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ガンマン

生意気な新兵とおっかない古兵殿

作者: 沼津幸茸

 入隊した新兵達は、前に書いたように身支度を整えさせられたあと、それぞれ各方面混成団の教育大隊という新兵教育部隊に放り込まれる。これは当時も現在も同じである。

 忘れてしまった人もいるかもしれないので、ここで改めて帝国陸軍の新兵教育制度を簡単におさらいしておこう。

 新兵教育課程には前期後期の二段階がある。前にも書いたとおり、候補生課程と基本課程、基本教育課程と兵科教育課程などと名前が二転三転しているため、この教育課程が今後も同じ名前で続くかどうかは保証できない。ただ、この時点の私が受けたのは前期教育であり、私が除隊した時点でも同じ名前で実施されていたことは確かである。

 前期教育ではまだ新兵は制度上正式な軍人ではなく、一般候補生、略して「般候ぱんこう」と呼ばれる。この時期に精神教育や体力錬成や生活指導や戦闘技術など「兵」となるための基本を叩き込まれる。怖い班付や班長に髪型や営内での生活の仕方を口うるさく指導され、腕立て伏せや駆け足や帝国軍体操などの合間に射撃や格闘術の訓練をさせられる。基本教練や戦闘訓練、射撃訓練、団体行動などを仕込まれるのだ。この時点ではみんな同じことを習う。空挺兵志望だろうと歩兵志望だろうと戦車兵志望だろうと輜重兵志望だろうと、一般入隊組は例外なくまずここから始める。

 前期教育を終えると身分が一般候補生から二等兵に変わる。「クズども」、「般候ども」から、やっと「新兵ども」に昇格するのだ。

 ただし、そのことを喜ぶ間などない。すぐに後期教育が始まる。ここでようやく兵種別の特技教育が始まって少し面白くなってくる。個人としても集団としても本格的な戦闘を仕込まれるのがここからである。


 さて、最初に説明した新兵教育の大まかな内容を思い出してもらえたということで早速今回の話を始めたいところだが、実はもう一つだけ頭の片隅に置いておいてもらいたいことがある。あの頃の軍がどれだけ人材不足だったかという話だ。老人の繰り言になるが、我慢していただきたい。

 本当にもう百回くらい繰り返したような気がするが、この頃、つまり、自衛隊から帝国軍に改称・改編された実力組織が第二次世界大戦後初めて他国に対して公然と明確な武力行使を行なった東亜戦争が始まる何年も前の時点で、既に軍は兵隊の成り手を選べる時代ではなくなっていた。

 というのも、ちょうどその頃は国解党政権の下でオイルショックとチャイナショックのダブルショックから立ち直って久しく、民間の景気が上向きを示していた一方、今と違って軍隊自体就職先としての人気が低迷していたから、ある程度以上の能力や学歴のある若者の多くが民間や他のお役所に取られてしまっていたのだ。大卒の一般入隊者が高卒者や中卒者の就職先を圧迫したという伝説のある二十世紀末から二十一世紀初めの頃とはまるで違い、私が入隊した頃は、高卒どころか中卒でさえ優秀な人はなかなか一般入隊しようとはしなかった。大卒者は一般士官候補生、高卒者は一般下士官候補生、中卒者も年齢制限を超えない内は高等工科学校を目指すのが普通だった。しっかりした福利厚生も、限りなく空手形に近い資格取得や就学支援の制度も、下士官昇任制度も、任期満了金も、兵として大過なく三任期以上勤めて名誉除隊すると貰えるいくつかの特典(公務員優先採用や特別就職援護、戦友会加入権、武器検定特級認定等)も、条件のいい職場に自力で入れるような若者にはピンと来なかったのか、あまり興味を惹けなかった。任官と同時に任務上の必要に応じて受けられる生体増強処置などは除隊後を見据えると結構いい役得だと私は思うのだが、会計科では筋力増強処置を受けづらいなど処置の内容を自由に選べない運任せの部分のあることや数百万円も払えばきちんとした専門医からそれなりの処置を望み通りに受けられることもあってか、決定的ではなかった。空挺団や特殊作戦群のような精鋭部隊に配置されれば、事情次第で戦闘特化の高度な増強処置を何億円分も受けられる可能性があるが(参考までに述べると、四十年余り勤めた私の増強費用の総額は民間の相場だと八億円に迫るらしく、給与等を合わせると私の単価は四一式戦車よりも高い)、これは当人の能力と運勢が要求されるから、水準以下を自認する者は宝籤でも買うほうがまだ賭けとして分があるのではないだろうか。だからして、陸軍を通じて夢を叶えたいという読者は、どんな環境に放り込まれても他人を退けて我を通す自信と能力があるかを一度自分の胸に訊いてみることをお勧めする。私や私の誇らしい仲間達のうち、陸軍で希望を叶えた者は、一人の例外もなく他の仲間の夢を踏み躙ってきた。私が装輪操縦課程の参加枠を得たとき、同じく大型車の免許を欲しがっていた兵の誰かが涙を呑んだのである。

 こういったこともあり、汗臭くて泥臭くて何かと窮屈な軍に注目する者は少なかった。そのただでさえ少ない連中も、既に書いたとおり多くが一般士官候補生や一般下士官候補生としての入隊を目指すばかりで、人生の数年から十年程度をはした金で売り払う、懲役にも似た一般入隊などには洟も引っ掛けなかった。

 そういう状況だったから、必然、人を選べないクソみたいな職場に来るのは職場を選べないクズみたいな奴ばかりだった。軽く例を挙げれば、書類上中学校を卒業したことになっている愚連隊や不良上がり、ちょっと前まで刑務所にいたような前科者、民間からも役所からも「お前は要らないよ」と言われた無能などである。中には災害派遣や海外派兵での雄姿を見て軍に憧れる理想家や緊迫する日中関係を憂えて真面目に国防を考える熱血漢、軍を夢を叶えるための下積みや腰掛けと考える計算高い人もいたが、私のように国費で戦争ごっこをしたいだけの馬鹿野郎や顎で使える部下欲しさに入ったアホ野郎、そして既に書いたようなクズが過半を占めていた。我々が生まれる前、二十世紀末のバブル期と呼ばれる時期の自衛隊のことはいくらか聞いているが、都市伝説めいたその情報が全て真実であったとしても、この頃の陸軍のほうがよほどひどかったと思う。当事者である分見方に偏りがあることは認めるが。

 今はもちろんそういったことはない。東亜戦争に勝ったくらいから軍は変わり始めた。若者を中心に人気が復活し、兵隊の成り手を選ぶ余裕と指導を緩められる状況が生まれ、またそれが職場としての人気を高めるという塩梅で、兵員の質がぐっと良くなり始めたのである。もっとも、理想家と言うか、陸軍に変な幻想や期待を持って入ってくる者が増えたことも事実ではあるが。こういう連中は少しばかり面倒臭かった。

