もない。おまけに大きなサングラスで目元を隠しているから、一瞬見ただけでは誰だか分からない。

「俺はクレーム・ブリュレ。カリカリを分厚めに」
 オレンジ色の髪の少年は指でカラメル層の厚さを測る真似をしてから、黒縁眼鏡越しにウェイトレスにウィンクした。
「あ、私もそれ、カリカリ分厚めで」
「を、三つ」
 畳み込むように少女が注文を追加する。もう一人の少年も後に続き、ウェイトレスに向かって指を三本突き立てた。


 二日前。

 長い夢を見ていた。
 ニノンは薄っすらと戻ってきた意識の片隅で、そんなことを思う。喉の中が張り付くように乾燥している。しかも、目の奥がひどく気怠い。
 遠くで誰かの話し声が聞こえる。
「手分けして……だとしたら……そう」
 談笑ではない。何か相談ごとのようだ。起き上がるのも億劫で、しばらく瞼を閉じたまま横たわっていた。耳に届く途切れ途切れの会話。ニコラス、それからアダムの声もする――。

「ルカが本当にそこにいるとすればだけどよ」
「ルカ!?」

 勢いよく飛び起きた瞬間、頭が割れるように痛んだ。小さく呻いてニノンはベッドの上にうずくまる。

「こら、無理しちゃダメだよ」
 と、駆け寄ってきたニコラスに背中をさすられる。頭が揺れるたび、倦怠感のかさぶたが顔全体を覆っているような感覚に襲われた。
「私、いったい……」
 ふと顔を上げると、窓の向こうは墨でも塗りたくったように真っ暗だった。
「うそ」
 ニノンは愕然と窓の外を見つめた。ヴィヴァリオの郊外に出たのは、確か、まだ昼を過ぎた頃だったはずだ。

「もう日もとっぷり暮れてるんだ。焦ったってしょうがないよ」
「でも」
「まずは落ち着くんだよ、ニノン」

 椅子に腰掛けているアダム、ジャック。窓辺に立つロロ。全ての視線が諭すようにこちらを向いている。背中をさする手つきは大げさなほど優しい。けれどそれらは後悔を拭い去ってはくれない。
「私、ルカを助けられなかった」
 ニノンは歯痒さを覚え、そっと顔を伏せた。

「なぁニノン、お前、ルカをさらった奴の顔を覚えてるか?」
 アダムは眉尻を下げ、遠慮がちに訊ねた。
「うん、それは」
 ルカをさらった男。真っ黒のスーツにベージュのボブヘア。その男の顔は――ニノンは弾かれたように顔を上げる。

「うん、そう、あのね。私の思い違いじゃなければなんだけど、あれはダニエラさんだったんじゃないかって思うの! だって顔がニコラスにそっくりだったんたもん。髪型は全然ニコラスと違うけど、でもきっと……アダム?」
「ビンゴだ」
 ゆらりと椅子から立ち上がり、アダムは肩をわななかせた。
「ビンゴだぜ、ニコラス!」
 アダムはニコラスに駆け寄ると、強引に肩をばしんとやった。

「どういうこと?」
「お前が見た男がダニエラなら、ルカはきっとルーヴル発電所にいる」
 と、アダムは目を輝かせた。
「ルーヴル?」
 どうしてそうなるのか、繋がりがうまく見えてこない。ニノンが首を捻っていると、ニコラスは神妙な面持ちでベッドに腰掛けた。
「実はね、私、一度ヴィヴァリオでダニエラに会ってるんだ」
「え――そうなの?」
 ニコラスは申し訳なさそうに頷く。
「隠してたわけじゃなかったんだけど。いや、すまなかったね。アンタもダニエラを探してたってのに」
「そんなの別に気にしてないのに」

 レヴィのはずれの深い森の中。目が醒めた時、ポケットに入っていた小さな紙切れ。そこに記されていた『ダニエラ』の文字。
 彼に会えばきっと何か分かる。そしておそらく協力だってしてくれる。そう思っていた。いや、思い込んでいたのだ。
 機体のドアが閉まる直前、振り返った彼の瞳は恐ろしく冷たかった。だからニノンは彼が本当にダニエラなのか疑いすらした。
 けれどやはり、彼がダニエラ・ダリであることは間違いないように思われた。何故なら――ちらっと長い前髪をしな垂れさせている男の顔を覗き見て確信する。
 それほどまでにあの男はニコラスと顔立ちが似ていたのだ。

