第31話 合流
それにしてもきばりすぎだよな、と呟いてアダムは地面に転がる小石を足先でいじくった。
「修道士はそんな汚いこと言わないもん――あ、ニコラス!」
セレクトショップの並ぶ通りを歩いてくる男の髪色は不自然な黄緑色なのでよく目立つ。髪だけじゃない。花柄をしたショッキングピンクのシャツも、夏草の蔓のように鮮やかな緑色のスキニーパンツも、全てが目立っていた。
「あんたたち、町の散策はもう終わったのかい?」
「うん。あのね、この町で知り合った女の子に案内をしてもらってね。その後大きな図書館にも行ったんだよ! ええと、それから――」
言葉が気持ちに追いつかずにつっかえつっかえ話していると、後ろからぼりぼりと頭をかきながらアダムが口を挟んだ。
「どこ行ってたんだよニコラス。なげェんだって、ウン――いってェ!」
アダムは悲鳴をあげるなり顔を歪めて飛び上がった。ニノンが左足を思いっきり踏んづけたからだ。
「そういえばルカ、あの追いかけてった仮面の男はどうしたの」
ああ、うん、とルカは気まずそうに口をもごつかせた。とっさに飛び出したものの逃げられただなんて格好悪いにもほどがある。しばらくうじうじとしていたら、しょげた背中をぽんと叩いてニコラスが笑ったので、ルカは足元に落としていた視線を上げた。
「もしかしてその仮面の男、あんたの言うベニスの仮面じゃないかもしれないよ」
「え?」
「だってこの町は、そいつらが被ってる仮面の産地だからね」
顔を上げた先ではニコラスが意味深ににやりと笑みを作っていた。
「産地?」
「そうさ。一週間後に開かれる『マスカレード・カーニバル』で使われる仮面のね」
あそこに並んでる店の中を覗かなかったのかい、とニコラスは市場と反対側の通りを顎でしゃくった。目を凝らして遠くのウィンドウ内を探ってみると、確かに仮面のような物が展示されている店がいくつかあった。
絵画の怪盗集団が〈ベニスの仮面〉と呼ばれるきっかけになったというヴェネチアンマスク。それらはこの町では簡単に手に入る代物だ。あの仮面が目に飛び込んできたせいで、森の中にいた人物をベニスの仮面の一人だとばかり思っていたが、一概にそうとも言えない。ルカは落胆の表情を浮かべて小さくため息をついた。
「追いかけ損だった」
「ふふ。いいじゃあないの。おかげでこの町を訪れることができたんだし」
ニコラスはぐるりと町中を仰ぎ見た。コルシカ島一番の都会であるアジャクシオほど華やかではないが、おだやかに賑わう小さな町。その陰でひっそりと生きるひとつの家族を思い出して、ニコラスは肺をぎゅっと握られた気分になった。
「ねぇ、ニコラス」
好奇心旺盛な紫色の瞳がニコラスを覗き込む。ニコラスは、ん?と首をかしげて少し膝を折った。
「マスカレード・カーニバルってなに? さっきお友だちになった女の子も言ってたけど」
「イタリアで有名だった祭の名前だよ」
わざとらしく左足の甲をさすりながらアダムが答えた。
「本物のヴェネチアで冬に開催されてた祭りが元になってんだよ。皆が皆仮面で顔を隠して、体も真っ黒いマントやらカラフルな色の布で隠してさ、仮装するわけ。そんで町中をふらふらしたり、飲み食いしたりして」
言いながら右の手のひらをぴっちりと閉じてマスクを模した形にすると、それを顔に覆いかぶせた。反対の手で空をかっきりマントを翻す真似をして、怪しい足つきでニノンの周りをくるっと回る。
「最後の晩は『仮面舞踏会』が行われるんだ。その夜だけは立場や身分差なんかすべて忘れて楽しむことができる。誰とも知らない相手とこうやって手を取って――」
「わわっ」
そのまま流れるような動作でニノンの右手をすくい取り、少女のへっぴり腰に手を添えてくるくると踊りはじめた。
ぎこちなかった足取りもやがて軽やかになり、ニノンはまるで自分がお姫様になったような心地がした。淡いピンクのドレスに身を包んだ小さなお姫様。ただの石畳みはシャンデリアの映り込む大理石へと姿を変える。オーケストラが奏でるワルツがホールを包む。舞い散る色とりどりのドレスが音に合わせてステップを踏む。異国の熱気をはらんだような空気。次々と手を取っては連なった輪の中へ消えていくマスクの男たち。
ワルツが一番の盛り上がりを見せた時、目の前には運命の男が現れる。その手つき、足つき、リズムに身を任せる全てから、この人は運命の相手なのだと悟るのだ。
顔さえ分からぬ相手に恋をする――心地よさに瞳を閉じかけた時、ふいに男が仮面の下で微笑んだ気がした。ニノンはそれをじっと見つめる。男は踊りながら仮面に手を添えると、それをそっと外した。隠されていた顔が露わになる。夜の闇より真っ黒な髪の毛、吸い込まれそうなほど綺麗な宇宙の瞳――。
はっと我に返った頃、踊りは静かに終わりを告げた。
「で、みんなこんな風に一晩の恋や禁じられた逢瀬を楽しんだってわけ」
アダムは右手で空を撫でて、そのままゆるくお辞儀をした。
「恋、かぁ」
ニノンはため息とともに小さく呟いた。トクトクと柔らかい音を立てて心臓が脈打つのを感じる。どうして頭の中に黒い髪の男の子が――ルカが――?
