――助けて、お兄い!
今でもその言葉は俺に力を与えてくれる。
「……いつもながらに難儀だな、我が最愛の妹イリス」
人も寄りつかない路地裏で、それは起こっていた。
目の前には黒いスーツ姿の男二人。
内一人は壁に民間人を押しつけ、かつ腕を極めて拘束している。残りの一人は両手にはめたレザーグローブに魔力を込めて、容赦なく打ち出してくる。
魔力をまとった空気は、巨大な波の衝撃だ。
空気が路地裏に落ちるゴミを巻き込んで渦を巻く。青いポリバケツが倒れ、ゴミが散乱し、魚の骨が俺の顔をかすめていく。
「お兄いは黙ってて! 気が散るでしょうが! それにイリスって誰よ! 私はかれん! 純情可憐のかれんよ!」
俺のため息をまるでげんこつでも落とすかのように叩き伏せる。
ふむ、相変わらず手厳しいな、かれん。
「勝手に自分好みの名前に改名しないで!」
「あ、イヤだったか? じゃ、マリーでどうだ? アントワネットだぞ。なんかこう王宮貴族のような感じがするだろ」
左右二つに結った髪の毛を振り乱して、壁を蹴りつけて舞い上がる。
「ご飯がないならお菓子を食べればいいじゃない! ……って何を言わせるのよ!」
衝撃波はカレンの視界の下を一過していった。
三角飛びの要領で空中に身を投げ出したかれんは、黒いスーツの男にひじうちを落とすべく、さらに逆側の壁を蹴る。男は空中に身を投げ出している時点で、かれんの二手先をよんでいたようだ。
バックステップでかれんと距離をとると、重心を低くとり、かれんの着地際を狙う。
それでなくても狭い路地裏だ。選択肢は限られる。
男の予想通りならば、かれんに次はないだろう。
だが、かれんとて素人ではない。そのぐらいはお見通しだ。
「おいおい、抱腹絶倒にはほど遠いノリツッコミはいいが、ちゃんと周囲には気を配れよ?」
男のねらいを分かっている俺は、かれんに注意を促してやった。
「くっ……スルーしてくれればいいものを、そうやって冷静につっこむから、言っているこっちがよけい空しくなるでしょうが!」
俺達の会話に、眉毛をぴくりと不機嫌そうにたわめる男。
それはそうだろう。命のやりとりをしているのにこんなお気楽な会話をされたらたまったものではない。
ま、それも俺達にはいつものことだ。逆にこの会話があることでまだ余裕があるという証明にもなる。
「……それはそうと」
「お兄いが私を放置した!?」
かれん、着地態勢。
男の拳に力がみなぎる。
おそらくはさっきと同等か、それ以上の魔法を放とうとしていること分かる。
魔法が言語となって男の拳の周りを覆っている。
数瞬の間に、男が一言だけつぶやいた。
世界では一般的になった無詠唱魔法。
「――かれん、手をかそうか?」
「ふん、結構よ!」
古来から魔法は詠唱を必要とした。
精霊の力を借りるとか、契約するとか何とか。それなりの手順を踏まなければ体に宿る魔力を放出、あるいは具現化できなかった。
例えるならば、そうだな……今まさにかれんが実演してくれるだろう。
「古より胎動する風の精霊よ、我が盟約に従いその力を眼前にて示せ!」
かれん、着地。
男はすでに魔法を放っている。
一方、かれんはまだ詠唱をすませていない。
路地裏を蹂躙する波動。空間ごと歪ませるような強力な魔力の放出だ。
レンガ造りの壁がバラバラになり竜巻に巻き込まれるように波動に吸収されていく。男はにやりと口元をつり上げた。勝利を確信したのだろう。
おいおい、かれん、危ないんじゃないのか。
「風、変換、壁、顕現!」
着地したままの態勢で、詠唱を終えるかれん。
一メートルにまで迫った衝撃波が、かれんを呑み込んでいく。体内から具現化された魔力が、ぎりぎりのところで衝撃波から身を守っている。