「ダニエラは今、ルーヴルに所属してるんだ。しかも相当上の役職に就いてるらしくてね。サンジェルマン伯爵……発電所長との繋がりも強いみたいで」
「だったらシュリー翼の上層部だろうな」
 じっと話を聞いていたジャックが、不意に口を開いた。
「シュリー翼?」
 と、ニノンは首を傾げる。

「ルーヴルは三つの部門に分かれている。絵画修復を担う〈ドゥノン翼〉、研究を行う〈リシュリュー翼〉、その他全般を担当するのが〈シュリー翼〉だ。サンジェルマン伯爵直属の部門はシュリー翼だから、関係が強いのであればおそらくシュリー翼の人間だろう。となれば――」

「ち、ちょっと待てよ」
 耳慣れない内部情報をペラペラと喋りはじめたジャックに、アダムが慌ててストップをかけた。ぴく、とジャックの片眉があがる。
「どうしてそんなに詳しいんだよ。ルーヴルの内部情報はほとんど出回らないはずだぜ」
 おかしいだろ、とアダムは目を光らせた。
 アガルタの一員だと名乗りはすれど、そんな団体は聞いたこともない。突然現れた身元の知れない男だ、ロロが知り合いだとしても、彼の視線に疑いの色が混じるのは仕方のないことかもしれない。

 ジャックは「なんだ、そんなことか」とでも言いたげに肩を落とした。
「うちには内部事情に精通した構成員がいる」
「え、精通って」
 まるでスパイでも雇っているような口ぶりだ。ますます怪しい。そして胡散臭い。アダムは口を開きかけたが、遮るようにジャックは言葉を続けた。
「昔ルーヴルに所属していたんだ。だから知っている。それだけだ」
 それでもまだ腑に落ちないというように、アダムは腕を組んで疑いの眼差しを向けた。
「それより話を進めよう。ニノン、お前ルーヴルに潜入したいんだろう? この俺が協力してやる」
「ルーヴルに潜入?」
「奪還したいんだろ?」
「奪還……」

 オウム返ししながら、ニノンはその言葉を頭の中で咀嚼した。すると今度は腹の底からむくむくと興奮が湧き出てきた。

「いいの?」
 ニノンは勢い余ってベッドから飛び降りた。
「約束しただろ。お前が困っていればいつだって手助けすると。どうだ、ありがたいだろう。存分にありがたがっていいんたぞ」
「ありがとう!」
 あまりに素直な感謝の言葉に、ジャックは思わず「え?」と間抜けな顔をした。
 ニノンはお構いなしに何度もありがとう、と繰り返し、飛び跳ねて喜んだ。
「お、おい、あんまり手放しに喜ぶな。俺が協力してやるのはお前が大事な被験者だからだぞ。こんなことで非協力的になられても困るからな」

 ジャックは早口でまくし立てた。頬が心なしか朱く染まっているのは、一気に喋りすぎて息を切らしたからだけではないだろう。
 既に気持ちがパリに向いているニノンと、ぶつくさとまだ何か呟いているジャックを、アダムは物珍しげに交互に見やった。同じくこの状況を察したニコラスが、険しい目つきでジャックを注視する。そんな彼らを、ロロは冷ややかに見守った。

「とにかく作戦を練らないとな。パリまではヘリでひとっ飛びだが、その後だ」
 と、ジャックは顎をさすった。
 そこにアダムがしれっと相槌を打つ。
「セキュリティが一般的なカードキーだったら、従業員から盗むのもアリだな。もしくは業者に成りすまして――」
「おい待て」
 うんうんと唸るアダムの鼻先に、ジャックは人差し指を突きつける。
「あ? ンだよ」
「お前たちは連れて行かないぞ。団体で行っても邪魔なだけだ」
「は?」
 鞄から筒状に丸めた紙を取り出したジャックは、それを机の上で広げ始めた。「待て待て」とアダムは慌てて机まで飛んでいく。

「捜すのはルカだけじゃねェ。エリオもだ。見つけなきゃいけない人間が二人もいるんだぜ。手分けして探した方がいいだろ?」
「エリオとか言うやつのことは知らん。勝手に捜せ。そこまで協力するつもりはない」
 広げた紙は地図になっていて、コの字型の建物の見取り図が描かれている。
「んな冷てェこと言うなよ。同じ建物だぜ? タクシーの乗り合わせと一緒だろ。パリまで相乗り!」
 オーバーハンドで訴えるアダムに、ジャックは仕方なくといった様子で顔をあげた。
「じゃあパリまでは乗せていってやる」
「いや、帰りも乗せて帰ってきてくれよ」
「ロロ、重りか何かあるか?」
「重りですか。うーん、あ、ナットだったら幾つかポケットにあるかも」
「無視すんなよ!」

