君は俺の王子様
ラファ・シネマは代々医者のシネマ伯爵家に生まれた。
あらゆる才に恵まれ、とりわけ音楽の祝福を受けたと称される程、あらゆる楽の才があった。
しかし、ラファには問題があった。翼手の父を持つのに、三人の兄達は立派な翼手なのにも関わらず、ラファは翼手としては完全な欠陥品であったのだ。
まず、第一に食事がまともに取れなかった。兄達のように人の子の血を飲むことが出来ず、病弱な母と共に兄達がうさぎのえさと呼ぶ野菜しか食べられない。次に争いごとがめっぽう苦手で自分だけでなく、他人同士が争っていることさえ恐ろしくて堪らなかった。更に、医者の家に生まれたというのに、血が怖くて堪らなかった。酷い時は気を失ってしまうことさえある。
そのせいか、ラファには同じ歳の友達が居ない。友達といえば、二つ上の幼馴染のチャールズか、六つ下の意中の相手のブランシェと、その弟のブライアン程度しかいない。
ラファは細くてか弱く見える上に、争いごとを避けるために大抵のことに妥協してしまうせいで、同じ年頃の男の子達に苛められていた。酷い時は年上の男の子にこっぴどく暴行を受けることもあった。そういう時のラファは怖くなって固まってしまい、大人しく蹴られるしかない。
今日もラファは理由も無く、貴族のお坊ちゃん達に暴行を受けていた。
曰く、女みたいな顔でちゃらちゃらしていて気持ち悪いとのことだ。
勿論、ラファだって蹴られれば痛い。怪我の回復は人より早いけれども、痛いし怖い。
好きで蹴られているわけではないのに、怖くて動けなくて結局蹴られてしまう。しかも相手は、年上で、ラファより大きな体をしている子が五人も居た。
なのに、そいつらを一掃してしまう子が居た。
「おい、一人相手に大勢で、情けないと思わないのか? 男なら、決闘で決着を着けろ」
不機嫌そうな声の主は余所行きの可愛らしいドレスを身に纏っている。お茶会の主催者である侯爵の娘のブランシェだった。
「ラファも、たまにはやり返せ」
「ごめん……」
蹴られるのも怖いけれど、やり返すのも怖いのだ。
「なんだよブランシェ。そんなふりふりのドレスを着て俺らの相手をしてくれるってか?」
「受けて立とうじゃない。お前達、喧嘩を売るなら相手を見極めてからにしないと後悔するぞ。大体、お母様に見つかったら全員揃ってしばかれる。覚悟はできている?」
その言葉に、ラファまで背筋を正してしまう。おそらく、世界で一番怖い女性はブランシェのお母さんだ。娘を溺愛しているけれど、教育は厳しい上に、すぐに鞭を振るう。
「おい、ブランシェの母親って……」
「カルンシュテインの悪魔じゃ……」
ラファに暴行を加えていた少年達が青ざめていく。
「どうした? 剣なら貸すけど」
ブランシェは気にした様子も無く、寧ろ決闘を始めたいと言わんばかりの様子だった。どうも、彼女は好戦的過ぎる。
しかし、少年達はブランシェの後ろを見て逃げ去っていく。
「こら、ブランシェ、折角可愛く着飾ったのだから、そんなものを持たないで大人しくなさい。女って言うのは、こういうところでは、美しさで男を惑わせるものだよ」
どうやら彼らが逃げ出したのはブランシェの母の姿を目にしたからだったようだ。
「でも、お母様……あいつら、ラファのことを」
「ラファ、男ならやり返しなさい。全く、ジョセフといい、ラファといい情けない」
彼女は呆れたように言う。
「あら、お父様、また誰かに意地悪されたの?」
「安心おし。お母様がしばいておいたわ」
彼女の手にはしっかりと鞭が握られている。
「マーカラ、私は気にしていないから、頼むから大人しくしていてくれ。折角綺麗な格好していても、台無しだよ。まぁ、あとで可愛い君を堪能するのは私だけの特権だけれども」
そう言うのは、髭で覆われた赤毛の男だ。ブランシェの父親だと言われてもイマイチ実感できないほど、彼はお世辞にも美しいとは言えない容姿だ。それに、ブランシェも赤毛だけれども、色が違いすぎる。父親は錆びたような赤毛だけれども、ブランシェは葡萄をすり潰したような赤だ。
「何言ってるんだい。お前を馬鹿にしていいのは私だけだよ」
「どちらかというと、君に罵られたほうが傷つくな」
侯爵はそう言って優しく笑う。本当は妻の言葉にはこれっぽっちも傷ついたりなどしないのだろう。
「大体お前、茶会なんて言っても茶を飲むヤツは本の一握りじゃないかい」
「ディスプリン侯爵も来ていただろう? 彼は、飲み物は摂取するからね。我々だって飲み物くらいは楽しめるだろう?」