だが、いかんせん魔力の絶対量が違う。
ぎりぎりまで余裕を持ってため込んだスーツ男の魔力と、かれんの急造魔力では勝敗は明らかだった。
ガラスが破れるような音を伴って、かれんが路地裏に吹き飛ばされていく。
かれんの小柄な体がレンガ造りの壁に跳ね返り、地面にどさりと落ちる。
どうやら先端を行く無詠唱魔法と、時代後れの詠唱魔法の差がはっきりと出てしまったようだな。
――人類の科学が進歩するように、魔法も進化する。
魔法だっていつまでも唱えるものであるはずがない。
魔法は、詠唱すればその詠唱の文言でどんな魔法か相手に想像されてしまう。
第一、詠唱に時間がかかるようでは魔法としては一流でも、武器として三流だ。
私はこれから、あなたに剣で右横から斬りつけます。
そんなことを言って敵に向かっていく馬鹿がどこにいるだろうか。魔法は、そういった詠唱と時間の二つのデメリットを背負っていた。
だが、無詠唱魔法はそれらを同時に解消させてみせた。
詠唱を脳内で行い、さらにそれをショートカットとしてある言葉に置き換えておくことだ。
例えるならば、逆引きの辞書の関係に近い。
キヌゲネズミ科キヌゲネズミ類の総称。体長15センチメートルほど。毛は絹毛状。顔が丸く、頬袋をもつ。背は明るい赤褐色。現在世界中で飼われているものは、すべて1930年にシリアで捕獲されたものから増殖された。実験動物、愛玩用。
……以上を一言で言うならば、ハムスター、である。
つまりショートカットとは、魔法をいち早く発動するために、一連の詠唱を一つの言葉として取り決めてしまうことだ。言葉遊びに近いが、簡単に説明するのならば今のが一番分かってもらえるように思う。
魔法学に賢しい方なら、ここで一つの疑問が発生するはずだ。
無詠唱といいつつ、やはり最低限言葉を発しているではないか、と。
実はそれは……おっと、悠長に説明している場合ではないな。
しかたがない、ここは俺が。
「かれん――」
俺はかれんの顔をのぞき見る。
「お兄いは手を出さないで!」
歯ぎしりするかれんの叫び。
「ふむ……分かった。じゃ、手をださない代わりにあとで例のものをくれ。お兄いはもうどうなっても知らんぞ」
かれんの額に青筋が浮かぶのを見て、俺は引っ込む。
まぁ、かれんにその気がなければ、どうせ俺は手を出せないしな。
「分かったわよ! うっさいわね!」
どうやら痛みがかれんの堪忍袋を断ち切ってしまったようだ。
こうなってはもう手が付けられない。
かれんはゆらりと立ち上がって、ミニスカートの裾を払う。ミニスカートからのぞくのは、破れてしまった黒いスパッツ。血がにじんでいるのを見たかれんは、より一層怒りのボルテージを上げていく。
女のヒステリーは嫌いだ。何をしでかすか分からない。
「……お気に入りだったのに」
だったら履いてくるなよ、とは口が裂けても言えない。
「高かったのに」
ゾンビのようにゆらりゆらりとスーツ姿の男に近寄っていく。
そのあまりの無防備さをやけっぱちと見たのか、男は残りの魔力を拳に収束させ、接近戦を挑んでくる。
直接手を下そうという算段らしい。
戦いぶりを少しだけ見た感じでは、男はなかなかの手練れだ。とどめをさそうとする行為にも手を抜いていない。
敵が一人ならば、例え相手が何であろうと全力でしとめる。
その気概が見て取れたからだ。
男の足が魔力によって補助されている。加えて拳にも同等の魔力。
前述の通り、手を抜いている様子はない。
「……弁償してよね」
男の拳がかれんの顔面を直撃。かれんは脳天を砕かれて即死する。
排除完了。
これが男の描いたシナリオだろう。だが、シナリオは編集長によって残念ながら却下される。