 ロロはズボンのポケットをひっくり返し、見つけたナットとボルトにふっと息を吹きかけた。埃っぽい臭いが舞う。ジャックはそれを受け取ると、地図の四角に置いて文鎮代わりにした。

 アダムはベッドまで駆け戻った。そしてニノンの肩をぐいっと抱き込むと、耳元に口を寄せる。
「おいニノン、お前が頼んでくれ」
「私?」
「ハニートラップさ」
「ハニー……お菓子?」
「そうだ。お菓子だ」

 よし行ってこい、とアダムはニノンの背を押した。
 訳の分からないまま送り出され、そのまま机に手をつくと、机を囲んでいた二人の目がこちらを向いた。ぎょっとしてニノンはすぐさま振り返る。が、遠くでアダムが「とにかく頼め!」とジェスチャーするのが見えるだけだった。
 ニノンは改めてジャックの方に向き直る。

「ねぇジャック。私だけじゃなくて、アダムとニコラスにも協力してほしいの。お願い! おいしいお菓子もあげるから」

 アダムが「違う、そうじゃない」と小さく叫ぶ。顔を上げたジャックが、訝しげにニノンを見つめた。
「大人数だとハイリスクだぞ」
「それは、なんとかするから。お願いお願い、ルカもエリオさんも助けたいの」
 お願い、とあと三度繰り返し、ニノンは祈るように両手を顔の前で組んだ。
「ジャックだけが頼りなの」

 一瞬、ジャックの顔が真顔になった。
 しつこく言い過ぎただろうか。ちら、と薄目で様子を伺うと、ジャックはさっと顔を背けた。目を逸らしたのはあきらかだ。だか、しばらくして「仕方ないな」と呟く声が聞こえた。
「そんなに頼むんなら、協力してやらんでもない」
 協力してやらんでもない。その言葉が、ニノンの頭の中で何度も反響した。枝のような細かった道が、一気に大木の幹程の太さにまで広がる心地がした。
 ニノンはうわっと目を見開く。
「ジャック――ありがとう!」
「だから、そうやって大げさに喜ぶな!」

「お前んとこのボス、なんかめんどくせェな」

 一連のやりとりを傍観していたアダムがぽつりと呟いた。嬉しさのあまり握手をするニノンの両手を、ジャックは乱暴に振り払う。払われた手でニノンはまた握手をし、それをジャックがまた払い――二人は噛み合わないやり取りを何度も繰り返している。
「なぁ?」と念を押すように、アダムは首を捻って隣を覗き込んだ。
「僕に話を振らないでください……」
 ロロは無の心で窓の外を見上げた。よく晴れた夜空には、小さなダイヤモンドを散りばめたように星が輝いていた。


 *


「で、もう一度確認だが」

 周囲を確認しつつ、ジャックは声をひそめて話し始めた。
 隣では目を輝かせながら、ニノンが運ばれてきたクレーム・ブリュレの茶色く焦げた表面をスプーンで割っている。普段は遠目でもすぐに見つけられる、特徴のある桃色の髪はウィッグに隠されていて見る影もない。ブリュレに添えられたベリーソースのような深い紅色の髪を耳にかけ、初めて口にするデザートを堪能している。

「エリオ・グランヴィルは研究に協力させられていると、確かに聞いたんだな?」

 ジャックはスプーンの先をニコラスに向けた。カップをソーサーに置き、ニコラスは小さく頷く。
「そうだよ。それから、彼は研究所トップのお気に入りだ、ともね」
「ふぅん」

 ここ数日で夏の気配はめっきり姿を消した。そう感じるのはおそらく、蝉の鳴き声がもう聞こえないからでもあった。
 あるのは都会特有の喧騒、石畳を擦る無数の足音、それから車のエンジン音。
 コーヒーカップから立ち昇る湯気を見ながら、ニコラスは思い出した。
 ヨーロッパで幸運の印と親しまれている(シガール)は、もともとパリにはいないのだ。

「では予定通り、二組に分かれて行動するぞ。先日も話したが、ルーヴルの研究機関は今、拠点を〈オルセー〉に置いている。ここから目と鼻の先にある建物だ」

 ジャックは自身の後方を顎でしゃくる。示された場所には通りに沿ってどこまでも続く、壁のようなホテルしか見えない。その向こう側に流れるセーヌ川を越えれば、オルセー研究所はすぐそこだという。