 このように問題がないでもなかったが、私が除隊したくらいの頃にはすっかり体質も変わっており、良くも悪くも別の組織になっていた。新兵や部下に指導が必要なのは変わらないが、叱りつけたり小突いたりすることはあっても、おっかない軍曹殿が言うことを聞かない二等兵をひどく殴りつけて医務室送りにするようなことはまずない。民間や学校と同じく手酷いいじめもあるにはあるが、運や要領の良い者だけが避けられる時代から、運や要領の悪い者だけが巻き込まれる時代になった。ちょっとした新兵いびりや新任士官いじめのようなものは相変わらず横行していて誰もが一度くらいは体験するが、一種の伝統行事のようなものであって、半ば形骸化している。体育会系の部活動を経験した人ならばわかると思うが、そういう団体では、新入部員が先輩から宴会芸をやらされたり個人的雑用を命じられたりする。それを軍隊流に多少荒っぽく――ついでに下品に――したような試練が新兵や新任士官に与えられるのである。

「軍は変わった。新兵に気合が入っていた昔のほうがよかった。今は何を言ってもはいはい言うことを聞く素直な奴ばかりでつまらない」などとぼやいて知りもしない「昔」を懐かしむ教育要員も結構いたが、そういう奴にはつい「何を贅沢言ってやがんだ。俺が入った頃はなあ」と年寄り臭い説教をしてしまったものである。とにかく、私が若かった頃の新兵連中は、他ならぬ私自身を含めてひどいのが多かったのだ。かく言う私も東亜戦争勃発前の氷河期に一度ばかり新兵教育に関わったことがあるが、班付を務めたあの日々、糞まみれの大便器に顔を突っ込ませて陸で溺れ死にさせてやろうかと誰にも思わずに過ごせる日など一日たりともなかった。


 タイトルとここまでの話の流れから、今回の内容を見通した人もいるのではないかと思う。練馬候補生が何か調子に乗って古兵殿にボコボコにされる話を期待されているのだと思う。

 だが違う。犠牲者は私ではない。

 今回の主役その一に当たる犠牲者氏は、仮に滝ヶ原候補生としておこう。

 彼は先ほど書いたような愚連隊上がりで、やりたい放題わがまま放題だった娑婆が忘れられないのか、入隊後も入隊前と同じような生活をしていた。髪の長さと色こそ私達真面目な般候くん達と同じ黒の短髪だったが、剃り込みが入っていたり、眉毛がなかったり、制服を着崩していたり、とどこに出しても恥ずかしい愚連隊で、入隊間もなくその腕っ節と強気な態度で何人も取り巻きを作って、まるで何任期も務め上げた古兵殿みたいな態度で営内を練り歩いていた。

 幸いなことに私とは班が違ったので直接の被害を受けることはなかったが、同班の連中はきつかったらしい。使い走りにされることはもちろん恐喝やらいじめやら、本当ならば教育が終わって中隊に配置されて初めて古兵殿達からされるような仕打ちを、建前上は同格の同期からされていたのだという。

 これだけひどいとさすがに教育隊の基幹要員も黙っていないはずなのだが、班付は叱りつけるどころかご機嫌取りに走る始末で、班長や区隊長もどうしたものかと手を焼き、半ば黙認状態にあった。この期の基幹要員が軟弱だったのか滝ヶ原候補生が極端に強かったのかと言えば、私のその後の経験から考えるにおそらく前者だったのだろう。きちんと訓練と増強を受けた歩兵が街の不良如きに勝てない道理がない。あの期の要員達に肉体的に常人と大差ない砲兵や戦車兵等の出身者が少なからずいたことを考えたとしても、仮にも武力で武力を粉砕するための訓練を重ねた者が無力な人を痛めつけるだけのチンピラに怯えた事実に擁護の余地はない。

 しかし、いくら担任者達が弱腰とはいえ、そこはさすがに軍隊だ。その辺の学校のようにはいかない。こういうときの対処法というものがきちんと存在していた。

 当時の教育隊に習志野上等兵という人がいた。主役その二に当たる。私の班の班付で、私とはこの後も長い付き合いになる人である。帝国軍に改編される前から既に「第一狂ってる団」の異名で呼ばれていた気違い精鋭部隊、第一空挺団の所属で、当時、下士官候補生課程に進む下準備として新兵教育隊と空挺教育隊の教育要員を経験するために派遣されてきていた。一般入隊組には珍しい大卒のインテリで(大卒の一般入隊者など東亜戦争以前はこの人くらいしか見たことがなかった)、この時既に兵隊としては年寄りと言っていい二十代後半に差し掛かっていた。下士官になっていない身でありながら特別選抜制度による特例で空挺レンジャー徽章を取得済みということで畏れられていたが、出来のいい者がいればちゃんと褒めてくれるし、出来の悪い者であっても真面目にがんばるようならば自由時間や休暇を返上して自主訓練に付き合ってくれる人だったので、新兵からは割合人気もあった。どうしても三五式小銃の分解結合を習得できずにいたとある同期は、習志野班付が班長と区隊付に掛け合って然るべき監督者がいれば課業時間外でも分解結合の練習ができるように計らってくれた上、監督者として将校まで引っ張り出した責任を取るかのように毎日消灯時間ぎりぎりまで教室に残って指導してくれたことを、三任期を満了して名誉除隊するまでの軍隊生活でも屈指の思い出だと語った。彼は「習志野さんがいなかったら、前期で逃げるか一任期で辞めていたに違いない」と言った。

 この習志野さんという人はとにかく物凄い人なのである。

 ところで読者諸氏におかれては、彼の恐ろしさを語る前に、私がここで「さん」と敬称を付けている点に注目されたい。私には彼を呼び捨てにしがたい理由があるのだ。

 もっとも、階級的な遠慮があるわけではない。彼の最終的な階級や補職は私よりも格下である。第一空挺団に所属していた点は一緒とはいえ、最終階級は私が「兵隊の元帥」であるところの准尉殿であるのに対し、あちらは下士官特修課程の入校資格すらない曹長だった。実は私のほうが、階級的には一つ、格式的には二つも上だったのだ。しかもあちらが小隊先任下士官や中隊係下士官であったのに対し、私は中隊や大隊の先任准尉を歴任した上、除隊前のほんの少しの期間ではあるが空挺団最先任准尉も経験している。制度の上では、敬語を使うべきはむしろ彼のほうだ。事実、退役後に会うたび、彼は私を准尉殿と呼んで殊更に謙ってみせてからかい、私が困惑するのを見て楽しんでいる。

 私がどうしても彼を呼び捨てにできずにいるのは、二つの理由による。

 一つは年齢と軍歴である。彼のほうが八つも年長である上、入隊時期も四年先輩なのだ。公式にはもちろん認められていないが、軍隊は階級よりも年季が物を言う面があるし、年長者に礼儀を守るのは社会的常識でもある。入隊六年目の伍長よりも、俗に言う八年兵や十年兵にもなった兵長殿や上等兵殿の方が、現実的には偉い。もっとも、中にはそれが通じないつわものもいる。習志野さんなどはその典型だ。三任期目で伍長に昇任した途端、彼は言うことを聞かない十年兵の兵長殿とそれを庇う古年兵達を当人らが泣いて詫びを入れても許さず連日気絶するまで殴り続け、口を挟んできた下士官や将校を駐屯地の体育館でいびり倒し、圧倒的な暴力と策略によって数日の内に中隊という猿山の序列を一新してしまった。しかし、こんな横紙破りは色々な意味で常人の為せるところではないので真似してはいけない。仮に私や読者諸氏が同じことをやったら、翌週には先任准尉に辞めさせてくださいと申し出ることになるだろう。恐怖と暴力で人を従えるのは一見簡単だが、実は親身に接して地道に仲良くなっていくほうが簡単なのである。