編集長はもちろん。
「……じゃなきゃ、鳴いてよ」
かれん。俺の自慢の妹。
「いい声で」
男は目を見開いた。
確かに殴りつけたはずのかれんの顔面。
しかし、かれんはそこにはおらず、男はかれんに耳元でささやかれる。
男の背には戦慄が駆け抜けたはずだ。
敵として認識していたはずの女が、絶対的な捕食者へと変貌したのだから。
男は恐怖を振り払うようにかれんに裏拳を見舞う。
魔力まとった強力な裏拳だ。
触れればコンクリートの難なく破壊することのできる鉄の拳。
だが、かれんはそれを容易に受け止めた。魔力をまとわないかれんの手のひらは、渦巻く魔力に削り取られて裂傷を負っている。
痛みさえも忘れたか、妹よ。
……いかんな、アドレナリンがあふれ出しているぞ。
もはや男は化け物でも見るような体だ。
かれんはそんな男を一撃のもとに葬り去る。
キレると強くなるというのは普段おとなしいヤツに適用される語句だと思っていたが。
いやはや、天然というか、不器用というか。
体中に魔力をみなぎらせて、常人にはとらえられない速度にまで加速をかけている。普段からこんな風に魔力をコントロールできると痛い目を見ないですむのに、とは口が裂けても言えない。
間違っても、へたれとは言わないで欲しい。
かれんの掌底をうけた男は、レンガの壁を突き抜けていく。
さらにはレンガの先にあった壁を一枚つきぬけ、冷蔵庫にぶつかってようやく止まる。
中にいたおばさんが、冷蔵庫から取り出した牛肉を握りしめた態勢で目を丸くしていた。今までそこにあったはずの食物満載の冷蔵庫は横倒しになり、それを抱きしめて男が失神している。
……ああ、叫ぶな、きっと。
俺の予想通り、我に返ったおばさんの悲鳴が路地裏にまでとどろいた。
悲鳴は耳をつんざくばかりだ。腹の底からの叫びを上げたおばさんが、牛肉を放り出して逃げ出す。
俺の方に弧を描いて飛んでくる牛肉。
おお! 見目麗しき高級肉ではないか。美味しそうだ。
かれん、キャッチしてくれ。地面に落ちる前に!
願いも空しく、かれんは牛肉を無視して、残りの男に突進していく。
――ぎゅ、牛肉が!
思いっきり手を延ばすが、すんでのところで届かない。
ふわりと舞った牛肉。
スローモーション。
伸ばす俺の手。
訪れたのは……悲劇。
高級牛肉は、俺の悲しみの涙とともに路地裏の汚れた地面にぽとりと落ちていた。
俺がこらえきれない涙とともに牛肉の哀悼を祈っているうちに、勝敗は決する。
男の無詠唱魔法よりも早く、かれんは懐に潜り込んでいた。
「早すぎ――るうっ!」
それが男の最後の言葉となった。語尾が悲鳴と混ざり合い、高速で路地裏を滑っていく。
牛肉を失った悲しみ。涙でかすむ視界。
見れば男がゴミにまみれて転がっていた。生ゴミや破れたストッキングを頭に乗せて、だらしなく気を失っている。
時間差で落ちてきたポリバケツのふたが、男の顔を覆い隠す。
まるで臨終の白いハンカチだ。
どうやら片は付いたようだな。
かれんは大きく息を吐く。体中にまとっていた魔力が、息とともに空気中に霧散していった。それに伴い、怒りもどこかへ飛んでいったようだ。
いや、殴り飛ばしてストレス発散といったところか。
直後、かれんは尻餅をついてぐったりとしてしまう。
「時代後れの時間を要する詠唱魔法。ノーモーションから放てる無詠唱魔法。威力は同じ。この二つから選べと言うなら、俺は後者だけどな」
「うるさいわね……できないんだからしょうがないじゃない」
「もっとよく練習しないからだ。そもそもかれんはいつも――」
「はい、お兄い。例のものよ」
かれんが左胸のポケットから例のものを一つかみし、無造作に放り投げる。