「あんなヤツの為にわざわざ」
「まさか。ラファが楽しめるようにお茶菓子も用意してもらったんだよ。だから、ラファ、沢山食べて行っておくれ」
侯爵はそう言って笑う。
彼は何かとラファを気に掛けてくれているようだが、どうしても、娘との婚約だけは認めてくれない。
「いつもありがとうございます」
「いや、ブランシェがいつも振り回してすまないね。どうも……母親に似過ぎてしまったようで……正直困っているんだ」
侯爵は困ったように笑うけれど、彼が妻と娘を溺愛していることはあまりにも有名だし、気の強い妻に振り回されるのが好きだというのも見れば分かる。
将来は自分も侯爵のようになるのだろうかなどと考え、ラファは思わず笑う。
ブランシェがラファもお嫁さんになってくれたらどんなにいいだろうか。しかし、出会った時、彼女に嫁には行かないとはっきり言われてしまった。
いや、寧ろ婿に来いと言われた。但し、当時の彼女が言葉の意味を理解していたかどうかは定かではない。
ただ、可愛らしいドレスを着せられていても、ブランシェはそこらの男よりずっと勇ましいことだけは確かだ。
ラファが大きくなっても、他の貴族達からの嫌がらせは減らなかった。寧ろ、ラファが美しく成長しすぎたせいで、一層同世代からの嫌がらせが増えた気がする。
特に貴族の家での集まりで、ラファが食事を口に出来ないことを知って強要する者がいるのだ。彼は幼い時からラファを蹴ったり殴ったりしていたけれど、大きくなるにつれ、やることが陰湿になってきた。
しかも、中途半端に身分がある。ラファはあくまで伯爵家の息子だけれども、相手は伯爵なのだ。
「ラファ、出されたものはちゃんと喰え」
彼はにやにやと笑いながらそう言う。グラスに注がれた赤い液体は翼手が生きるために必要なものだけれど、ラファはそれを近づけられるだけで意識が遠のきそうだった。
「寄越せ」
突然、横から細い手が出てきてグラスを奪い取る。そして、声の主は一気にそれを飲み干してしまった。
「んー、男か。子どもの血はないの? 私は幼い子の血の方が好きだ」
「カルンシュテイン伯爵……それはラファに出したものなのですが?」
「ん? ああ、悪いな。ラファが持っているとどうしても欲しくなる」
騎士の制服を着たブランシェはニヤリと笑ってラファを見た。
昔からそうだ。ラファが血を飲むと高熱を出してしまうと知ってから、ブランシェはラファが困っていると出されたものを奪い取る。
「喰い足りない。ラファ、お前の家でなんか出せ」
「え? ブランシェ少食なのに」
「訓練で腹が減ってるんだ」
彼女はそう言ってぎろりと睨んだ。
けれども、本当は知っている。既に満腹なのに、無理をして飲み干してくれた。
だから一層次のグラスを出される前にこの場を立ち去りたいのだ。
「俺、ブランシェの実家に行きたい」
「馬鹿、お母様は出産で忙しいんだ」
「……また弟が増えるのかい?」
「ああ。そろそろ名前が覚えきれなくなりそうだ」
ブランシェは困ったように笑う。けれども彼女が弟達を愛していることは知っている。それでいて、彼女は、弟達にどう接していいのかわからないという不器用さを持っている。
ブランシェは勇敢で不器用で優しい女性だ。
「俺は、愛情深いブランシェが大好きだよ。俺と結婚してよ」
「……いらん。お前など。面倒が増えるだけだ」
「いや、いつも俺を護ってくれる理想の王子様なんだからせめて嫁に貰ってくれない?」
「……あー、そっちの趣味なのか? だったら、お母様に言えば好きなだけ着飾らせてくれると思うぞ?」
ブランシェは若干引いている。どうやら女装趣味があると思われたらしい。
「いやいや、別に俺がお姫様になりたいわけじゃなくて……本当なら俺だってかっこよくブランシェを口説きたいけど……かっこ悪いならかっこ悪いなりにかっこいいブランシェに護られようかと」
ラファが言うと、ブランシェは深い溜息を吐く。
血のように赤い瞳にはどこか憐れみさえ見えた。
「情けない……間違ってもカルンシュテイン一族には受け入れられんな」
「なっ……」
「剣を取れ。戦え。武勲を立てろ。戦功こそカルンシュテインの誇りだ。なのにお前ときたら……音楽だの、詩だの……情けない。細っこいし、弱いし……もっと男らしくしろ」
「ブランシェが男らしいから俺まで男らしくなったらちょっとむさ苦しいかなと」
冗談で口にしたのだが、ブランシェの反応を見て後悔する。
ぎろりと睨む瞳は、今にもラファを殺しそうだ。
