表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
71/165

58.6話 『彼』の軌跡

「まずは、異世界召喚された日から、この場所に刻まれた記録を【再生】させます。みなさんの網膜に映像を転写し、鼓膜に音声を再現させますので、目を(つむ)っていても構いません」


【再生】が発動した瞬間、私たちの視界には現在よりもすっきりとした独房の様子が映し出されました。


 長姫(おさひめ)先生の言う通り、(まぶた)を閉じても見ることが出来ましたので、私は目を閉じて過去の映像を注視します。


「……っ、そんな、っ!?」


 しばらくして、私たちの視界に、とある人物が入室しました。


 ゆっくりとした歩調で室内を観察しているのは、昨日見たときと比べれば、まだ肉付きのいい『彼』の姿でした。


 それを確認し、長姫先生は悲痛な声を上げており、私も知らず、下唇を噛みしめてしまいます。


 これで、この独房が『彼』の生活空間だったことが、証明されてしまったのですから。


 私たちが見ていることなんて知らないだろう『彼』はと言いますと、いきなり牢屋へ案内されたというのに、冷静そのものでした。


 それからすぐに訪れたメイドさんから、大量の紙や羽ペンなど、私たちが発見した道具類を受け取っていました。事前に依頼していたのでしょう、『彼』が驚く様子は見せません。


『さて、と』


 再び一人になった『彼』が始めたのは、支給された紙に何事かを記入し出しました。


 ランプはぼんやりとした光源でしかなく、書き物をするのも一苦労なのではないでしょうか?


「……変ですね。もうすぐ夜の七時頃になるというのに、夕食をとる様子がありません」


 長姫先生が『高速思考』で【再生】の情報を取捨選択しつつ、私たちに見せてくれているのもあり、場面は次々と移っていきます。


 今は初日の七時頃。私たちは夕食をいただいていた時間帯でしたが、『彼』が食事に向かう様子がなく、私は首をひねりました。


 それからも同じ映像が流れるだけで、書き物が終わると『彼』は机代わりにしていた石のベッドを片づけて、寝ころぶ仕草を繰り返していました。


 最後は壁に背を預ける形で落ち着きましたが、それから誰も呼びに来る気配がありません。


『…………飯抜き、ってことか? 嫌がらせが地味だなぁ、おい? しゃーねぇ』


 どうやら『彼』も食事を待っていたようでしたが、一向に誰も来ない状況から食事を諦めたようでした。


 石壁に背を預けたまま、『彼』は天井を(あお)いで視線を固定させました。


『【普通】、オフ』


【普通】? それを、オフ?


 もしかして、それが『彼』のスキルなのでしょうか?


『…………ぁ、っ?』


 そう考えた、直後。


『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!』


『彼』が、突然頭を抱えて、叫び声を上げたのです!


「なっ!? ど、どうしたんですかっ!?」


「何っ!? いきなり何で叫んでんのよっ!?」


「あっ! ……あぁ……うぅ!!」


 それにつられ、私たちも混乱しました。


 何の前触れもない、『彼』が上げたとはとても思えない恐怖を宿した叫声(きょうせい)に、今この場で起こったことではないと知りつつも狼狽(うろた)えてしまいます。


「落ち着いてください。何でも、あの子の初期スキルが、ずっと精神の安定を図っていたらしく、そのスキルの反動のようです。

 あの子は初日から書き物をしていましたが、どうやら日記のような物らしく、中身を少し確認するとスキルの考察も書いていました。それによると、あの子の保有スキルは【普通】というユニークスキルだけだったようです。

 私たちのユニークスキルとは違い、一度発動するとずっと効果が持続するタイプのスキルなのだそうです。そして、意図的にスキルを解除してみたところ、効果中にため込んでいたストレスが一気にあふれ出した、と記述されていました」


 冷静だったのは、長姫先生だけでした。


 おそらく、途中から《明鏡止水》も使いながら【再生】で呼び起こした情報を処理しているようで、私たちを(なだ)める声に感情が(うかが)えません。


 長姫先生だけはこの先の記憶もある程度確認しているらしく、落ち着いて指摘することができたのでしょう。


 それにしても、『彼』もユニークスキルの持ち主だったとは思いませんでした。


 しかし、ユニークスキルはどれも強力なものばかりであり、イガルト王国の思惑と照らし合わせれば、『彼』も十分な戦力と判断されたはずです。冷遇されることはなかったのではないでしょうか?