「ふおおおおおおおっ! ひまわりの種! ひまわりの種ええええぇっ!」
きらきらと輝く宝石のような種。
俺はかれんの右胸のポケットから飛び出し、空中で見事に種をキャッチする。
素早く着地すると、落ちてくる残りの種を両手と口で次々にキャッチしていく。
見事、全てを確保し、十点満点の試技。
思わずダンディズム溢れるポーズを決めてしまう格好良い俺。
「ふっ……所詮はお兄い。気をそらすのなんて造作もないわね」
かれんがいやらしい笑みを浮かべていた。
兄を見下すような目は、非常に許し難い。
しかし、ま、今回はひまわりの種に免じて許してやるとしよう。
心が広いな、俺は。
「はぁはぁ……なんていやらしいラインなんだ、お前は……そうやっていつも俺の心を興奮させる……はぁはぁ……ここか? ここがええのんか?」
食べてしまいたくなる衝動を抑えて、ひまわりの種を愛撫する。
ストイックな俺。ひまわりの種を愛でるなんて、罪な男だぜ俺は。
でも俺は、そんな自分が好きなんだ……。
「変態、気持ち悪い」
失礼だぞ、かれん。
……ちなみに、俺か?
かれんの胸ポケットにいた世界一かわいい愛玩動物。
ひまわりの種を優しく愛撫するハムスター、それが俺だ。
……ちなみに雑食である。
「じ、実の兄に向かって気持ち悪いって!」
「うるさいわね、小動物」
簡単に言えば、俺達は魔法使いである。
魔法を駆使し、物事を解決する。いつの時代も存在する、いわゆる何でも屋みたいなものだ。あまり口外できるようなものではないが、ある事情によって俺達は何でも屋を営まなくてはいけなくなっていた。
「かれん、俺はお前をそんなツンデレに育てたつもりはない」
「あっそ、なら私はお兄いみたいな兄貴をもった覚えはないわ」
「……なにげにひどいぞ、それは」
まぁ、ある事情というのも、言ってしまえばごくごく単純な話だ。
俺は当時大学院の魔法学部詠唱言語学科に所属していて、それはそれは優秀な学生だった。その実験中の事故によって姿がハムスターになってしまったというわけだ。
「だったら、お兄いこそ何よ、ツンデレって。私、ツンデレじゃないし」
「そうだな、お兄いが間違っていた。かれん、お前はツンデレではない、ただのツンツンだ。それはもう救いようがないくらい小憎たらしいツンツンだ。もちろん、そこには妹萌えもない」
事故の状況をもっと詳しく説明すると、こうだ。
というか、ぜひ聞いてくれ。
同じ大学にまぐれで入学したばかりの妹が、興味本位で実験中の俺を驚かせたのがそもそもの発端。
複雑な無詠唱魔法を脳内でいくつも多重にくみ上げていたときだった。
それが俺の心の乱れによって、文字列が複雑多岐に絡み合ってしまった。
結果、どのように乱れてしまったか分からないまま、気が付いてみれば俺は白衣をまとったハムスターと化していたのだ。
ハムスターのままでは当然魔法など唱えられるわけもなく。
結果、俺は行方不明扱い。
人生に絶望した俺は、嘆いた。それはそれは嘆いた。
涙で湖ができそうなくらいに嘆きまくった。
「小動物のくせに生意気。潰すわよ、お兄い」
「つ、潰……い、いやだな、かれん……ははは……う、や、やめろ……そんなぎらりとした捕食者の目でこっちを見ないでくれ!」
妹はそれに少なからず責任を感じたのか、大学生という傍ら、俺の姿を元に戻せる方法を探しながら、何でも屋を営むという形に落ち着いた。
分かっていただけただろうか。
笑っていただけたであろうか。
「お兄い、今までありがとう。思えば何のありがたみもない日々だったわ」
「かれん、せめてひまわりの種を食べる時間ぐらい欲しい。これは健気な妹思いなお兄いの最後の願いかもしれない……」
