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コルシカの修復家 作者:さかな

8章 孤独に咲くひまわり

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第五六話 瞼の裏のオレンジ

 それは意外と近い場所にあった。
 そもそも、その場所ならルカも知っていた。

 ニノンがあまりにも改まった顔で言うものだから、てっきりミュラシオルの外れに綺麗な花畑でも見つけたのだと思っていた。しかし彼女が「あそこだよ」と指差したのは地上ではなく空で、訝しげに見上げた先には今しがた二人が居た家の二階――はたしてそう呼べるのか不明だが、とにかく一階よりも高い部屋なのは確かだ――があった。意外と近いというより、ものすごく近い。
 仰け反るように空を見上げたまま、ルカは「はぁ」と意味もなく感嘆の声をあげた。

 エリオたちがアトリエとして使用していた家はひどく変てこな造りをしている。農村でよく見かける平たい建物に、赤茶の屋根。その屋根の中央からは煙突のような柱が突き出ていて、てっぺんに屋根のついたバルコニーのようなスペースがくっついている。
 ルカは最初その家を目にした時、なんてアンバランスな建物なのだろうと驚いた。天から降ってきた金槌(かなづち)が柄を下にして屋根に突き刺さったかのような、とにかく今まで生きてきて一度も目にしたことのない変てこな形をしていた。

 柱に沿って設置された鉄の梯子(はしご)を登るたび、カツンカツンと乾いた音が空に響いた。
 ぐっと手を伸ばし、一段上の錆びた鉄パイプを掴む。同じように一段上に足をかける。腕で体を引き上げ、また手を伸ばす。時折下の方からニノンが何か喋っている声が聞こえてくるのだが、風の音が強くてよく聞こえない。きっと「風が強いね」とか「高いね」とかそんなことだろう。ちゃんと下からニノンがついてきているか気に掛けながら、ルカは順調に梯子を登った。

「はー、やっぱり高いねえ」

 登りきるなり、ニノンは嬉々として一帯をぐるりと囲む鉄柵のところまで走っていった。そのまま柵の上で手をついて、ほとんどもたれかかるようにして空を眺めた。ルカも遅れて後を追い、隣に並ぶ。
 柵の向こう、目線と同じほどの高さには険しい岩山や緑の山々が連なっている。水色の空を背に沸き立つ入道雲。なだらかに続く緑色のひまわり畑。吹き抜ける風に、ルカは故郷アルタロッカ地方の悠然な自然を思い出した。毎朝早起きして飼い犬のレオと見たレヴィの夜明け。谷から吹き上がる風に混じる、マキのハーブの香り――。
 高いところまで登ったからか、蝉の声はずいぶん薄らいでいる。代わりに霊長類のヒョロロロッという鳴き声が近くでした。

「すごいでしょ? コニファーが教えてくれたんだよ」
 ヒュッと音を立てて何かが視界を横切る。王族鷲のつがいだ。翼をまっすぐ伸ばして風に乗り、つがいはあっという間に山の彼方へ飛んでいった。
「この場所一体何なんだろうって、実はちょっと気になってた」
「変な形だもんね。展望台なのかなぁ」
「いや……」

 ルカは展望台の中を見渡してみた。中央に木でできたシンプルなベンチが置かれている。そこから向かって左手奥に、ベンチと同じくらいの大きさの木箱がある。
 側まで寄って、ルカは木箱の蓋を押し上げた。開ける時、蓋はギシギシと歪な音を立てた。もう随分と放置されていたのだろう。中を覗いてみるとそこにもやはり木でできた何かがあって――「イーゼルだ」と、ルカは思わずぽつりと呟いた。

「イーゼル?」
「うん。それだけじゃない。筆とかパレットとか、絵具とか……」

 漁れば漁るほど、中からは絵画の道具が溢れ出てきた。整頓はされていないが全て綺麗に洗われた状態で保管されている。だけどうんと使い古された道具ばかりだ。

「あの人たち、ここもアトリエとして使ってたんだ」

 漁る手を止めて、ルカは鉄柵の向こうへ顔を向けた。ニノンもならって同じ方を向く。
 エリオが好んで描いたひまわり畑が視界の端から端まで続いている。もし今ひまわりが満開に咲いていたらどんなに綺麗だろう。
 彼はその景色に魅了されたのだろうか。
 彼にとってひまわりとはなんだったのだろうか。