「いえ、あの子のステータスは、戦闘に耐えうる値ではなかったようです。あの子の日記の文面を信じるのであれば、魔力は『0』、その他の値はすべて『1』だったようです。それは、日常生活すら危ぶまれるくらいの、虚弱な能力値だったようですね。

 ステータス確認の際、それらの情報はイガルト王国には筒抜けでした。結果として、あの子が悪印象を抱かれる要因の一つとなったのでしょう」


『えっ……?』


 そうした疑問を長姫先生に問いますと、衝撃の事実が伝えられました。


『彼』のステータスが、『1』か『0』しかなかった?


 確か、この世界の純正な人間種族が有するステータスの平均値は、生命力と魔力で『100』、各能力値で『15』、運は『50』だったはず。


 しかも、この世界では必要不可欠な魔力が、『0』?


 そんなの、本当に生きていけるの?


「ほ、本当なのですか?」


「はい。詳細は(はぶ)きますが、あの子はこの世界に召喚されてからずっと、正体不明の体調不良を覚えていたようです。

 日記に残していた考察では、能力値が低すぎたことが原因としています。階段の上り下りなどという少しの運動でも、著しい疲労を覚えていたようですね」


「そう、だったのですか……」


 耳を疑う長姫先生の言葉に、しかし私にも思い当たる節がありました。


 国王陛下に交渉してくれた直後、私が最初に『彼』に声をかけたときも、かなり苦しそうな様子でした。


 当時は『彼』が大丈夫だと口にしたので引き下がりましたが、話を聞く限りとても大丈夫には思えません。


 そんな極限状態に『彼』がずっと(さいな)まれてきたのかと思うと、自然と顔がしかめられました。


「もし、ここから先を知りたいと思うのであれば、決して目を背けない覚悟を持ってください。今の段階で音を上げているようでは、ここから先に起こった出来事など、決して見せることは出来ません。

 私も《明鏡止水》がなければ、水川さんたちと同じか、それ以上に取り乱してしまい、すでに【再生】を放棄しているでしょう。それほど、あの子の過ごしてきたこの世界の時間は、想像を絶するほど過酷でした。

 これは、脅しでも何でもありません。改めて、確認します。この世の地獄を経験したあの子の姿を、きちんと受けとめる覚悟はありますか?」


 今もまだ、目の前には『彼』の苦しむ姿が映り、長姫先生の表情を確認することはかないません。


 ですが、無理矢理心を静めた《明鏡止水》の裏で、先生が強く苦悩しているだろうことが、わかりました。


 一体、私たちよりも先に、どんな光景を見たのか?


『彼』という(きずな)で結ばれた私たちにさえ、見せることを躊躇(ちゅうちょ)するほどのものとは、何なのか?


「大丈夫です」


「今さら引くなんて、しないわ」


「『見る。最後まで』」


 不安がよぎったのは、一瞬です。


 私たちは間髪入れず、長姫先生に続きを促しました。


 これは、『彼』を守ると決めた私たちが、知っておかなければならないことだと、思いましたから。


 迷いはすぐに切り捨て、覚悟は一瞬で固まりました。


「わかりました。それでは、続けます」


 長姫先生はそんな私たちの意を()み、それ以上制止することもなく、【再生】を発動し続けました。


 そして、長姫先生が発した忠告の意味を、私たちはすぐに目の当たりにすることとなりました。


『うえええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!! げほっ、ごほっ!!!!! おえええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!! うげぇ!!!!! ごほっ、ごほっ、げほぉっ!!!!! うぼえええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!』


 長姫先生からの話によると、召喚された翌日。


 二回目に『彼』が【普通】を解除した時のことです。


『彼』は生きるために、イガルト王国から与えられた残飯のような食事を飲み下し、貧弱なステータスを少しでも向上させようと無茶な訓練を行いました。


 その日の夜、【普通】を解除した反動で、『彼』は胃の中の物をすべてトイレの穴に吐き出したそうです。


 いくつかのスキルを取得できた代償に、異世界にきてたった二日目で、『彼』の心身はすでに限界を迎えつつあったようでした。


『うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!』


 一ヶ月目。日付からして、私と『彼』が出会った日のこと。


 それまでの日記には、イガルト王国の思惑や私たちに仕掛けた『契約魔法(仮)』についての考察、異世界人(わたしたち)の成長速度を気にする内容が。


 そして、『彼』がこの国から早々に脱出しようとしていたことも、記載(きさい)されていたとのことです。


 そして『彼』は、【勇者】である私と出会い、その日の夜に【普通】の解除をして、いくつかのスキルを得たようでした。


 その後の日記には、自らを(かえり)みずすべてを救おうとしていた私に対する不満と同時に、異世界人で底辺にいる『彼』が頂点であろう私に優越感を抱いたことへの恥と後悔が記されていたそうです。