ひまわりの種を抱えたまま、少しずつ後退を余儀なくされる俺。
「最後の願いにさせるつもりだけど?」
悪魔だ。実の妹にして悪魔がいる。
「…………じょ、冗談でしょ?」
ハムスターの俺にすれば、天を覆い尽くすかれんの姿はまるで猛禽類の笑み。
……俺のつぶらな瞳から、思わず涙がこぼれた。
「盛り上がっているところ申し訳ありませんが」
羽交い締めにされていた民間人が、にこにこと俺達に近付いてくる。
中肉中背、優しそうな顔立ち。黄色い声が上がりそうなスマイルは、見るからに好青年。
「あ、忘れていたわ」
俺も、右に同じ。
「安心して良いわよ。見ての通り追跡者は撃退したから」
追跡者――スーツ姿の男二人をあごでしゃくる。
「本当に感謝しています。なんと言ってお礼を言ったらいいか……」
「別にもらうものをもらっているもの、気にしなくて良いわよ」
「いえいえ、それでもお礼がしたいのです。そうですね……このお礼は今すぐ返した方が良いですね。今までのも含めて。うん、そうです。それがいいですね」
ぽんと手を打って、豆電球を頭の上で点灯させる民間人。
「……何を言ってるの?」
「えっとですね、大人というものは、年を取るごとに自分の周囲が不安で仕方がなくるのです。保険をかけたくなる年頃といいましょうか……」
なおもにこにこと微笑み続ける男。
お前は微笑みの貴公子か。
「つまりはですね。私は敵です」
にべもなく言ってのけ、表情を一変させる微笑みの貴公子。
真の姿は悪の貴公子といったところか。
「……嘘」
思わずつぶやくかれん。
「ミイラ取りがミイラになる。ありがちな展開です。貴女のような何でも屋なんていう職業は、裏家業をする人間にとっては邪魔なだけなんですよ」
魔力の胎動が目に見える。
その質、量ともにスーツの男よりも手練れているのは明らかだ。
「……いつもながらに難儀だな、我が最愛の妹イリス」
「お兄い……!」
俺の冗談も通じないのか、怒りの言葉を落とし、疲労の蓄積した体で素早く距離をとるかれん。
地面に降りている俺は、手でひまわりの種を大量に抱えながら、ちょこちょことかれんの元へ寄っていく。
「手を貸そうか?」
「誰がハムスター風情の手なんて借りるもんですか!」
その言葉は、全国の同士に向かってかなり失礼だぞ。
謝れ、今すぐ謝れ。
なにより可愛い俺に謝れ。
「……貴女はさっきから独り言が多いですね。それと……」
笑顔を消し去った男の眼光が、俺をとらえる。
「足下でちょろちょろと目障りなドブネズミですね。私はドブネズミが一番嫌いなんです」
「私も同感」
「ひどい!」
あまりのショックに、思わずひまわりの種を落としてしまう。
「……でも、これドブネズミじゃないから。ハムスターだから」
魔力を使い果たした体で、敵を指さす。
「よく聞きなさい。こいつはね、世界で一番可愛いハムスターなの。私の自慢のペット。だから、今のは少しむっと来たわ。こいつを馬鹿にしていいのは飼い主である私だけ。他の誰にも馬鹿にされたくない。ていうか、馬鹿になんてさせない」
「かれん……」
何だろうな、言い方は雑だがほのかに嬉しい。
「……頭が馬鹿になりましたか? でも、病院には行く必要はないですよ。馬鹿は死ななきゃ治りませんから」
「言ってくれるじゃない!」
先に飛び出したのはかれん。
まとう風速に、ひまわりの種が飛ばされてしまう。俺は慌ててそれ――ひまわりの種を追いかける。
直後、轟音が路地裏に響いた。
余波が路地裏に広がっていく。
かれんの拳と、男の拳が激突した。
拳を激突させることにメリットはない。見栄えは良いかもしれないが、それは自分にも其相応のダメージが残る無意味な行為だ。作用反作用の法則。それは誰しも逃れられないのだから。
