6話
詳しく言うと私は榊さんの彼女のひとりだった。そう浮気されていたのだ。
しかも本命は私でなく、別の彼女。私たちの関係に気づいていた人など誰もいないのは、榊さんが人に公言するのを嫌がっていたから、私も内緒にしていただけで。
けどそれが榊さんの本命の彼女に知られない為だったと気づいた頃には私は深く彼にはまりすぎていた。
目の前に立つ榊さんはいつも私が見ていた背広姿にネクタイではなく、薄手のカッターシャツにスラックスと、やはりプライベートでもきちんとした格好をしていた。
バイト先で知り合った榊さんは私の上司にあたる人で面倒見がよく、誰からも好かれていたと思う。物腰の柔らかそうな口調も、真面目そうな態度も、仁にはいつも物覚えが悪いと言われていた私にも丁寧に仕事を教えてくれた人で。
そうして気がつけば好きになっていた。
残業でよく二人っきりになるのは偶然なのかと思っていたら、それは榊さんがシフトをそう組んでいたらしく、恋人同士の関係になるのに時間はそうかからなかった。
けれど彼には将来を約束した彼女がいたのだ。しかも相手は取引先の社長の娘。そんな相手に勝てるはずも、勝負する気にもならず私はそのままふられたのだ。
今日、この場所に来るはずがないと思い込んでいたのは、彼が本命の彼女の会社に移ったからで。
それでも確立はゼロでないことに気づかなかった私はやっぱり馬鹿なのかもしれない。
私達の間にまるで何もなかったかのように振舞える榊さんとは違って、私は自分でもわかるほど挙動不審なんだと思う。
けれどエリカは私の様子を見てからかうような口調で榊さんに話しかける。
「この子ったら久しぶりに榊さんと会って動揺してるみたいです。こんな素敵な幼馴染と一緒に来たっていうのに。」
動揺だってするよ、ふられた元彼に会っちゃうんだから。
あながちエリカの言うことは外れていなくて、私はどう反応したらよいものなのかと困ったように榊さんの表情を伺う。でも榊さんは私の視線よりも、エリカの言葉に反応したらしく、私の背後に立っていた仁に視線を向ける。
「もしかしてD&Jコーポレーションの営業担当されてませんか?」
Dアンド・・なに?仁の顔みてそう尋ねるってことは知り合いだったの?
「ええ、まあ。失礼ですがどこかでお会いしましたか?」
「商談の時に見かけただけですが、一緒にいた社長があなたを見て褒めていたんです。」
榊さんは驚いたように仁へと近寄ると確認するように、仁に尋ねている。私の隣に立っていたエリカがまた私の二の腕をぐい、と掴むと興奮したように私に耳打ちする。
「ちょっと!仁さんってあのD&Jで働いてるの?しかも営業担当ってっ。なんで言ってくれないのよ。」
「だって知らなかったんだもん、仁の働いてるところなんて。そんなに有名な会社なの?そのDなんとかって。」
母親から聞いてはいたのかもしれないけど、興味がなかったので覚えてない私はそのまま言葉にすると、呆れたようなエリカが私にその会社のことを説明してくれた。けど、正直そんなことよりも榊さんと仁の会話が気になってエリカの言葉も頭には入ってこない。
「こんなところであなたに会えるとは思ってもいませんでした。業界では有名なんですよ。それにしてもあなたが彼女の幼馴染だなんて知りませんでした。」
嬉しそうに饒舌に話す榊さんとは反対に、仁の態度はどこか不機嫌そうにみえるのは私の気のせいなんだろうか。
「そういえば榊さん、もうすぐ結婚されるんですよね?婚約者の方は今日はいないんですか?」
エリカは思い出したように、そう口にした瞬間、私の心臓がちくりと痛む。
ああ、もうふっきれてると思ったのに。
そう思っているのは私だけのようで榊さんは何でもないことのようにエリカに答える。
「今日は昔の職場の集まりだからね。でも良かったよ、彼女を連れてきたらこの彼に乗り換えられちゃうかもしれないからね。」
「えー。それはひどいですね。でも仁さんだったら可能性がなくはないかも。」
「エリカちゃんこそ、ひどいな。こういうときは否定してくれなきゃ。」
「あはは、ごめんなさいー。」
二人は冗談っぽく笑いながら話を続けている。私はといえば、ただしまりのない顔をにへらと緩ませてこの場をやりすごそうとしていた。
「いえ、わかりますよ、その心配する気持ち。だから俺も今日は彼女についてきたんです。」
二人の間に自然に割り込むように仁は笑顔のまま、私の肩を抱いた。
「俺たちも、もうすぐ結婚するんです。なあ?」
私は仁の突然の言葉と行動に驚いて、その顔を見上げるとにっこりとした笑顔を私に向ける。
驚いたのは私だけじゃなかったらしく、えぇっ!?という大仰なエリカの声が私の耳にも響いた。
「仕事が忙しくて、まだ具体的には決められてないんだけどね。ああ、そうだ。榊さんにアドバイスしてもらおうか、どんな結婚式にするのか。」
驚いているエリカに笑顔で言うと、そのまま榊さんのほうに視線を向けた。肩を抱かれたままの私は榊さんの表情などを見る余裕もなく、ただ黙って仁を見上げている。
こんな場所で突然、仁がそんなこと言うなんて思ってもいなかった私はただ馬鹿みたいに仁の顔を見つめていると、エリカが私同様、驚いた声と表情でがっしりと私の腕を掴んだ。
「いつの間にそんな話になってたの!?あんたが結婚なんてっ。聞いてないわよ!」
「いや、えっと。なんていうのかな、」
「今日は彼女の昔の職場関係の集まりだっていうから、本当は後日にエリカちゃんには個人で伝える予定だったんだよな?でも俺が早く皆に知ってほしくて言っちゃったもんだから、ほら、彼女も驚いてる。」
私が驚いている理由をさりげない自然な笑顔で仁はそう伝えると、エリカはあっさりといまだ驚いてはいるものの納得した表情になる。
なるほど。営業で活躍しているのは嘘じゃないんだ、と思えるくらいの笑顔と説得力でエリカを説得すると、今度はその笑顔を榊さんへと向けた。
「榊さんには彼女が色々とお世話になったようで感謝しているんですよ。彼女、物覚えが悪くて迷惑かけたんじゃないですか?」
「え?い、いや、そんなことはなかったですよ。一生懸命で向上心もある子でしたし。」
さらりとそんな言葉が榊さんの口から出てくるのは本当にそう思ってくれていたのか、それともたんなる建て前なのか分からないけど、
私はそのことよりも仁の行動にひとつの疑いが生じたために、エリカが婚約のことを伝えるために他の人を呼びに行ったことなどに気づきはしなかった。
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