「彼の感じていた感情は、私から言わせれば見当違いなものです。彼が私にくれた言葉に、恥ずべきことなど何もありませんでした。

 むしろ逆です。私が己の未熟さを恥じ、反省させられたのです。彼がいたからこそ、今の私があるのですから」


 気がつくと、自然に言葉は口から漏れていました。


『貴方』は、私の勘違いを気づかせてくれた。


『貴方』は、私の傲慢を見抜いてくれた。


『貴方』は、私の軽率(けいそつ)(いまし)めてくれた。


 そんな『貴方』が、恥じることなんて、何もないのだと。


 無知故にさらに間違えそうになっていた私を、『貴方』は救ってくれたのだと。


【勇者】という、個人が持つには巨大すぎる力への認識を正してくれたのだと。


 もし、あの日この場に私もいたのならば、寄り添って言葉をかけてあげられたのでしょう。


 お礼を言って、『貴方』は間違ってなどいないと、抱きしめてあげることが出来たのでしょう。


 しかし実際には、【普通】の反動と取得した感情を誘発するスキルにより、強すぎる感情を自傷行為で誤魔化(ごまか)そうとする、痛ましい光景が繰り広げられるだけでした。


「……日記の内容からわかるように、彼はとても優秀な頭脳を持っていました。しかし、ずっと孤独でした。

 だから、自己完結で悪い方へと考えてしまったのでしょう。こんなこと、私は、これっぽっちも、望んでいなかったというのに、っ!!」


 私とのやりとりのために、己を卑下(ひげ)し、自らを傷つけていく『彼』の姿に、私はやりきれない感情を抑えきれませんでした。


 それでも、『彼』から逃げるようなことはしないし、したくない。


 その一心で、爪が皮膚に食い込むほど拳を握り、奥歯が砕けんばかりに噛みしめながらも、『彼』が独りでもがき苦しんだ様子を、目を逸らさずに見つめ続けました。


『いってえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?!?!?!?!?』


 二ヶ月目。日付からして、セラさんと遭遇した日の、夜のこと。


 私と再会してからの日記には、『彼』が取得したスキルについての考察や、ステータスが成長しないことへの疑問。


 そして異世界人(わたしたち)とほとんど出会えないことへの違和感に言及していました。


 そんな中、異世界人の捜索中に出会ったセラさんと戦闘になったことも書かれており、初めて強く感じた命の危機と、自分以外のユニークスキルの強力さについても書かれていたようです。


「……仕方ないでしょ。あの時のアタシは、本当に弱かった。アイツに【幻覚】について教えてもらってなかったら、今もこうして、カレンたちと一緒になんて、いられなかったかもしれないんだから」


 あまりにも物騒だった日記の内容に、私たちがセラさんに確認をとりますと、後ろめたそうな返事がありました。


 当時は【幻覚】の強みに気づけず、異世界人から逃げながら、一人で自分を鍛えていたそうです。


 そこに『彼』が現れ、セラさんは自分を害する『敵』だと思って臨戦態勢をとり、あっさりと敗北してしまったのだとか。


『彼』のステータスを知った後で、セラさんが負けてしまったという事実は信じがたいのですが、セラさん(いわ)く、いつの間にか取り押さえられていた、とのことでした。


 そして、セラさんも知らなかった【幻覚】の力について()いたのだそうです。


「アイツには、まだ伝えられてないんだけど、本当に感謝してるのよ? アイツがアタシを見つけてくれたおかげで、カレン、長姫、シホと出会えて、孤独から引っ張り出してくれたんだから。でも、アイツがこんなことになってたなんて、知りもしなかった……」


 そういって、セラさんは戦闘の反動で苦しむ『彼』の姿に、声のトーンを落としました。


 私が『彼』の様子に心を痛めたように、セラさんも感じるものがあったのでしょう。


 私たちはそれ以上、セラさんに何も聞くことが出来ませんでした。


『ぶっ、くくくくくくっ! ぶわぁっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!! はぁっ! ひっ! いひひひひひひっ、あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!!! あ、やべ、これ、きつ……っ!! はっ、ははっ、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!!』