 それはともあれ、たとえ年功序列が現実であるとしても、制度的に正しいのはここで挙げた習志野さんの態度であることを忘れてはいけない。階級こそが本当の序列なのだ。年少の上官は年長の部下を敬い、年長の部下は年少の部下を慈しみ、しかし、年少の上官は年長の部下を断乎として従え、年長の部下は年少の上官に忠実に従う。これが理想だ。

 とはいえ、所詮、理想は理想である。人間というのは難しいもので、軍でも世間と変わらずこの逆の在り方がよく見られた。つまり、年少の上官が年長の部下を疎んじ、年長の部下が年少の上官を軽んじ、互いに反発するような、世間でもおなじみの困った関係である。そういう意味では、除隊するその時まで習志野さんが上官であり続けてくれたことは幸いだった。こちらが理不尽を言わなければ、たとえそれが事実上の死を命じるものであったとしても、彼はもちろん快く言うことを聞いてくれたはずだ。だが、彼に上官として命令を下すなど、想像するだけで胃が痛くなる。

 しかし、この第一の理由は本質的とは言えない。仮に彼が同期や後輩だったとしても、私はなるべく礼儀を守ろうとしたに違いないからだ。私が本当に畏れるのは彼の階級や年齢ではなく、その能力と人間性なのだ。彼はそれほどまでに恐ろしい人間なのである。事実、あの人に「おい、習志野!」と階級や敬称をつけずに横柄に呼びかけられる者は勤続年数や階級を問わず少なかった。彼がそうしろと誰かに強要していたわけではない。周りが勝手に恐れて気を遣っていたのだ。習志野さんは非公式な上下関係は組織を腐らせる本だと口先では批判しつつも、そのくせに、上官や先輩が自分の顔色を窺うのを止めようとはしなかった。いい性格をしていると思う。

 さて、習志野上等兵という人がどのくらい凄いかという話に戻ろう。その凄さと言ったら気違い集団と呼ばれる第一空挺団内でも気違い扱いされて畏れられ、逸話や噂話を書くだけでも本が一冊書けてしまうほどである、と言えば軍に詳しい人には大体察しがつくものと思う。ただし、逸話の多くはこんなところに書けないようなものばかりなので、著述業の端くれとしてはどうにも歯痒い。

 こんなふうに思わせぶりなことを書いて素人さんの興味を煽るだけ煽って煽りっ放しというのも座りが悪いので、習志野さんが上等兵時点で生んだ逸話の一部を簡単に紹介しておこうと思う。


 逸話その一。

 空挺徒手術(軍では素手の格闘術全般を「徒手術」と呼ぶのだが、軍種や部隊の特性に応じた訓練課程があり、「海軍徒手術」や「空挺徒手術」などと呼び分けている)の実戦想定訓練でのこと。習志野上等兵は前々から互いに嫌い合っていた武山二曹を訓練名目でしたたかに痛めつけた。彼はものの数秒で武山二曹をただ生きているだけの肉塊に作り変えてしまった。二曹は古年兵よりも古い生き物なだけあって当然生体増強の度合は上等兵の比ではないし、武山二曹の場合は更に格闘徽章と空挺レンジャー徽章を持つ帝国軍隊格闘術の権化でもあったのだが、まるで大人が幼稚園児を本気で殺しにかかったようなありさまだったという。

 話によると習志野上等兵は、開始と同時に武山二曹に組みついてためらいなく眼を潰してしまうと、音を立てずに側面や背後に回り、耳たぶや鼻を引き千切ったり、膝の関節に踏み蹴りを入れたりと苦痛を与えるための攻撃を続けた。武山二曹がたまらず身を縮こまらせて守りに入り、訓練された空挺レンジャーから情けと助けを求めて泣き叫ぶ被害者に成り下がってしまっても手を緩めたりはせず、防護胴衣に守られていない部位を重点的に踏み潰していった。恐ろしいことに金的も躊躇しなかったらしい。血も涙もないとはこのことだ。あまりの凄惨さにすっかり呑まれていた参加者達が止めに入った時には、もう武山二曹は瀕死だった。いくら日頃からいがみ合っているとはいえ、習志野上等兵も武山二曹も同じ釜の飯を食う中隊の仲間同士だ。それを相手にそこまでの圧倒的暴力を行使できる習志野上等兵には、さしもの空挺団の猛者達も、慄然たるものを覚えずにはいられなかったという。仲間に対する酸鼻を極める暴力に処罰を求める声もあったが、一連の動作そのものは空挺徒手術が敵を無力化する手順として指示するとおりのものであったため、とうとう処罰の根拠を見つけられなかったらしい。

 なお、武山二曹のほうもさすがのつわものといったところで、一週間も経つ頃には病院から原隊復帰を果たして平然と通常勤務に戻った上、その日のうちに再戦を申し込んだらしい。二度目の勝敗は引き分けとのことで、二人はそのとき互いの力量を認め合い、飲み友達になったという。この辺りは習志野上等兵の武勇伝と言うよりは第一空挺団が「狂ってる団」と呼ばれる所以となる逸話かもしれない。

 このときの勝敗に関して私見を添えさせてもらえば、おそらく、習志野上等兵が武山二曹より徒手術の腕前で優っていたのではない。むしろ格闘の腕では負けていたはずだ。

 こう書くとのちの習志野曹長は「それも含めて腕前だ」と憤慨されるかもしれないが、きっと心構えの差が勝敗を分けたのだ。つまり初戦においては、武山二曹が「自分が負けるはずはない」と油断した上に「所詮は訓練である」と想定していたところに、習志野上等兵が「全力を尽くさねば勝てない」と危機感を抱いて「ここで仕留める」と必殺の決意を固めてぶつかったからその結果になったのだろう、と私は考える次第である。

 我ながらこの推測は的を射ていると思う。なぜならば、のちに曹長まで上る習志野上等兵は、現役中ずっと格闘検定特級を維持したものの、本人に取得の意志があったにもかかわらずついに徽章を取得できずに現役を終えたからだ。格闘課程に入校してそれでもだめだったのだから言い訳は利かない。教官連が「格闘術」の教官ではなく「格闘道」の師範気取りの武道家気質だったので喧嘩殺法の自分と反りが合わなかった、と習志野さんは負け惜しみを口にしていたが、入校中の試合で現に黒星がいくつかあったという以上、何かしら足りないところがあったはずなのだ。実際、私の見たところ、習志野さんの格闘の腕前は一流ではあっても超一流に届かない。超一流に達した武山二曹を一度圧倒し二度目も引き分けた事実と矛盾して見えるかもしれないが、私に言わせれば何の不思議もない。習志野さんは格闘が上手なのではなく戦闘が上手なのであり、腕前の不足は知恵と覚悟と闘魂で埋め合わせているのだ。こんなことを書いたのが習志野さんにばれたら、やはり「腕前とはつまりそれだ。お前はやっぱりわかっていない」と難しい禅問答みたいなお叱りをよこされるかもしれない。だが私は意見を曲げる気はない。