しかし、男はそれでも笑ってみせる。
「それで終わりですか?」
かれんの体がきしむ。細い体に見合わず極限まで鍛え上げられた男の体と、女らしく細いしなやかな体。
比べるべくもなかったのだ。
かれんのまぶたが苦痛に閉じられる。
「これで終わりなわけないじゃない。まだ殴り飛ばしてないんだから」
「物騒な話ですね」
男は拳をぶつけ合ったまま、口の端をつり上げる。ぶつけ合った拳から文字が渦巻くのが見えた。かれんはそれを感じ慌てて距離をとろうとする。
駄目だ、かれん。それは男の罠だぞ。
俺の声が届いたのか知らないが、かれんはバックステップを躊躇し、つばぜり合っている右の拳を引いて背中を向けて高速回転。
逃げの一手から、一転、反撃の後ろ回し蹴りに移行する。
男はそれを見て多少驚いたらしい。
それもそうだろう。魔力の絶対的な差を見て、逃げ出さずに打ち込んでこようというのだから。そんなことをするのはよほどの自信家か、単に破滅願望の持ち主かに限られる。
お兄いとして忠告しておくが、かれんの後ろ回し蹴りは一級品だぞ。
無駄のない、鎌で刈るような鋭さと威力を兼ね備えた一撃。加え、かかとに鉄板を仕込んであるブーツでの回し蹴りは、一般人なら一発であの世行きかも知れない。そう、一般人なら。
「殻!」
その言葉をキーにして、不可視の魔力が具現化されて放出。男の無詠唱魔法が発動する。
男の脳内で詠唱が一瞬にして実行されたのだ。
男の周囲を魔力の文字列が回転し、男を守護する外殻となる。
魔法と生身の攻撃、この世では改めて言うまでもなく前者に圧倒的な分がある。
ゆえに、かれんの回し蹴りはいかに威力があろうと魔法の壁の前では無力だった。
魔力の壁にはひびすらはいらずに、硬質の音を路地裏に響かせるに終わる。
かれんの舌打ちが聞こえた。
「衝!」
追撃の第二波。さらなる無詠唱魔法。
かれんの回し蹴りから、第二の無詠唱魔法の発動まで、この間三秒足らず。
皮肉にも、俺がかれんに説いた無詠唱魔法の優位性が示させることになった。
魔法の絶対的な弱点である詠唱時間と、詠唱に要する正確性の極端なショートカット。
それはつまり、詠唱の間、正確性すら失わせるはずの接近戦においてもっとも有効だということ。肉と肉がぶつかり合う超至近距離、一瞬の判断が死に直結するハイスピードな接近戦において、過去の詠唱魔法はつけいる隙がなかった。
しかし、無詠唱魔法は違う。
例えるならボタン一つ押すだけで、一連の魔法詠唱を省くことが可能なのだから。
「かれん!」
破れた新聞紙の三面記事が風で飛ばされ、俺の顔面に覆い被さってくる。人間の手のひら程度の新聞紙だが、ハムスターである俺にとっては十分な大きさだ。
かれんの戦闘を――ひまわりの種を確保しながら――逐一チェックしていたのだが、とたんに見えなくなってしまう。
肉体を破壊する鈍い音。
……やはり、かれんには荷が重すぎた。止めさせるべきだった。
俺がハムスターのままでいることにかれんが責任を感じていることは分かっていた。ふだんから反抗的で攻撃的な妹。
けれど、俺と同じ大学に入学し、同じ道を歩もうと決めた妹の横顔。
そこにはいつものツンツンした妹の顔はなかった。
あったのは幼い頃から俺の背中を追いかけてきたあの笑顔。
かけがえのない妹の、かけがえのない照れ隠しではないか。
俺はひまわりの種を放り出す。
すまない、あとでいくらでも愛でてやるから。だから、今は許してくれ。可愛い俺の種よ。
口に蓄えていたひまわりの種をぼろぼろと吐き出し、両手に持った種も後ろに投げ捨てた。
俺の行く手を遮る新聞紙をつかむと、まっぷたつに破り捨てる。