そう思った瞬間、ニノンは自身の頬がぼっと赤らむのを感じた。
「あら。恋煩い? 今夜相談に乗ってあげましょうか」
「ち、違うってば」
ニノンは思わず両手で頬を包み込んだ。両頬はカイロのように温まっていて、ぬるい風に当てられた手のひらでは到底覚ませそうにない。
「そうかそうか。とうとうニノンも俺に惚れちゃったか」
「あーもう、話をややこしくしないでー!」
頭の中に浮かんだ舞踏会の妄想をかき消すように、ニノンは桃色の髪を乱暴にかき混ぜた。何がおかしかったのか、おそらくさきほどの会話だろうが、ルカはぷっと小さく吹きだした。一緒になって笑おうとしたけれど無理だった。視線はせいぜい足元止まりで、ニノンにはそのまま顔をあげる勇気がなかった。
ふと視界が陰る。見上げるとニコラスが優しく微笑んでいた。
「素敵なお祭りでしょ」と身内の自慢をするように誇らしげに言ったので、ニノンは満面の笑みで「うん」と返した。ニコラスはそのままくるりと体を回して後ろでつっ立っていた二人に向き直る。
「それでひとつ提案があるんだけど」
ピンと伸びた背筋にキレのある動きは、いつ見てもどこかステージ上でパフォーマンスをする役者のように見える。
「せっかくだから私たちもカーニバルに参加していかないかい?」
「それ賛成!」
「はぁ!?」
相反する反応を示したアダムとニノンは、お互いの顔を見合わせて眉間にしわを寄せた。
「広場にポスターが貼ってあったけどよ、開催は一週間後だぞ? 宿代どうすんだよ、宿代」
「う……。で、でも一年に一度しかないんだよ。ねぇ、ルカは……」
声をかけてからニノンはしまった、と思った。彼はおそらくカーニバルに興味など抱かないだろう。すがるような目線ですっかり熱の引いた顔をルカに向けると、意外にもその顔は無表情ではなかった。
「いいと思う」
「えっ、ほんと? ありがとうルカ!」
「はァ?」
うさぎのようにぴょんぴょんと跳ねまわり、あげくニコラスと手を取り踊りだしたニノンを尻目に、アダムが不機嫌そうな顔をしてルカに詰め寄った。
「次の町に急ぐんじゃねえの? つかお前、カーニバルに興味ないだろ?」
宿は、金は? とまくし立てるアダムを、ルカはやんわり押しのけた。
「仮面ってさ」
「あ?」
「色んな模様があるんだ」
ルカは遠くに並ぶ店のウィンドウに目を向けた。
「職人さんが一つ一つ手で作ってて、絵具で色をつけるんだって」
真っ白な仮面は無地のキャンバス。彩るのは職人の思い描いた夢の世界。希望。未来。何でもありだ。
「昔おじいちゃんがそんな話をしてくれたんだよ。ヴェネチアンマスクは芸術だって。もしかしてこの町に来たことがあるのかも」
「……おい、ルカ」
アダムは嫌な予感しかしなかった。普段は古代遺跡の中に眠っている銅像みたいに息を潜めているだけなのに、今のこいつときたらまるで別人だ。銅像に魂が乗り移って、活き活きと動き回っているみたいな顔をしている。
どこだ。いつスイッチが入ったんだ。アダムはごくっと唾を呑みこんだ。
「俺、カーニバルで色んな仮面を見てみたいよ」
そんなに瞳を輝かされたらどうしようもない。アダムは精いっぱいの力を込めて盛大にため息をついた。
「わかった、わかったよ。参加するよ。はいはい満場一致。――けどよ、俺一週間も車中泊なんてやだぜ」
腕を組んでぶすっとした表情のまま、アダムは斜め上を見上げた。
「それなら多分大丈夫よ」
ニコラスは踊るのを止めてアダムの方へ向き直った。
「私が参加を提案したのは、ただカーニバルを楽しみたかったからってだけじゃあないんだよ」
「は? どういうことだよ」
「アンタらに相談したいことがあるんだ」
そこで一旦言葉を区切ったニコラスは、周りを確かめるように左右に視線を振った。湿気を含んだぬるい風が広場を突っ切って、しな垂れた黄緑色の前髪を揺らす。
「カーニバルで使う仮面の数が足りなくなるかもしれないんだ。詳しい話は行ってから話すよ」
「あ? どこに行くって?」
耳にぶら下がった金色のリングを揺らしながら、ニコラスはにっと笑ってみせた。
「今夜私たちを泊めてくれる家にさ」