 逸話その二。

 兵隊生活を通してのこと。習志野上等兵は適当な機会さえあれば階級や軍歴を問わず気に食わない相手に噛みつく「ずる賢い狂犬」だったので、なんとかして軍や空挺団から放り出してやろうと思う人が結構いた。しかし、習志野上等兵が戦闘要員や指導要員としてあまりにも優秀だった上、問題になる形で軍規を破ったこともなかったため、人材不足の軍にその選択肢はなく、結局曹長で自ら名誉除隊するまでなんぴとも彼を追放できなかった。階級が所詮下士官兵であって将校でなかったことも大きかっただろうと思う。将校では問題になることも下士官や兵卒では問題にならない場合がある、と言えばわかっていただけるだろうか。上級者には上級者の、下級者には下級者の役得があるものである。実際、私が二等兵として第一空挺団に配属されてから知り合った同団の、のちに大尉で軍歴を終えた目黒上等兵も「世の中がもっと平和か、階級がもっと高かったら、あんな野郎はとっくに刑務所に叩き込まれるか娑婆に叩き出されてる」と忌々しそうに語っていた。この人は一等兵の頃に習志野上等兵の下に配置されて折角の二枚目顔をひょっとこ顔に「整形」されてしまった被害者で、自費で整形手術を受けて容貌回復してからもずっと習志野さんを恨んでいたのだが、それを割り引いても信憑性は十分だ。何しろこの人からして、のちに部内の試験に通って将校に昇任してからは、ぜひにと頼み込んで習志野曹長を小隊先任に任命し、終生頼りにしていたのである。

 なお、目黒中尉は大尉昇任を控えていた頃、あの忌まわしきネオアクアポリスに先遣され、他の多くの先遣隊員がそうなったように、激戦の中で若くして壮烈な戦死を遂げて一階級特進された。小隊の残存兵員を率いて本隊と民間人の脱出掩護に就いているさなかのことだった。誤解があるといけないので付け加えておくが、先遣隊の数少ない生還者となった習志野曹長は、目黒中尉から小隊の指揮を引き継いで立派に任務を果たした。決して卑怯な振る舞いをして生き残ったわけではない。このことはその場にいた私が証言する。腹の傷から内臓がこぼれ出ようとするのを必死に押さえ、戦闘再生剤を注射しながら義務を果たす「小隊先任」が見せた地獄の鬼のような姿を、私は決して忘れない。


 逸話その三。

 血気盛んな愚連隊が「兵隊狩り」をやっていきがっていた頃のこと。駐屯地周辺での兵隊狩りがあまりにも続いたので、業を煮やしたある下士官が「兵隊狩り狩り隊」を組織し、課業終了後の自由時間を利用して街に繰り出すことにした。習志野上等兵もその中に交じり、他の軍人と一緒になって私物の銃でごろつき達を射殺して回った他、仲間が倒した連中にも率先してとどめを刺していったそうな。そのときは一晩で十人くらい仕留めて身ぐるみを剥いだ上、得た金を使ってみんなで一杯やったらしい。

 なお、当時まだ生まれていなかった若い人や法律を十分に勉強していない人が誤解をするといけないので、ちょっと書いておきたい。道義的にどう受け取るかは人によって意見が分かれると思うが、行為それ自体は法と軍規の枠内で行なわれた正当なものである。

 まず、他者に正当な理由なく危害を加えた者若しくはその危惧を強く抱かせた者並びに不法または違法な行為に及んだ者と及ぼうとしていると明らかに推定される者がいた場合、自衛上必要と判断した限りの加害が正当防衛として認められることは読者諸氏も承知のことと思う。完全に無力化されるか当事者間で和解が成立するまで、加害側は自衛上必要と見做される限りにおいて一切の権利を停止される。通称「アウトロー法」により暴力団などの職業的・常習的犯罪者が「公共の福祉に対する脅威」である反社会勢力として人権そのものを停止されていることも同様であろう。つまり、一般人が相手であれば安心できるまで攻撃を加えてよく、反社会勢力関係者が相手であればいつ何をしても犯罪にならないのだ。「虫けら同然の存在には何やったっていい。社会がようやく事実を認めたってことだ」とは他ならぬ習志野さんの言である。衝撃的な言葉だったのでよく憶えている。国民一人一人が理不尽な被害から自己を忌憚なく防衛するために採用された理念らしいが、私は学がないので詳しいことを説明できない。

 しかし、当時、軍人や警察官を始めとする公務員に限り、こうした自衛権は事実上限定的なものだった。民間人の場合は、攻撃される危惧を抱いた時点で自衛権行使が可能となり、外見や状況から反社会勢力もしくはそれに準じる者と推定した時点でアウトロー法を適用可能となる。ところが軍人や警察官の場合になると、自衛権行使には相手が明確な攻撃動作を開始するまで待たねばならず、アウトロー法適用には相手が公安委員会によって反社会勢力に指定された団体の構成員か準構成員であることを何かの形で示す必要があった。つまり、相手が銃口を向け終えるまでは銃を抜くことすらできず、相手がナントカ組の組員と名乗ったりナントカ組の誰某さんがバックにいると言ったりしない限りは黙って見ていることしかできなかったのだ。

 こうした事情にもかかわらず軍人を狙った犯罪があまりにも多発したことから(元々公務員が低所得者層から嫌われている上、軍人は犯罪者やチンピラの間で「倒すと箔のつく獲物」とみなされていたほか、大量の貯金、金遣いの荒さ、自衛権の制限などから絶好のカモと思われていた)、駐屯地のある千葉県では全国に先駆けてある条例が施行された。その条例は通称「防衛力保全条例」または「防衛関連条例」という。時の第一空挺団長が県や特別部隊集団司令部に窮状を訴えて状況改善を再三要望したところ、政治的実績を欲しがっていた県知事や超党派の議員達が国に働きかけ、千葉県を防衛特別地区に指定させた上で制定したものである。

 施行された新条例においては既に書いたとおりの規定に加え、政府等の許可または委託を受けた者を除き、理由の如何を問わず帝国軍人と交戦する全ての者を反社会勢力に指定する旨が盛り込まれていた。つまりこれは事実上、ほぼ全ての軍人に殺人と略奪の許可証を発行するものであり、濫用を危険視する声も少なくなかった。このため、新条例は全国に広まったのち、防衛関連法の整備に合わせて一律廃止される運びとなった。自衛権については、さまざまな法律や内規等の改定によって民間人と同等のものが保障されることとなり、そのまま現在に至る。

 蛇足ながらここで一応、軍の名誉のために付け加えさせてもらいたい。条例施行から兵隊狩り狩りが始まるまでに時間がかかったことからも察せられるとおり、軍は全体的にこの条例の利用――と言うか任務以外での暴力の使用――に慎重だった。教育と制裁も徹底していたため、無辜の民間人相手に濫用された例はかなり少ない。私の経験に限って言えば、見知った仲間に濫用者は一人もいなかった。私も、私の仲間達も、軍人たるの本分を忘れはしなかった。濫用率は一般人の犯罪率よりも少ないとの統計もある。表に出ない事例も当然あるはずだから、正味、一般人の犯罪率と同じ程度であろうと私個人は睨んでいる。