男の一撃を腹部に受けたかれんの口から、空気の固まりが飛び出す。
胃袋から逆流した胃液もそれに続いた。
「……かれん」
男に首を捕まれ、空中に高々と掲げられる。足をばたばたとさせてもがくも、男のがっちりとつかんだ手首はびくともしない。指が首に徐々に食い込んでいく。
これ以上は呼吸はおろか、骨も危ない。
今まさに、かれんの命が男の手に握られている。
「お兄いは……黙ってて……」
ぎりぎりと首が絞まっていく音。
命か握りつぶされようとする音。
「お兄いは……そこで……見てて……」
男の酷薄な笑みが浮かぶ。微笑みの貴公子などとはほど遠い。
そこにいるのは悪の貴公子を上回る、残虐の使徒だ。
かれんのあえぎなどどこ吹く風。
風前の灯火でさえ、軽く吹き消そうとする。
「……かれん、俺は純真無垢なかわいいハムスターでしかない」
かれんの動きが弱くなっていく。
抵抗する力が失われていく。
「俺は見てることしかできない」
俺はただの小動物。
何もできない無力な存在。
「だが、お前が苦しむのは見ることすらしたくない」
かれんがいるから俺は生きていられる。人間であると証明してくれる。
かれんとの兄妹の絆。それだけが、俺をかろうじて人間につなぎ止めていてくれる。
「……言いたかったのはそれだけだ」
俺はかれんを見上げていた顔を下ろし、尻尾を振った。
かれんに背を向け、汚れた路地裏をとぼとぼと歩いていく。
ひまわりの種が路地裏に空しく転がっている。
大好きなはずなのに、味気ないものに感じられる。
小さい体、小さい手、小さい足、細い尻尾。
人一人の手のひらの大きさにも及ばない小さき存在。
一人で生きて行くにはあまりに脆弱な存在。
俺は己の無力さで今にも潰されそうだ。
「…………て」
俺の耳が何かに反応する。
手に取っていたひまわりの種を落とし、俺は小さな足で立ち上がる。
「――助けて、お兄い!」
待ち望んだ声が聞こえた。
体中に力がみなぎる感覚。失われたものが戻ってくる充足感。
視界が高さを得、体が力を得、大きさを得、魔力を得ていく。爆発するほどの力が勝手に解放しようと動きだす。溢れる魔力を収束させ、俺は強引に体内にねじ込んだ。
……さて。
「なんだと?」
かれんの首を絞める手首に手を置く俺を見て、男が相好を崩す。
「まったく、かれんは強情なんだから」
俺はかれんに微笑みかけた。
かれんは苦しみに歪む顔を羞恥に染めて目をそらす。
その目に浮かんでいたのは紛れもない涙の雫。どんな宝石にも勝るきらめき。
「……かれんは普段から泣いたりしない子なんだ」
男は慌てて手を離して飛び退り、無詠唱魔法のショートカットをつぶやこうとする。俺は地面に落下しそうになるかれんを、あえてお姫様抱っこで受けとめる。
抱き留めたかれんは、俺がハムスターであった頃に比べれば、あまりに小さくて軽い。
それは間違いなく女の子。
「でも、今は泣いてる」
俺の言葉に恥ずかしげに顔を背け、薄紅色の頬を膨らませるかれん。
極上の照れ隠しに、俺は嬉しくなる。
俺はその目元を指で優しく拭ってやる。
かれんは嫌がる様子を見せずに、俺に涙を拭わせてくれた。
男の魔力が強大なものに変わる。体内に蓄積された魔力を全て解き放つつもりなのだろう。大気が振動し、路地裏に転がる石が恐怖におののくように震え出す。
満を持してつぶやかれるショートカット。
その魔法を発動さたのは、世界一可愛い妹、かれんを泣かせた男。
「――てめぇゆるさねーぞ俺の愛する妹泣かせやがってぜってーぶっとばしてやるいやぶっとばすではすまされねーぞぶっころしてやるいやマジでもう怒ったぜってー許さねーから覚悟しやがれ!」