「オルセーも昔は美術館だったが、(さかのぼ)ればその前は鉄道駅舎として利用されていたらしい」

 へぇ、と適当な相槌を打ちながら、アダムはクレーム・ブリュレの美味しさにいたく感激していた。パリの一等地に構える店では、いくら観光客向けの商売をしていたとしてもヘタな品は出さないようだ。

「だから建物は長方形で、構造も簡単だ。こっちはうまくやれば短時間で探索できそうだな」
「こっちはってことは、ルーヴルは難しそうなのかい」
 カップに口を付けながら、ニコラスは眉をひそめる。
「ルーヴルはもともと要塞として建てられたものだからな。それが城になり宮殿になり、やがて美術館を経て現在の発電所になったんだ。見取り図を見れば分かるが、まぁごちゃっとしている。ただ、その方が見つかりにくいとは思うがな」

「ジャックって物知りだね」
 空になったココットの隅をスプーンで突きながら、ニノンは感心したように言う。
「こういうのは情報が命なんだ。段取り八分って言うだろう。ほら、これ」
 と、ジャックは三人に小さなイヤフォンを投げ渡した。またよく分からないものを、とニノンは思ったが口に出すのはやめた。代わりに手元のおたまじゃくしのような機械をしげしげと観察する。

「ロロとウィンに繋がっている。こいつに搭載されている反響定位(エコーロケーション)を使って館内の人の動きをオペレートしてもらうんだ。特にウィンは中の構造にも詳しいだろうから、的確なサポートをしてくれるはずだ。おい、ちゃんと髪で隠せよ」
 ジャックは紅色のウィッグを乱暴に手で梳いて、イヤフォンの上に被せた。

 エコーロケーションとは超音波を使って周囲の障害物を判定することらしい。
 ニノンが疑問を口にすれば、ジャックは揚々と答えてくれた。コウモリやイルカや、自然界には音を視覚のように扱える生き物がいる。その知恵を拝借したのだそうだ。

「ちなみにこいつを開発したのはエドだ。エドワード・ブレイク。ミュラシオルで一度会ってるんだが」
「あの優しそうなお兄さん?」
 ニノンはドレッドヘアを一つに束ねた黒人の男の姿を思い浮かべた。確か、スポーツ選手のような、真っ赤なタンクトップを着ていた気がする。
「まぁ柔和な方だな」
「バスケットボールが好き?」
「お前、よく知ってるな」
 全員が装着を終えるのを確認し、ジャックはポケットの中でゴソゴソと手を動かした。

『ジジ――……あ、繋がりましたね』
『おーい……聞こ――る?』

 耳の中でノイズ掛かった二人の声が反響する。
「これからタイミングを見計らって中に入る」
了解(ラジャ)。待機してるわ』
 隣で喋るジャックの声と、少し遅れて同じ会話がイヤフォンから流れてきた。どうやら同日通話に対応しているらしい。

「あとはどうやって潜入するかだよね」
 やる気に満ちた瞳で頷いたニノンに、ジャックは「声がでかい!」と叱責する。慌てて辺りを見渡す。カフェのテラスに座るのは時間を持て余した老夫妻や、ノートパソコンにかじり付く働き者が多く、他人の会話を気にしている者はいなかった。
 ほっと胸を撫で下ろし、ニノンは改めて三人に向き直った。そして今度こそ小声でひそひそと話した。

「作戦通り、業者に成りすますの? 業者って、なんの?」
「出入りが多いのは絵画を搬入する会社か、もしくは修復に使われる材料の会社か、ぐらいだろうな」
 ジャックは珍しく語尾を濁した。そこでニノンは目を瞬いた。
「もしかして……決まってない?」
 パッパー、と車のクラクションが鳴る。歩道の信号が切り替わり、人の波が一斉に動きだした。
「あの、違うよ、責めてないよ。決まってないのかなぁって、ちょっと疑問に思っただけ」
「――材料の業者だ!」
 苦し紛れにかけられたフォローを払い退けるように、ジャックは叫んだ。ニノンは思わず辺りを伺う。幸いなことに誰もこちらを気にしてはいない。

「材料業者に紛れ込むぞ。絵画の搬入なんて重たい作業に女が紛れ込んでたらおかしいだろう」
 名案だとばかりにジャックはまくし立てる。
「まぁそれが現実的だろうね」と合いの手を入れながら、ニコラスは勝手にカップを奪い取ってコーヒーを(すす)るアダムの手を捻った。
「問題はどうやって成りすますかだけど……」