 さて、話を戻そう。

 そこで味を占めた習志野上等兵は仲間と共に夜な夜な愚連隊狩りをして小遣い稼ぎにいそしんだとも言われている。駐屯地近辺から愚連隊やそのように見える人物が絶滅するまで一月もかからなかったという。愚連隊が全滅したあとはヤクザがターゲットとなり、こちらは駐屯地と地元ヤクザの全面抗争にまで発展しかけたと言われている。最終的にはヤクザの親分がこっそりと駐屯地司令に泣きを入れるまでになり、既にヤクザが地域経済に小さからぬ役割を果たしていたことから、第一空挺団長名でヤクザ狩り――とはさすがに明言しなかったようだが――を自粛するように通達が出たらしい。その通達は実際に効果を発揮したようで、慎ましいことに、兵隊狩り狩り隊は十人狩るところを九人で我慢したそうだ。なお私が酒の席で当時伍長になっていた習志野さんに訊ねてみたところ、彼は「ヤクザのほうが金持ってておいしかったな。お前も狩るならヤクザにしとけ。あいつらなら人権がないから、何をしても問題ない。なんなら今度一緒に行くか」と悪びれもせず答えた。

「どっちが愚連隊だかわかりゃしない。さすが官営ヤクザの鉄砲玉部隊だ。民営ヤクザとはレベルが違う」というのが、この逸話を囁き合うときの私達の決まり文句だった。


 逸話その四。

 戦闘訓練中のこと。苛烈な指導を逆恨みした某一等兵が、こっそりと習志野上等兵の背中に照準を合わせて憂さ晴らしをしたことがあった。習志野上等兵は最初気づかない様子だったが、魔が差した一等兵が引き金を引く誘惑に駆られて指をかけたその瞬間、ぱっと振り返って小銃の銃身を掴んで取り上げ、急変する状況に思考が追いつかずに一等兵が戸惑う中、あろうことか顔面に床尾板打撃を加えて悶絶させてしまった。何事かと驚き詰問する班長に対して習志野上等兵は「こいつがうっかり人の背中に銃口を向けやがったものですから、ちょっときつく指導してやっているんですよ」となんでもないような調子で釈明した。班長が「ほどほどにな」と背を向けて見て見ぬふりを始めると、習志野上等兵はぐしゃぐしゃになった血まみれの顔面を押さえて震える一等兵の傍らにそっと屈み込んで「大丈夫か、傷口を見せてみろ」と声をかけて気遣うそぶりを見せながら、小さな声で「次はないぞ」と囁いたという。これに関してはちょっと面白い話があり、本人から聞いた話によれば、常に気を張って生きてきたせいか、「今すぐに反応しないと危険」というのがなんとなくわかるようになったらしいのだ。

 ともあれこれ以来、「習志野は背中に目がある」と評判になり、大分あとになって「背中に目のある鬼軍曹」という笑い話や替え歌まで作られた。


 とにかく、私の時の教育隊にはこういうとんでもない人がいたのである。このため、新兵や班付はもとより班長や区隊付、区隊長までこの人には一目も二目も置いていた。

 そういう扱いの人だったから、白羽の矢が立ったのも当然と言える。私はある日、区隊付が難しい顔で習志野班付に何事かを話しているのを見た。このときは「滝ヶ原の愚痴でも言ってんだろうな」と思っただけだった。実際は区隊付から滝ヶ原候補生への「指導」代行を要請されていたわけだが、その時の私はそんなことを知る由もなかった。

 何も知らない私は、その日の課業終了後、認識の甘さを目の当たりにさせられた。正直、そのときに見たものは、私が入隊から定年に至る四十二年間の陸軍生活で目にした中でもとりわけ怖いものの一つだった。今でも夢に見る。自分が滝ヶ原候補生になる夢を。そんなことをしてはいけない、すぐに習志野さんに謝らないといけない、とわかっているのに、夢の中の私は破滅に向かって全力で走り続けるのだ。

 課業が終了するとすぐ夕食と入浴の時間になるのだが、浴場に向かう廊下で、私は取り巻きを引き連れた滝ヶ原候補生を見かけた。私は仲間と一緒に端に寄った。廊下の真ん中を肩で風を切って歩く大名行列に出くわしたなら、壁際に寄って俯いて縮こまり、なるべく目をつけられないようにするのが暗黙の了解だった。同期の名誉のために書いておくが、私を始め、単純な殴り合いなら滝ヶ原候補生に負けないだろう者は少なからずいた。私達が本当に恐れていたのは滝ヶ原候補生ではなく、問題を起こして上官達に睨まれることなのだ。

 静まり返った廊下を満足げに眺めて通り抜けるのが滝ヶ原候補生の日課みたいなものだったが、このときばかりはそうは問屋が卸さなかった。真向かいから、滝ヶ原候補生と同じように堂々と風を切って、しかし滝ヶ原候補生とは違ってたった一人で、習志野班付がやってきたのである。

 私達は星の数と飯の数に従うようにすっかり刷り込まれていたから、無帽時にするとされる十度の敬礼を慌てて向けた。班付は私達に軽く答礼したが、その足が止まることはなかった。

 滝ヶ原候補生はもちろん止まらなかったし敬礼もしなかった。剃り込みの入った頭を前に傾けて、班付を睨みつけるようにしながら進んだ。班付も止まらなかった。訓練や指導が厳しい空挺団や教導団のような精強部隊や一部の不運な者によく見られ、誰が始めたものか伝統芸能などで使われるあの不細工な面になぞらえて「ひょっとこ顔」などと呼ばれるようになった傷つき歪んだ歴戦の顔立ちをいつものように無愛想に引き結んだまま、大股で滝ヶ原候補生に向かって進んでいった。

 私達候補生一同は固唾を呑んで見守っていた。班付が生意気な滝ヶ原候補生をどうにかしてくれるんじゃないかと期待していた奴もいた。少なくとも私はそうだった。

 そして二人の距離がどんどん縮まり、そしてゼロになってあわや正面衝突というところで、班付は勢い良く肩を突き出した。肩は見事に滝ヶ原候補生の胸元にぶつかり、滝ヶ原候補生は勢いに押されてみっともなく尻餅を突いた。

 そのあとに繰り広げられた惨たらしい光景を私は生涯忘れられないだろう。

 滝ヶ原候補生が文句を言おうと口を開くのに被せるようにして「どこに目ェつけてんだこのクズ!」とヤクザの若い衆みたいに怒鳴り、呆気に取られた滝ヶ原候補生の鼻先にスリッパの爪先を思いきり叩き込んだのである。我々は普段威圧感を滲ませながらも穏やかに話す班付が突然上げた怒号にまず驚き、それと同時に行なわれたことにまた驚き、どうにもできずに固まってしまった。

 一瞬遅れて悲鳴が上がった。滝ヶ原候補生は両手で顔を押さえながら床を転げ回っていた。手の下からは粘っこくて妙に鮮やかな色の血が溢れるようにぬるぬると流れ出していた。