 三ヶ月目。日付からして、長姫先生と出会った日のこと。


 日記の内容は、セラさん、というよりも異世界人に対する環境への羨望(せんぼう)や、自身のスキルについての考察。


 後は自分に出来ることに限界を感じていることなど、ちらほらとネガティブなことが増えていったそうです。


 そして、『彼』はセラさんの時と同じように、異世界人の姿を探しているときに王城の廊下で長姫先生と出会い、【再生】について教えたとのことでした。


「それだけです。私の【再生】に関する認識が甘かったことを指摘され、少々お叱りを受けましたが、その程度です。

 ……あの子が笑っている理由はわかりません日記にも書いていませんでしたええそうです書いてなんかいませんでしたが何か?」


 あぁ、何か隠しているな、とは気づきましたが、これ以上言及するのは避けました。


《明鏡止水》を使用しているにも関わらず、長姫先生の口調には明らかな焦りが感じられましたから。


 それに、先生の焦りに呼応して【再生】による映像も乱れましたので、下手につつくと効果が切れてしまうのではないかと思ったのもあります。


 セラさんや菊澤さんも同様に感じたらしく、追求の手は伸びませんでした。


「でも、あの子のおかげで私は、無力な私を捨てることが出来ました。スキルという意味だけでなく、精神的な意味も含めて。

 あの子の反応には、思うところもありますが、それだけ精神的に追い込まれていたのだと思うと、もっと早く、気づいてあげられたらと、思ってしまいます……」


 それから、長姫先生が語ったのは、我を忘れるほどの笑いに包まれた『彼』の裏側でした。


 イガルト王国からの監視に気づきつつ、自分を愚かに見せるためにずっと緊張感を張り巡らせていた『彼』に、一度たりとも、心から笑う余裕がなかったのだそうです。


【普通】と『冷徹』というスキルにより、感情を殺すことが出来たからこそ、余計に反動が強くなったとも、書かれていたそうです。


 この国から生き残るために、己を殺し、感情を磨耗(まもう)させ続けて、異常な笑いに支配された『彼』は、まるで大声で泣いているように見えました。長姫先生も、そのように感じているのだと思います。


「うっ、ううぅ、ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!!!!!!!! う、あ、うああああああああああっ!!!!!」


 四ヶ月目。日付からして、菊澤さんと出会った日のこと。


 日記の内容は、日増しに暗い内容になっていったようです。


 上がらないステータス、身を守ることの出来ない取得スキル、効果が謎に包まれている【普通】を頼れないということが続き、すっかり未来に希望を持てなくなっていたようでした。