格好いい兄を捨て、怒り狂う俺を嘲笑する男。
「…………お兄いはそれがなければ、ね」
男は俺達に手のひらをかざし、魔力を解き放つ。
俺は口を閉ざしたまま。
解放された魔力の渦が俺達の周囲を荒々しく呑み込んでいく。暴風域を連想させる魔力の奔流。周囲の壁という壁に亀裂が入るほどの威力の余波。
だが、男の渾身の魔法は一瞬にして消え失せたばかりか、きらめく光に巻き込まれて一点に収束し、輝く光球へと変化する。
それはまるで持ち主へと帰るように男の胸の中心に吸い込まれていった。
とたん、男は心臓を押さえてくずおれる。
「ふ、ふざけるな……こんなことがあるわけない。確かに先手をとったはず……だ」
体中から膨大な量の汗を吹き出し、地面にはいつくばる男。
「……あるわよ。だって…………残念だけど自慢のお兄いだもん」
台風一過。
一瞬にして青空が戻ってくるように、路地裏に吹き荒れた嵐は収まっていた。
「これが本当の無詠唱魔法。言葉一つ発しない最先端の魔法。お兄いが研究していたものなの。私も一応……勉強中」
自分のことのように胸を張るかれんの言う通り。
時代後れの詠唱魔法。
先端を行く無詠唱魔法。
そして、最先端を行く本当の意味での無詠唱魔法。
一文字の詠唱すら必要としない、完全無欠の瞬間魔法。
脳内だけで全てを構成、念じるだけで発動という、完全なる思考制御法だ。
ちなみに男に放ったのは、男の魔力をただ持ち主に返還しただけの簡単な魔法。
ただし、体中にみなぎっていた魔力を心臓だけに返すという、少し特殊でデリケートなもの。
ゆえに心臓にかかる負荷は多大なものになる。死には至らないけれども、魔力が体中に拡散するまでは、心臓に加わる圧力に苦しみ続けるだろう。
おそらくは、二日間ぐらいは動くことさえ辛いはずだ。
「かれんはその前に無詠唱魔法を何とかしないとな」
「…………ふん。お兄いの馬鹿」
俺はかれんに微笑んでみせる。
久しぶりの格好良い生お兄いだ。恥ずかしがるというのも当然だろう。
ふむ、たまには恥ずかしがるかれんも悪くない。
「お兄い……その……下、隠して」
「下?」
俺は自分の下半身に視線をを下ろす。
そこには立派なものがぶらぶらと揺れているではないか。
裸同然のハムスターから人間に戻ったのだ。当然というか……まぁ、お決まりってやつだな。
うん、そう思ってくれると助かる。
「そ、そんな粗末なもの……見せないでよ」
「お前、それ傷つくから!」
「だ、だって――きゃぅ!」
かれんが可愛い悲鳴を伴って路地裏に尻餅をつく。
どうやらタイムリミットが来てしまったようだ。
俺はかれんのわきでうつぶせに倒れている。
刹那、あまりの痛みで起き上がれば、俺の尻尾がかれんの下敷きになっているではないか。
「まったく……最後まで締まらないお兄いなんだから」
俺はかれんのお尻で潰されてしまった尻尾に息を吹きかけ、なんとか痛みを和らげようとする。
「……でも、ま、そんなお兄いが私は――」
「ん? 何か言ったか?」
あんなに小さく軽いと思えたかれんが、また大きくなっている。
それが、少しだけ寂しく感じられた。
「何でもない。それより……はい、お兄い。ご褒美よ、受け取りなさい」
ポケットにつっこんだ手から、白いものが複数、無造作に放り投げられる。
楽しそうな、小悪魔のような笑顔が印象的なかれんだった。
そんなかれんを見られるのなら――
「ふおおおおおおっ! 種! 種たねタネ! ひまわりのおおおっ種えええっ!」
――正直、ハムスターも悪くない。
…………本当だぞ?
< END >
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