 見ているだけでも鼻が痛くなるような光景だったが、足を下ろしたあとも班付は止まらなかった。この後の習志野さんの言葉は今でもよく憶えている。短い髪の毛を鷲掴みにして滝ヶ原候補生を引き起こし、「敬礼はどうした敬礼は! この三本筋が見えねえのか! お前らの腕についてる判子星とどっちが上だ、ええ、おい。どうなんだよ、中学もまともに出てねえような般候のゴミクズは、階級章の見方も覚えられねえのか! 階級章未満の奴が階級章着けてる方をお見かけしたらご挨拶しなきゃだめだろうが! おい、滝ヶ原一般候補生閣下さんよ、これだけ言っても上等兵殿にご挨拶なしか、ああ? どっちの布切れが偉く見えるかって訊いてんだよボケ! てめえは盲か。盲なのか、ええ? チョウセンメクラチビゴミムシが上等兵様の質問シカトするとはいい度胸だな。それとも何か、虫けら、耳が聞こえねえのか。聾かお前は。よくそれで身体検査通ったな。無能な軍医どもが居眠りしてる間に書類でも書き換えたか。まあいい。聞こえないんなら、そんな使えん耳は要らんな!」と矢継ぎ早にまくし立てながらほっぺたの内と外が破けるほど強烈な往復ビンタを何度も喰わせたかと思うと、唐突にビンタをやめて耳を掴み、無造作に引き千切ってしまった。人の耳の千切れる音というのは、案外大したものではなかった。ガムテープを一気に剥がす音か雑巾を引き千切る音をずっと地味にしたような感じで、漫画やアニメなどから漠然と抱いていたイメージと全然違ってびっくりしたのをよく憶えている。

 それからも班付の乱行は続いたが、誤解を避けるためにここで言っておく。これほど強烈な指導は、極めて厳格に臨まねば統制が取れなかった当時としても滅多にあることではなかった。公に処罰するほど重大な事案ではないが、捨て置くわけにはいかない。そして処分よりも矯正が重視されるが、通常の制裁では効果が薄い。こういう条件が揃って初めて責任者達の間で検討される指導法である。

 ともあれ、あまり詳細に描写を続けても「陸軍というのは怖くて危ないところなんだな」と古巣のことを誤解される一方なので、ごく簡単にまとめてしまうことにする。滝ヶ原候補生は理不尽な理由で怒鳴られながら、少しずつダイエットをさせられていた。私達は下手をすると息をすることさえ忘れて、ヤクザみたいな奴がもっとヤクザみたいな人に痛めつけられるその地獄に見入っていた。

 班付が「まあ、このくらいで勘弁してやるか。次からはちゃんと星を確かめろよ」と言って、たぶん体重の五パーセントくらいのダイエットに成功した滝ヶ原候補生から手を離したとき、廊下は血の海で、滝ヶ原候補生は呼吸するだけの生肉になっていた。私は現実感のないその光景を見て「人間の中には随分と血が詰まっているものなんだなあ」とか「人間はあんなになっても生きているものなんだなあ」とか、ろくでもないことをぼんやりと考えていた。

「おい、お前ら!」と班付は滝ヶ原候補生の取り巻き連中を怒鳴りつけた。取り巻き連中は親分が人間の形をなくしていくのを蒼白になって震えながら眺めていたが、班付が親分を放したのを見て安心したように顔を見合わせていた。そこにあの恐ろしい怒鳴り声だったから、もうかわいそうなくらいに怯えていた。一人か二人は失禁してジャージの前を濡らしていたような気がする。

 身を寄せ合って震える取り巻き達を見た班付は「馬鹿野郎! 班付様のご尊顔を拝し奉ったら、お前らみたいな新兵未満のクズどもは、何も言われなくても整列して敬礼だろうが! 娑婆っ気が全然抜けてねえみたいだが、基本教練ちゃんとやってねえのかボケども! お前らの班長は何教えてんだ! いちいち班付様に注意させるんじゃねえ! 何から何まで完璧にこなせ! 教わってねえことだろうと関係なく完璧にやりとおせ!」と怒鳴り散らして手近な一人を殴りつけてしまった。そのかわいそうな奴は――後から考えるとむしろ運が良かったのかもしれない――黄ばんだ歯を撒き散らしてコマみたいにくるくる回ると、倒れて動かなくなった。

 取り巻き達は慌てて整列した。特に何を言われたわけでもなかったが、私達も急いで整列した。敬礼をどうするか迷って目配せし合ったが、無言の議論のうちに、既にしたとはいえもう一度して悪いこともあるまいとの結論に達して、我々はもう一度、十度の敬礼をした。

 すると今度は「ふざけてんのか、何だその膝の角度は! 内股になってんじゃねえか! みっともねえぞ! 角度はこうだ、こう! まっすぐ伸ばせ! 何だこら、骨が曲がってるのか? おら、班付様が骨格の不具合を矯正してやるから体で覚えろ!」と怒鳴っていきなり一人の膝を踵でへし折った。その一人が泣き喚くような悲鳴を上げて倒れかかると「気をつけだって言ってんだろうがてめえ! お前も耳が聞こえねえクチか! 何勝手に休んでやがる! 誰が寝ていいと言った! ご指導ありがとうございますはどうした、ああ? ほら、言え! ありがとうございます、だ! 何か言ってんのか。聞こえねえぞ。もっとはっきり喋れ! おら、どうした、何とか言え生ゴミ!」と言い訳する時間も与えずに顔面に蹴りを入れ、泣いて詫びる声ごと何度も何度も踏み潰した。

「お前らみたいな連中はな、心臓一つ動かすのにも俺の許可が要るんだよ。どいつもこいつも生意気に心臓動かしやがって。俺はそんな許可出した覚えはないぞ。停めろ! 今すぐ停めろ! 俺の許可なく心臓動かすな! 息もするな! 誰の許可貰って母ちゃんの腹ん中から出てきやがった!」と、こういった調子で、班付は下手をすると旧軍の古兵よりも理不尽かもしれないことを言いながら、取り巻き連中を一人また一人と片付けてしまった。沈黙すれば「なんとか言え」と殴られ、答えれば「口答えするな」と蹴られ、「目に輝きがない」やら「鼻が曲がっている」やら「頭髪が乱れている」やら「ジャージが古い」やら「ニキビがある」やらと口実をつけていじめ抜かれるさまは哀れの一言に尽きた。取り巻き達は蛇に睨まれた蛙という奴で、鼻水を垂らして泣いたまま、整列してじっと自分の順番を待っていた。

 私達候補生一同は次は自分達かと身を寄せ合って震えていたから、「おい」と返り血で汚れた班付に声をかけられたときには、恐怖に耐えきれずに卒倒した者もいた。班付はその少し前までの鬼のような顔はどこへやら、穏やかに微笑して「これから風呂入ろうってところに悪いんだが、何人か、このクズどもを医務室に運ぶのを手伝ってくれるか。それと、廊下の掃除をやっといてくれると助かる。血は乾くと面倒なんだよ。ああ、血を拭くのに使った布と拾った肉は、ビニールか何かで密封してから医務室に運んどいてくれ。ゴミ箱に突っ込むと業務隊に叱られるからな。手伝ってくれた奴にはジュース一本ずつ奢ってやるから、一つ頼むよ」と普段通りの穏やかな態度で言った。私達は示し合わせたわけでもないのに、揃って頭が取れそうな勢いで何度も頷いた。本当は「はい、かかります」と元気良く返事しなくてはいけなかったのだが、班付は寛大にも見逃してくれた。