 そして、この頃から『彼』はイガルト王国への情報漏洩(ろうえい)を恐れて、徐々に日記の文章を複雑な暗号にしていったそうです。


 次第に長姫先生でも解読が難しくなり、これ以上の解読には時間がかかるとのことでした。


「『わたしが、あの人と出会えたのは、偶然。戦うのが嫌で、全部が怖くて、なのに、頼りにしてたカツくんにも、戦うことを、求められて。

 何もかもが嫌になって、逃げて、泣いていたとき。【結界】が知らない内に消えてて、あの人が、いた』」


 ぽつりぽつりと、『彼』の慟哭(どうこく)を目の当たりにしながら、菊澤さんは【結界】を通して、私たちに独白のように語りました。


 かろうじて、長姫先生が読みとれた日記によると、今までの激しすぎる感情と、それを誘発させるスキルは、無意識に蓄積された『彼』の真なる心の叫びだったのだそうです。


 怒り、憎しみ、恥、笑い、泣き。人間としては当たり前の様々な感情を、異常な発露(はつろ)に至るまでため込み、誰にも弱さを見せることが出来なかった『彼』。


 本当に壊れそうになる前に出会えたのが、菊澤さん。自分と似た苦しみを抱えていて、簡単に共感できた初めての他者。


 菊澤さんは『彼』に救ってもらったと言いますが、同時に『彼』を救ってもいたのでしょう。


「『みんな、戦わなきゃ、って、言ってた。でも、あの人だけは、逃げてもいい、わたしは間違ってない、って、言ってくれた。

 あの人は、本当は逃げたいのに、逃げられない、って、言ってた。わたしが、あの時、今みたいに強かったら、あの人を、助けてあげられたのかな……?』」


『彼』の魂から絞り出した泣き声を聞きながら、私もまた、静かに涙をこぼしていました。


 もしかしたら、《明鏡止水》で感情が動かない長姫先生は別として、セラさんと菊澤さんも、私と同じように泣いていたのかもしれません。


 報われない現実、どうしようもない孤独、日に日に近づいていく絶望。


 私たちの前で見せていた顔とは違う、『彼』の心の底からの叫びを上げる背中は、小さくて、頼りなくて、弱々しく、映りました。


 菊澤さんの言葉は、まるで私たちの気持ちの代弁であるかのように、心にすとんと落ちてきました。


 守りたい。頼られたい。助けてあげたい。数時間にも及んだ『彼』の弱さは、私たちの『彼』への想いを、一層強固にしてくれました。


『ぐっ…………!?』


 五ヶ月目。それは、唐突でした。


「なっ!?」


「ちょ、どうしたってのよ!?」


「ぁ、やあっ!!」


 それまでの過程を長姫先生が確認した限り、菊澤さんとの出会いで、『彼』は少しずつ気力を取り戻しているように見えたそうです。


 日記はほとんど読めず、どのような心情だったのかはわかりませんが、少なくとも、絶望は薄れていたとのことでした。


 しかし、その日。


 朝は何事もなく出て行ったはずの『彼』が、見るも無惨(むざん)なボロボロの姿で、この独房に放り込まれたのです。


『さ、さっさと、死んでしまえばいいっ!!』


『っ!!』


 同時に聞こえたメイドらしき女の声に、私たち全員が一気に殺気立ちました。


 私は反射的に『泡沫(うたかた)』を握り、セラさんはいつも以上に剣呑(けんのん)な空気を、菊澤さんは普段からは考えられないほどの激情を発しました。


「落ち着きなさい。これは過去。その場にいなかった私たちが出来ることなんて、何もありません」


 過去の映像だとはわかっていても、衝動的に()りかかりそうになっていた私や二人を止めたのは、やはり一人冷静だった長姫先生でした。


 咄嗟(とっさ)に反論しようとした私は、しかし長姫先生からも暗く冷たい気配を感じ、言葉を飲み込みました。


 長姫先生も、私たちと同じ気持ちなのだと気づき、それからは誰も口を開かなくなりました。


『ぐっ……! あぁ…………っ!!』


『彼』は、大量に積み重なっていた日記の束を、強引に床へ引き倒しました。


 何枚もの紙が床に散らばり、『彼』は四つん()いになりながら、それらを見下ろしていました。


『はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。っ、ごほっ! げほっ! がはっ!』


 そして、ついに耐えきれなくなったのか、盛大に吐血しました。


 先ほど倒した紙がみるみる血に染まり、独房の床に赤が広がっていきます。


『ぐあっ! あぐっ! うぐっ! んくっ!』


 それを、『彼』はつかみ取り、口に運びました。


 固く、分厚い紙は、普通ならば食べようなどとは考えない代物です。


 なのに、『彼』は一心不乱に、血染めの紙を食べ続けました。


 イビツに(ゆが)んで折れ曲がった、痛々しい手で、かき集めて。


『うっ!! うごほっ!?』


 しかし、やはり無理があったのか、『彼』は即座に吐き戻してしまいました。


 また広がる、血と、吐瀉(としゃ)物。


 それらはすべて、敷き詰められた紙に染み込んでいきました。


『っ! あっ、ぐうっ!! うぐっ! ぐうぅっ! があっ!?』


『彼』は、それすらも、口に運んでいきました。


 鬼のような形相(ぎょうそう)で。


 ひたすら。


 汚物を。


 噛んで。


 飲み込んで。


 叫んでいました。


『ぅ……………………、ぁ……………………』


 しばらくすると、急に動きが緩慢になりました。


 声も弱々しくなり、今にも命の火が消えてしまいそうな気配に、私の心臓は急速に冷えていきました。


「が、がんばっ、」


『ぁがああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!』


 たまらず声をかけようとした瞬間、『彼』は獣のような咆哮(ほうこう)を上げて苦しみ出しました。


「なっ!? こ、これはっ!?」


「おそらく、あの子の所持していた『過負荷』というスキルでしょう。耐え難い頭痛をもたらし、思考系スキルを阻害する効果のようです。あの子は、それを使って、途切れそうになる意識を痛みで無理矢理起こしたのだと、考えられます。