「ね、ルカ。こっち来てみて」

 呆然と緑のじゅうたんを眺めていたら、ニノンがこちらに向かって手招きをした。なんでも素敵な景色がここから見られるのだと言う。何だろうと首を傾げながらも、ルカは引かれるままに反対側の鉄柵に立った。

「あそこ」
 と、ニノンは人差し指をまっすぐ山の方へと指した。目を細めて指されたあたりを睨んでみる。山。空。雲。それぐらいしかない。

「ほら、あの山と山の間」
 痺れを切らしたニノンの両手がぬっと伸びてきて、ルカの頭をくいと少し右に回した。定められた視線の先には一際目立つ、緑色の濃い双山がそびえている。そこで「あっ」とルカは短く声をあげた。

「海だ」

 山と山の間。ちょうど谷になっているところに、光る海が見える。それは瞬きすれば見失いそうな僅かな隙間にひっそりと顔を覗かせていた。まるで雨溜まりみたいだ。

「ね、素敵でしょ。山なのに、海!」
 ルカは素直に頷いた。
「あんな小さな水平線、よく見つけられたな」
「エリオさんが教えてくれたのかも」
「え?」

 ニノンは柵から手を離し、ベンチにそっと腰を下ろした。首を傾げながらルカも後を追うように隣に座り込む。
 絵画の声だけじゃなく、ニノンの耳には亡き人の声まで届くようになったのだろうか。

「この村に足を踏み入れてからね、少しずつ、少しずつだけど、誰かの――ううん、エリオさんの絵画のイメージが頭の中に流れ込んでくるんだ。その景色の中で見たのかなぁ。あんまりはっきりと覚えてないんだけどね」
 やはり汲み取ったのは絵画に染みついたイメージだったようだ。だとすれば――
「この村のどこかにエリオさんの絵がまだ残ってる?」
「うん。多分ね。きっとそう。それにね、今までと違って何か明確なメッセージを伝えようとしてくれてるみたいだった。きっとすごく大切にされてた絵画なんだよ」
「大切に、か」

 曖昧に頷いたあと、ルカはもう一度山間に見え隠れする海へと目を向けた。

 エネルギーの原料になる絵画。そこに染み付いてしまった画家の想い。
 AEP生成の代わりに消し飛んでしまう意思のかけらは、どことなくあの海に似ている。地上に立つ人間で、太陽の光を浴びて輝く小さな水平線に気付くものはいない。
 絵画もそうだ。その絵に潜む誰かの想いに気付く人間はいない。
 たった一人の少女を除いては。

「ニノンのその能力(ちから)ってどうなってるんだろう」
「……やっぱり不思議?」

 返ってきた声には少しだけ不安な色が混じっていた。ルカはすぐさまかぶりを振る。
 ただ単に凄いと思っただけだ。そう伝えてやると、ニノンはほっと息をついて安心したような顔を見せた。

「高エネルギーに換わる条件さえ満たしていれば良いはずなのに、それ以外に特別な気持ちがこもっていたりする絵が存在する。例えば今朝の絵もそうだ。詳しくは分からなくても、なんとなく、当時カヴィロさんがどんな気持ちで絵を描いていたのかが画上に表れてるみたいに思えてさ」

 地面に埋まったまま芽の出ない種。それは焦燥や憤りに負けそうになりながらも、いつか陽の光を浴びる瞬間を夢見ている。

「俺はニノンみたいに想いを汲み取ることはできないけど、修復作業の過程でその一片を見ることがあるんだ。下絵から、筆さばきから、色の置き方から――そのひとつひとつから」