 班付は通信端末を使って区隊付に、滝ヶ原候補生以下四名が原因不明の負傷をしたためただちに医務室に搬送する旨を報告したあと、「指導中にオネンネとはいい御身分だな。まったく、たるんでるぞ、クソガキどもが!」と倒れた連中一人一人に寒気のするような蹴りを入れていた。

「お前ら、目が覚めたら、俺がいいって言うまで運動させてやるからな。一時間や二時間で楽になれると思うなよ。悟り開くまで苦行させてやる」と吐き捨てる班付を見た私達は「うへえ、まだやるのかよ……」と心の中で呟いたものだった。

 しかし、あとあと考えてみると、むしろ習志野班付の苛烈さは極めて適切だったかもしれない。何しろ、滝ヶ原候補生達が復帰したとき、我々は心の底から彼らの快復を祝ってやり、わだかまりなく仲間に迎え入れたのである。あまりにもひどすぎる扱いを見るうち、我々の心には、いつしか彼らに対する憎しみを掻き消すほどの哀れみが生まれていたのであった。そして哀れみは彼らが歩み寄ってきたとき、親しみに転じた。

 この我々の心の動きは決して偶然の産物ではなかったと思う。習志野さんという人のことをいろいろ考えるに、あの人はある程度計算ずくで暴力を振るっていた節がある。

 私は習志野さんのこうしたやり方を好かないが、彼がその道の達人であり実際に成果を挙げていたことと、我々のようなロクデナシを相手にする場合、もっと優しいやり方に比べて効率的であることは率直に認める。


 滝ヶ原候補生達を医務室に運び、現場の清掃を終えたあと、私達は約束通り班付に営舎内の自販機でジュースを買ってもらった。あのときに飲んだコーラのなんとも言えない苦さは今もよく憶えている。

 私達はジュースを飲んで解散し、目にしたものの恐ろしさに体中を縮こまらせながら風呂を済ませた。温かい湯と仲間の存在のおかげか風呂上がりにはどうにか調子も戻っていたが、やはり根っこの部分がひどく疲れていたらしく、居室に戻って消灯前の点呼を済ませ、ちょっとベッドに横になったと思った直後に起床ラッパが響いていた。あとで訊いてみたら、あの場にいた候補生の半分くらいは私と同じような体験をしたと答えた。

 点呼等を済ませて食堂に移動した頃には全てが夢であったかのような気さえしていたが、いつも滝ヶ原候補生が取り巻きを従えてふんぞり返っている一角に空白を見つけ、それが間違いであることを理解させられた。滝ヶ原候補生達はそれから見かけられず、隊内では死亡説さえ囁かれていたが、何日か経って無事復帰を果たした。

 軍病院から復帰した滝ヶ原候補生達はまるで別人のようだった。「生きていれば必ず治す」と評判だが機能回復以上のことにあまり熱意がなく、習志野さんのような崩壊したひょっとこ顔を生み出す元凶の一つとなっていた軍隊式の治療を受けた容貌もそうだが(なお現在は方針も改善され、お役所仕事の軍医達も社会生活上の都合に配慮してくれるようになっているので志望者は安心してほしい)、それ以上に行動が同一人物のものとは思えなかった。身嗜みも言葉遣いも振る舞いも模範的になっていた上、去勢された猫のようにおとなしくなって、上官には忠実に従い、同期にもかいがいしく世話を焼き、まるで自分が一番下っ端であるかのような態度で過ごし出したのだ。

 我々は彼らの変貌を喜びはしたものの、実は脳味噌を弄られでもしたのではないかと密かに薄気味悪く感じてもいた。そして、彼らのような目に遭わないためにも真面目に身を慎んで軍隊生活を送ろう、と決意を新たにもした。彼らは娑婆の感覚を隊内に持ち込み、甘ったれたお客様気分でいる者がどうなるかのいい見本となってくれた。この上ない反面教師だった。

 この態度は習志野班付が睨みを利かせている間の一時しのぎではなく、彼らの以後の軍隊生活を通してのものだった。滝ヶ原候補生は同期で一番早く上等兵になってそのまま職業軍人に進んだし、取り巻き連中も真面目な兵隊として過ごして除隊し、その後はまっとうに暮らした。班付の暴力が彼らを真人間に叩き直したのである。こういう謙虚な姿勢だから、元々遅れていた上に治療で更に遅れた訓練状況もたちまち周囲に追いつき、我々をあっと言わせてくれたものである。


 ところで、章を結ぶ前に、習志野さんの名誉のために是非とも一言書いておかねばなるまい。

 私の筆力が足りないせいで、読者諸氏に習志野さんはどうしようもない暴力人間だと映ってしまったかもしれない。

 だが、そんなことは全然ないのである。確かに習志野さんは暴力的なところのある人だったが、実際のところ、周囲が思っているほど頻繁に暴力を振るう人ではなかった。それに値するだけのことがあまり起こらなかったからだ。彼は、一度必要と判断すれば必要なだけの暴力を断乎として振るったが、決して軽々しく暴力を振るう人ではなかった。普通の兵隊ならば即座に怒声か拳骨を浴びせるところでも、静かだが鋭い声でたしなめるだけで済ませることはしょっちゅうだった。習志野さんは暴力の強烈な効用だけでなくその重大な意味もよく理解していたのだ。言うなれば暴力の達人だ。

 実際、習志野さんの理不尽な点の大部分は、行使される暴力の度合であって、行使に至る理由ではなかった。はっきり言って、習志野さんに殴られた奴には、多少殴られてもしょうがないような理由があった。「何もそこまで」という擁護の声はよく上がったが、殴ること自体を否定する声が上がることはあまりなかった。たまにそういう声が上がったとしても、殴られた者と似たり寄ったりの連中以外から共感を得ることはなかった。

 実際、人間としてはともかく、兵隊としての習志野さんは決して悪い人ではない。兵隊はいかにあるべきか、の解答の一つのような人だったと私は思う。

 なんと言っても通すべき筋はちゃんと通していたのだ。上官からの正当な命令に従い、仲間の苦境を助け、部下や後輩の面倒をきちんと見る。敵に対しては勇猛果敢で容赦なく、一度与えられた任務は確実に完遂する。任務とあらば相手が誰であろうとあらゆる暴力を行使するが、任務以外では彼なりの必要性や正当性があるときにしか暴力を振るわない。義務を果たそうと苦悩し努力する上官であれば能力や年齢性別を問わず最大限の敬意を払う。義務を放棄した上官や軍隊生活に差し障りの出るほど反目する上官であっても日頃は軽々しく文句をつけられない程度には表面上の礼儀を守り、武山軍曹に対してやってのけたように、軍隊的文脈において「合法的」に捻り潰せる機会をじっと待つ。仲間や部下に対しても、能力ある者を尊重するとともに、無能であっても義務を果たそうと努める者には寛大に接する。そして何より義理堅い。彼はそういう兵士だった。