 そして、ずっと紙を食べ続けているのも、『悪食』と『省活力』というスキルを使った、苦肉の延命措置です。『悪食』で生命活動維持のエネルギーに変え、『省活力』で生きること以外のエネルギー消費をほぼゼロにしたと考えられます。

 はっきり言って、すでに出血量からして失血死、あるいはあの子の様子から発狂死していてもおかしくありません。それなのに、まだ理性を保てて生きることを諦めないなんて、常人ではあり得ないほどの精神力だといえます」


 尋常ではない苦しみ方に動揺した私でしたが、長姫先生が『彼』の行動を推測で話してくれました。


 私は、説明の口調が淡泊すぎて、現実味のない凄絶(せいぜつ)な内容に、呆然とすることしかできません。


 耳で話は聞こえているのに、脳が理解することを拒んでいたのだと、思います。


『あがぁ! ぐっ! うああああっ!!』


 生きるため。


 それだけのために、餓鬼(がき)のように紙を(むさぼ)る姿に、『彼』の姿を見ていく前に告げられた、長姫先生の忠告がよみがえりました。


 この世の地獄を経験したという、『彼』の過去を受け止める覚悟。


 あれは、長姫先生の比喩表現だと思っていましたが、その実先生は『彼』の現実を、飾らず的確に表現していたのでした。


 生と死を行き来し、必死に生きようとする、汚くて、醜くて、目を覆いたくなる姿。


 本当に、これは、見るだけでも地獄と呼ぶに相応(ふさわ)しい光景でした。


 長姫先生は、あの時点でもう、『彼』の地獄を知ってしまっていたのでしょう。


 だからこそ、これまでずっと、長姫先生は《明鏡止水》を解除することが出来なかった。


 効果を消してしまうと、【再生】を維持することなんて、出来なかったでしょうから。


『ぃ、ぎっ、るん、だ……、お゛ぇ、わ゛ぁ…………!!』


 見ているだけで、『死』を意識させられる中。


『彼』は、それでも、叫びました。


『じ、んで、ぇっ……! …………だまっ、……る、…………がぁ…………!!!!』


 生きるんだと。


 死んでやるものかと。


 この世界に。


 己に降りかかった不条理に。


 (あらが)っていた。


 戦っていた。


『彼』は。


 一人で。


 ずっと、独りで。


 たった、独りで。


 もがいていた。


 …………あぁ。


 どうして、ここに。


 私たちは。


 いてあげられなかったんだろう……?


「……ここからは、時間を飛ばします。これ以上は、水川(みなかわ)さんたちには、耐えられないかもしれませんから」


 何かを察したのか、長姫先生は【再生】の映像を一度消し、新たな記録を流し出しました。


「あれから二ヶ月と二週間が経過しています。あの子はずっと、生死の境をさまよっていました。

 しかし、唐突にあの子の様子が変化し、傷が塞がっていきました。これは、何らかの方法で回復したと(おぼ)しきあの子の姿です」


 長姫先生のいっそ淡々としすぎている話し方が、私には安心しました。


 新しく目に飛び込んだのは、静かになった独房内と、立ち(すく)む『彼』の背中。


 着衣は汗と、排泄(はいせつ)物と、血と、嘔吐(おうと)物で、酷く汚れていました。


 しかし、『彼』はまるで気にしていないように、虚空をぼーっと見つめています。


『…………』


「へっ!?」


「はぁ!?」


「ぁぅぁぅ!?」


 と、私たちが冷静に見れたのはここまでです。


 何せ、『彼』が突然服を脱ぎだし、全裸になって独房の掃除を始めたのですから!


「お、おさひめせんせいっ!? これは、えっ!? ええっ!?」


「仕方ありません。衛生的にも感情的にも、いつまでもあんな服を着ているわけにはいかないでしょう? あの子が服を脱いで、かつ汚れた独房の中を片づけようとするのは、当然の行動といえます。不快であれば、映像を飛ばしますか?」


「いえっ!! 大丈夫ですっ!!」


「そのままでいいからっ!!」


「『わ、わあ~。おとこのこって、わぁ~…………』」


「そうですか。心中、お察しします」


 最初は大混乱した私たちでしたが、長姫先生の説明で何とか納得し、目に宿る映像に釘付けになりました。


 こ、これは、そう、後学のためにっ!!