 言葉を紡ぎながら、ルカは静かに瞼を伏せる。

『絵画は気持ちをしまっておくアルバムだよ』
 修復家を引き継いだ日に、光太郎はこんな言葉をこぼした。
 AEPを獲得する為の原料に、どうしてそんなにも気持ちを込めるのか。結局は跡形もなく消えてなくなってしまう媒体に、画家が魂を削ってまで絵を描き出す意味とはなんだ。そんなものに価値はないと言いきった、カヴィロの表情が苦しげに歪んでいたのはなぜなのか。
 核心は泥の中に埋もれたまま、未だに見つけられずにいる。

 ぐるぐると渦を巻く感情は、しかし批判ではない。むしろ逆だとルカは思う。条件を並べただけじゃない、想いのこもった絵画に出会うと喜びすら感じられたのだ。その感覚は世間から見れば異端で、非効率でおかしいかもしれない。
 道野家がレヴィの村人から爪弾きにされていた理由はきっとそれだった。

 だけどそれは本当におかしいことなのか?
 世界の常識とはなんだ?

「効率さを(うた)う世の中にあって、それでも想いを絵画に忍ばせる画家がいるのはどうしてなんだろう」

 幼い頃から心に引っかかってきた違和感の正体が、今、徐々に頭をもたげて姿を現そうとしている。
 絵画を見て心揺さぶられる感情がある。
 それはエネルギーの足しにはならないが、淘汰(とうた)されずに確実にこの世界に存在している。
 それらが意味するものの中に、答えがあるとするならば――

「うんと昔の人は皆、そうだったからだよ」

 ルカはハッと目を見開いた。顔を上げてニノンを見る。
「昔?」

「AEPが発明される前の『画家』は『芸術家』だったんだよ。何かを表現する為に、彼らは絵を描いたの」

 まるで言語なんて知らない生き物になったみたいに、ルカは言葉を失った。頭の中でカチカチと火花が散る。散った火の粉が暗闇に落ちて、そこからまばゆい速度でたくさんの色味が広がってゆく。まるで無数の絵の具がキャンバス上を踊り、絵を描きだしていくように。

 誰かの感情。伝えたいイマジネーション。
 それらに自由があった時代へと、心がタイムリープする。

 人間がまだ人間であった頃。表現が尊ぶべき人のアイデンティティだったとしたら?

 きっと誰もが、心惹かれる絵画に素直に称賛をおくれたのかもしれない。
 美しいものを美しいと語り合えたのかもしれない。
 かつての世界は、そうだったのかもしれない。

 ばくばくと血液が内側から心臓を叩いている。
 まるで世界の真理を目にした物理学者の気分だ。あるいは海から這い上がり、陸地に顔を出した両生類の気分だとも、ルカは思った。

「ニノンは、どうしてそれに……」

 気付いたんだ、と言おうとしたのに、驚くほど声が擦れて最後まで言えなかった。ルカは急いで咳払いをし、言い直す。
「まるで昔の時代を知ってるみたいだ」
 ニノンは「んー」と少しだけ首をひねって考え込んだ。

「私には記憶がないから」
「それって関係あるのか?」
「『先入観がない』ってことだよ。今の世の中のやりくりの事はあんまりわかんないけど、代わりに私は、私の心が思うことを素直に受け止めることができる。それで思ったの。きっと昔はこうだったんじゃないかなァって」
「そっか」

 ルカは長く息を吐いて、ベンチの背もたれにずるずると体を預けた。ニノンの言葉は清らかな水だ。なんの抗いもなく体にしみ込んで、網膜に張り付いたフィルターを優しく剥がしてくれる。
 そんなことを考えていたら、無意識のうちに「かなわないな」と口の中で呟いていた。それがうまく聞き取れなかったようだ。ニノンは首を傾げてじっと青い瞳を覗き込んでくる。「なんでもない」と適当にはぐらかして、ルカはいっそう首を肩に沈ませた。
 王族鷲が、今度は一羽、すいっと青空を横切っていく。

「私ね、いつか昔みたいに芸術家さんたちが自由に絵を描ける時代が来たらいいなって思うんだ」
 風に揺られる焦茶の翼を目で追いながら、ニノンは言う。
「俺もそう思うよ。そうしたらもっと素晴らしい絵画をこの目で見ることができるし」
「自分の気持ちを抑えてる人だってきっと、楽になれるよね」
「ああ……」

 曖昧に頷いて、ルカは視線を落とした。視界の裏側にアダムの姿が浮かぶ。胸ぐらを掴まれた瞬間。鼻先まで迫った彼の顔が忘れられない。
 開いた瞳孔が、震える頬が、「裏切られた」と訴えていた。

――そんなつもりじゃなかった。だけど、自分は彼を傷つけたのか?