 平たく言えば、軍紀をよく守っていたのだ。そういう人だったから、憎まれ畏れられる一方で、頼られ慕われることも少なくなかった。

 だが、ここで繰り返しておくが、あくまでも兵隊としては悪くないだけであって、人間としての資質は別問題である。正直に打ち明ければ、私は習志野さんという個人は危険であると思う。善良なのでも邪悪なのでもない。どうしようもなく危険なのだ。

 身内に対しては優しいが、身内以外に対しては極端に冷酷か無関心、というタイプの人なのではないかと思う。また、心の底で人間という生き物を軽蔑しているような節もあった。情愛が欠片もないということではなくて、そういうものを溢れんばかりに持っているのだとしても、必要と思えば身内以外に対するそれをあっさりと捨て去ってしまえるのではないか、という話である。あの人は必要とあらば仏にも鬼にもなれるのだろう。もしかすると、彼にとって人間と虫けらに大きな違いはないのかもしれない。

 それだけでなく、行動規範にも独特なものがある。私が見たところ、それはきっと平和な社会と相容れない。軍という組織と規律に組み込まれていたからこそ、習志野さんはまがりなりにも社会の猟犬や番犬でいられたのだ。彼が首輪を取り去って自由な個人として動くとき、動機や理由はそのままだろうが、その行ないはより過激で凶悪なものになるに違いない。

 名誉除隊した習志野さんは現在、いわゆるリスクユーティリティとして働いている。軍という鎖と首輪を外したあの人は、もう猟犬でも番犬でもない。良くて狼、悪くすれば狂犬だ。実際、軍関係者が彼のことを「空挺団の狂犬」や「陸軍の面汚し」などと呼ぶのを耳にしたことが一度ならずある。そしてそれが事実を割合正確に表現していることも申し添えておこう。

 しかも彼は自衛権を最大限に活用し、法が許す限り――であると思いたい――の重武装をしている。軽火器は言うに及ばず、爆発物や対装甲兵器はもちろんのこと、一部の化学兵器まで所持しているのだ。嘘ではない。彼が除隊してもう随分経つが、事実私は、彼が街中でガス弾を使ったとか、報復として企業に武力攻撃を加えたとかいった情報の数々を、彼の除隊から今に至るまでたびたび耳にしている。彼は歩く武器庫のようなものだ。そのうち御禁制の核にでも手を出し、都市の一つも更地にしてしまうのではないかと恐ろしくてたまらない。

 唐突に感じるかもしれないが、ここで読者諸氏には、先だって私が紹介した生前の目黒大尉の習志野さんに対する評価を思い返していただきたい。

 平和な時代であれば軍から放り出されるか刑務所入りしていたはずだ、という意見。私は半分不正解であったと思う。確かにあの通りに振る舞っていたとすればそうなっていただろう。だが、あのずる賢い人がそんな浅はかなことをするとは私には思えない。

 習志野さんは典型的なひょっとこ顔をした一般入隊からの叩き上げだが、既に書いたとおり意外なことに大卒で、下手な将校よりも学があった。習志野さんにどのくらい学があったかと言うと、団きってのインテリと名高く、のちに陸大こと陸軍大学校教官や防衛大学校教官を歴任し、最後には統大こと統合幕僚大学校長を務めるまでになった東大卒の旭川少佐が、後で何かの賞を貰ったとかいう部外向け論文を書いたときに、わざわざ彼を相手になんだか難しそうな意見交換をしていたくらいである。

 そういった隠れたインテリである習志野さんは、無学な私達が名前しか知らないような――時には名前さえ知らないような――人物や書物の言葉を引いて物事を語ることが時たまあり、そのたびに我々無学者はキツネにつままれたような間抜け面を曝して彼を呆れさせたものである。そういう具合に彼が教えてくれた言葉の一部が不意に記憶から蘇ったので、ここでそれに少し触れておきたい。

 私はそれぞれの著作を読んだことがないのでよくわからないのだが、確かマキャベリとホッブズとかいう人の言葉だったと思う。習志野さんはマキャベリから「狐と獅子を使い分けなければならない」や「慈悲深く気前のいい人間である必要はないが、そう見えるように振る舞う努力はしたほうがいい」、「人は恐ろしい相手より親しみやすい相手を裏切る」という処世術を、ホッブズからは「万人の万人に対する闘争」という考え方を紹介してくれた。

 私のあやふやな記憶によると、「狐と獅子を……」は「キツネのような知恵だけでもライオンのような暴力だけでもだめだから、両方を適切に使え」というような意味で、「慈悲深く……」は「人間関係は自分がどういう人間かではなく相手が自分をどういう人間だと思っているかで決まる」と「内面が腐っていても外面を取り繕う努力くらいはすべきだ」、「人は……」は「仲良くするよりは怖がらせておくほうが人はよく従う」、「万人の……」は「規則がなければ人は身勝手な目的を叶えようと争い合う」というような意味だった。

 思うに、習志野さんは軍隊生活を快適に送るためにこれらを実践していたのかもしれない。考えてみれば、普段は非常に知的かつ紳士的で、暴力はごく限られたときに振るうだけだった。我々の目に映る彼の姿は「暴力的だが義理堅く、怒らせると怖いが普段は優しく、上官に忠実で部下の面倒見もいい古兵」そのものだった。だから、もし平和な時代に習志野さんが入隊したとしても、きっと目黒大尉が洩らしたようなことにはならなかっただろう。その場合はその場合で巧みに組織に溶け込んでやりたい放題に過ごしていたと思う。あの人はそういう古兵らしい要領の良さを持っていた。

 その習志野さんは今、帝国陸軍という鎖から解き放たれてしまっている。今は社会という規則が彼を縛っているが、私にはどうもそれが脆く緩い首輪に見えてならない。

 彼に平和と正義の使者となってほしいとまでは思わない。と言うより、平和と正義に目覚めた習志野さんなど、私の貧弱な想像力では思い浮かべることもできない。しかし、現に今もそうしているように、社会を新たな規則とし、マキャベリの処世術を実践して社会に溶け込んだ上でやりたいように過ごし続けてもらいたいとは思う。あれほどの兵士が国民の敵となるのは悲劇で、あんな人と戦わされる治安要員は不運だ。そんな状況ならば習志野さんは民間人を巻き込む卑劣な作戦も辞さないだろうから、民間人はもっと不幸だ。

 繰り返しになるが、習志野さんにおかれては、どうか社会と上手いこと折り合いをつけて末永く生き続けられたい。それができなければ、いっそ死んでいただきたい。それが万人の幸福のためだ。


 それにしても、馬鹿な新兵が調子に乗るとどういう目に遭うか、という教訓話のようなものを書くつもりだったのに、すっかり習志野さんの話に終始してしまった。私自身の物書きとしての未熟もさることながら、あの人のキャラクターの強烈さには実に凄まじいものがある。

 滝ヶ原候補生のような人がいるかと思えば、習志野さんのような凄まじい人や目黒大尉のような立派な人もいる。習志野上等兵と武山二曹の間に生まれたような奇妙奇天烈な友情もある。こうして振り返ると、帝国軍という組織は実に面白いものだと気づかされる。

 これを書いている現在、そんな愉快な組織を生活の場としている現役諸氏に羨望と嫉妬を禁じえない。

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