 私、セラさん、菊澤さんはじーっと『彼』の掃除をする様子を見続けました。


 余談ですが、大事なところは暗がりで見づらかったのですが、目を凝らせばばっちり見えました。とてもいい勉強になったとだけ、言っておきます。




「これが、昨日までにこの場で起こった出来事のすべてです」


『…………』


 それからの記録は、ほとんど『彼』がひたすらベッドを机代わりに暗号を書き連ねる情景がほとんどだったようで、長姫先生からの口頭で説明を受けました。


 また、合同訓練の負傷後に消えた『彼』の姿もあったそうですが、拍子抜けするくらい平然としていて、本当に大丈夫だったらしいと教えてもらいました。


 最後に見たのは、昨日の夜の記録です。


『彼』が私たちを意図的に無視したことに後悔し、自分の居場所を伝えた私からの襲撃に怯える様子が映りました。そう判断できたのは、『彼』が残していた小さな独り言でした。


『彼』が私たちをどう思っているかという一端に触れて、とても複雑で悲しい気持ちにもなりましたが、それ以上に私たちを(うと)ましく思っていたのではないことが知れて、素直にほっとしました。


【再生】がなくなり、再び現実の視界が戻ってきた私たちは、いろいろな感情が混ざりすぎて、何も言葉にすることが出来ませんでした。


「あの子が水川さんにこの場所を伝えたのは、これを(たく)したかったからでしょうね。あの子の日記を(まと)めたという、レポート。あの子から見たこの国の姿が収められているこれを、私は今日から解読しようと思います」


 一人だけ、私たち以上の光景を見続けた長姫先生だけは、《明鏡止水》の助けもあって建設的な考えが出来ているようでした。


 石のベッドの下にある空間を探し、『彼』が書き記したというレポートを取り出しました。


 ある程度の枚数が重なったそれは、しかしずっと『彼』が書いてきた日記の量と比べれば、かなり少ない量でした。


「水川さんたちは、……いえ、私を含めて、少し時間が必要かもしれませんね。今日は解散しましょう。あと、出来れば菊澤さんには、解読作業を手伝ってほしいのですが、よろしいですか?」


「『えっ? あっ、わ、わか、った……』」


「ありがとうございます。また私から声をかけますので、それまでは大丈夫ですよ」


 しかし、私たちにはまだ、『彼』の軌跡を受け止めきれるだけの時間が必要でした。


 解読作業の補助として指名を受けた菊澤さんも、わからないまま頷いた、という感じが強い返答で、気もそぞろだったように思えます。


 そして、一見冷静だった長姫先生も、《明鏡止水》の影響がなくなったことを考慮した上で、休息を提案したようです。


 私たちは、先生の言葉に、力なく頷きました。


「…………帰りましょう。そして、心の整理をつけられるだけの休息を取って、考えましょう。あの子のように、これからのことを、しっかりと」


 なかなか動き出せない私たちを気遣って、長姫先生が部屋へ戻ろうと促してくれました。


 すでに夜になっており、私たちは一日中牢屋の中にいたことがわかりました。


 道理(どうり)で体が重たいと感じたはずです。何時間もずっと立ちっぱなしで、肉体に疲労がたまっていたのでしょう。


 第一牢にきたときとは違い、心身ともに疲弊して、すっかり覇気がなくなってしまった私たちは、重い足取りのまま部屋へと戻っていきました。


「『あの人の、おっきいの、かな?』」


「知りませんっ!!」


「知らないわよっ!!」


「まだ菊澤さんには早いですっ!!」


 別れ際、菊澤さんの爆弾発言で、ほんの少しだけ、気持ちが軽くなりましたけど。




====================

名前:水川(みなかわ)花蓮(かれん)

LV:12

種族:異世界人

適正職業:勇者

状態:健常


生命力:3800/3800

魔力:3200/3200


筋力:480

耐久力:410

知力:450

俊敏:540

運:100


保有スキル

【勇者LV3】

《異界流刀術LV10》《イガルト流剣術LV10》《異界流弓術LV7》《生成魔法LV10》《属性魔法LV10》《縮地LV7》《虚実LV3》《生体感知LV3》《魔力支配LV2》《詠唱破棄LV2》《連鎖魔法LV1》《未来把握LV3》《鬼気LV4》《千里眼LV1》《刹那思考LV2》

『長刀術LV7』『槍術LV5』『柔術LV5』『暗器術LV4』『範囲魔法LV5』『集約魔法LV5』

====================



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