 その時、カーン、カーンと鐘の音がパリじゅうに鳴り響いた。セーヌ川沿いにあるコンシェルジュリーの鐘塔が正午を知らせている。

「裏手に回ってみましょうか」
「いや、ここで待とう」
 席を立とうとしたニコラスを制し、アダムはニヤリと口角を上げた。
「そうだな。あと一〇分だけ」

 十二回目の鐘が鳴り終わり、テラスの席から何組かの客が立ち去った。丸テーブルに肘をつきながら、アダムは黒縁眼鏡越しに発電所の裏門を見つめている。ぽつぽつと数人、門から出てきては足早に大通りへと消えていった。
 と、その時、アダムが動いた。

「あれ、どこかで会ったことありましたっけ」
 颯爽とカフェを飛び出したアダムは、胸ポケットに眼鏡を仕舞い込みながら、場慣れした雰囲気で二人組の女性に話しかけた。彼女らの足取りがはたと止まる。どちらも怪訝そうに眉をひそめて、いきなり話しかけてきた怪しい男をじろじろと見つめている。

「……と思ったけど人違いか。よく見りゃ俺の知り合いより段違いで美人だ」
 大げさにおどける姿に警戒心が解けたのか、女性は口元に手を当てくすりと笑みをこぼした。
「なにそれ。ナンパのつもり?」
「まぁ、そうとも言う」

 路上で談笑する彼らの姿を、三人は遠目に見守っていた。
「おい。あいつは一体なにをやってるんだ?」
 愕然とした表情でジャックが呟いた。
「アダムはね、すぐ女の子に声をかけるの。そうしなきゃ死んじゃうみたい」
「阿保だな。考えられん」
 それより作戦はどうした、とジャックは苛立ちを露わにする。その隣でニコラスはこめかみを押さえながら天を仰いだ。

 そうこうしている内に、当の本人が戻ってきた。足取り軽く、満面の笑みまで浮かべている。
「おいお前、なに勝手に遊びに行ってるんだ」
「楽しかったかい、アダムちゃん」
 憤慨しながらジャックが、呆れた口調でニコラスがそれぞれ声をかける。
 だが意に反してアダムはニッと笑い、ポケットから二枚のカードを取り出した。クリアケースに収まっているそれはまさしく、ルーヴル発電所のカードキーだった。
 三人は一様に目を丸くする。

「うそ、アダム、それどうやって?」
「楽勝ー」
 と、アダムは自慢げにピースサインを顔の前に掲げてみせた。
 ナンパの最中に盗んだのだとしたら、スリも認める手際の良さだ。ニコラスは素直に感嘆の声を上げた。

「午後休取って帰るヤツを探してたんだ。あの人たち、昼休憩にしてはウキウキしてたからさ」

 ほれ、とアダムはカードキーをジャックとニノンにそれぞれ一枚ずつ手渡した。白地のカードには金の字でルーヴル発電所と印刷されている。幸いにも写真は付いておらず、名前が載っているだけのタイプだ。これなら首から下げていても問題ない。

「しかもラッキーなことに、二人して今日の夜からバカンスだってさ。しかも三泊四日! そのカードは当分安心だ。使い終わりゃ館内に置いて帰ればいい」
 いつか誰かが落し物として拾ってくれることだろう。そうしてあの二人は思うのだ。バカンスが楽しみすぎてつい浮かれてたのね、と。

「お前……阿保でクズだと思っていたが、案外やるな」
「本人に向かってそんなに悪口言うの、逆にすごいぜ」
「褒めてるんだ」

 いがみ合う二人の少年を引き剥がし、ニコラスは咳払いをした。
「とにかく、これで作戦はスタートできるわね。私とアダムちゃんがオルセーを」
「ジャックと私でルーヴルを」
 と、ニノンが繋げる。

「くれぐれも無理はするな。見つかったら終わりだからな」
 ジャックの言葉を受けて、四人は互いに目配せしあい、頷きあう。
 それからおもむろに耳元を押さえ、ジャックは小さく呟いた。
「今から潜入捜査を開始する。準備はいいな」
『いつでもオーケーよ』

 真正面にそびえる側壁は、まるで敵の侵入を拒む城壁のようだ。
 ルーヴル。それはまさに要塞と呼ぶに相応しい。ニノンは前方に構える発電所を睨みつけながら、うわ言のように呟いた。

「離れ離れになるのはもう、嫌なんだから」

 それは誰にも聞かれぬほど小さな声で呟かれたが、しかし確かな決意を孕んでいた。
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