「アダムはね」
 唐突にニノンの口からその名が出たので、ルカはびくっと肩をこわばらせた。
「ルカのこと嫌いであんな風に怒鳴ったんじゃないよ。だってあの時、二人ともおんなじように傷ついた顔してたから」
「俺も?」
 ルカは思わず上体を起こした。
「うん――って、ルカもショックって顔してたでしょ?」
「俺は……ショックを受けてるのか。分からない」

 はぁ、とニノンは驚いた顔をしてこちらをまじまじと見つめてきた。なんとなく居心地が悪くてルカは顔を背けた。視界に入るくらいに落ちてきた太陽が眩しくて、思わず目を細める。
 だが光は瞼の裏側に焼きついて離れなかった。赤みがかったオレンジ色の光。太陽の色。

「初めてだったんだ。男友だちができたの」

 はた、とニノンは目を瞬いた。

「家族以外であんなにたくさん語り合ったことなんて今までなかった。……すごく、楽しかったんだ」

 嬉しかったのだ。同じような世界を見ている人間がいるということが。
 新鮮だったのだ。ぐいぐいと懐の内側に入り込んでくる存在が。

「だから嫌だったんだ。展覧会はAEPの還元率に重きを置いている。アダムの語る方向性とは違うと思った。そんなものに否定されて、傷つく必要なんてないって――結局、アダムを傷つけたのは俺だったけど」
「ルカ……」

 うまく笑おうとしたけれど駄目だった。心配そうにこちらを伺うニノンの視線を振りきって、ルカは俯いた。
 小さい時から飼い犬だけが友だちで、独りで居ることには慣れっこだった。周りからは疎まれてばかり。異民族だとも罵られた。別段つらくも寂しくもなかったはずなのに、どうして今さら悲しいだなんて思うのか。

「そんなつもりじゃなかったんだ」

 洗浄液で汚れっぱなしの指先がひどく滑稽に見える。ルカは己の両手をベンチの上へとぞんざいに放った。
 きっと何を言っても言い訳がましく聞こえてしまう。言葉だけじゃ、歪みなく己の気持ちを相手に伝えるのは難しい。そんなこと今さら気付いたってもう遅いのに。

 音もなく息を吐き出した時、左手に何かが触れた。放り出されたままだった手のひらに、そっとニノンの右手が重ねられていた。紫水色の瞳はまっすぐ鉄柵の向こうを見つめている。どこか遠い、知らない場所を。
 そうしてニノンはぽつりと呟いた。

「愛がなければ、悲しんだりしない」

 風が強く吹いた。ニノンはこちらを振り向いて、優しく笑う。

「昔、私も誰かにそう言われた気がするの。誰だったかな、忘れちゃったけど。『どうでもいい人になら何を言われたって強くいられる。大事だから辛くなったり悲しくなったりするんだ』って」

 ニノンもいつか、誰かと喧嘩をしたのだろうか。親しい誰かと。
 怒って泣いて、落ち込んだあと、雨が上がったような笑顔を見せるニノンを想像した。ころころ変わる表情が彼女らしくて、ルカはにやっと笑みをこぼした。

「そうやって思えるのがニノンのすごいところだよ」
「ふふ、受け売りだけどね」
「そうだった」

 浮き輪の空気が抜けるみたいに、いつの間にか苦しさが体から出ていったような気がした。
 ニノンが隣で何かを話している。ルカはその楽しげな声に耳を傾けながら、吹き抜ける風に自身の黒髪がそよぐのを見ていた。やがて心地よい眠気が訪れて、まどろみの中に瞳を閉じた。
 瞼の裏側に広がるオレンジは眩しいくらい明るくて、だけどどこまでも優しかった。
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