「ふざけるな。このままじゃ私のほうが先に嫁を貰いそうだ。女に求婚される気持ちがお前に分かるか? ついに侯爵令嬢にまで求婚されたぞ」
ブランシェは苛立っている。
「いや、それはそれだけブランシェが魅力的だってことだから」
「ラファが女みたいだからいけないんだ。黙っていれば美しいのに……弱くて情けないから令嬢たちに友人程度の扱いを受けるんだ。お前がさっさと嫁を取らないと私も安心できないだろうが」
「俺はブランシェ以外の女に興味ないもん」
「もんとか言うな。気持ち悪い」
ブランシェは相当苛立っている。母親によく似た鋭い眼で、ラファを睨むと、すれ違った使用人の持っていたグラスを奪い取って飲み干す。
「……んがっ……おい、これ、腐ってないか?」
「老婆の血です」
「……くそっ、処女の血はないのか」
ブランシェは不満そうにそう言って、ラファの手を掴んだ。
「ブランシェ?」
「もう、お前でもいい。口直しさせろ」
「いやいやいや、おかしいって。俺、喰っても美味しくないから! 痛いの本当に無理だから……」
大体ブランシェ、男の血はまずいから嫌いだっていつも言っているでしょと言えば、ハッとした顔をされる。
「そういえば、お前、生物学上は男だったな」
「え?」
「あんまり弱いんでお嬢さんかと思った」
ブランシェは意地悪い笑みを浮かべて言う。
からかっただけかと気付くのに少し時間が掛かった。
そうだ、ブランシェは昔からラファをからかうのが好きだった。
それは、夢を叶えたブランシェも、同じだ。
もう、かつての凛々しい面影は無い。いつもとろんと夢を見ているような表情で、煙草を吸っているブランシェは、いつだって少しだるそうに話す。
八本の腕のうち、二本は煙草のために、四本は本をめくるために、そして二本はペンを持つために使われて、眠たそうな目の変わりに、額にある赤い玉が目の役割をするようになった。
この八本の腕と赤い額の目は、ブランシェが自分の魔力で作り出した、理想の姿だという。
大きなふかふかの椅子に体を沈めて、一日中煙草を吸いながら、さまざまな文献に目を通し、王宮からの依頼である翻訳作業を続けている。
もう、あの強くて凛々しいブランシェは居ない。
ただ、幼い少女のような声で、純粋な疑問をぶつけてくる彼女は、ラファの知る王子様のようなブランシェではなく、幼い日に出会った、なんでも叶えてあげたくなる可愛らしいブランシェだ。
「どうしてラファを外に出さなきゃいけないの? この馬鹿は使い物にならないじゃない。チャールズの方が適任じゃないかしら」
眠たそうな声で、ブランシェは国王の使者に言う。
ラファを徴兵に来た彼に、ブランシェは心底理解できないという表情で言う。
まだ、ラファを護ろうとしてくれているのだ。
「カルンシュテイン伯爵、一家一人は必ずと王の命です」
「だったら、私に声をかけるべきじゃない? だって、ラファは弱いもの。私のほうが戦えるわ」
ブランシェはそう言ってふぅっと使者に煙を噴きかける。ブランシェの煙草の煙は、淡い赤紫色で、強い幻覚作用があるようだった。
「お前は役目を果たしたわ。さっさと王宮にお帰り」
眠そうなブランシェの声は、きっと彼に都合のいい幻覚を見せたのだろう。王の使者はふらふらと出口に向かっていく。
「ブランシェ。俺、行くよ」
「お前、行ったところで役立たずだ。お前が戦に出たら国が滅びるほど足手纏いになるわ」
ブランシェはそう言って大きなあくびをする。
彼女はもう、何ヶ月も眠っていない。
本来純血の翼手であるブランシェは、眠りを必要としないけれど、彼女の一族は奇病のせいで長い長い眠りを必要とする。それでも、ブランシェは眠りと戦う道を選んだ。
そして。いつも煙草を手放さない。
眠ってしまうと、ラファを護れなくなる。
いつだったか、ブランシェがそういったのを聞いた。
ラファはいつもブランシェに護られている。
ブランシェは、ずっとラファの王子様でいようとしている。
「ブランシェは、少しくらい休んだっていいんだよ。君が眠っても、俺は、ずっと傍に居るから」
「お前、馬鹿なの? 私の監視意外にも仕事があるだろうに」
ブランシェは心底驚いたという表情でラファを見る。
「監視とかじゃなくて、君の傍にいたいんだ」
ブランシェが、本当は寂しがりやなことは誰よりも知っている。
沢山、弟が居るせいで、ブランシェは不満だった。頑張っても頑張っても幼い弟が泣き出せば、大好きな母親の目は弟に向いてしまう。だから一層頑張った。けれど、頑張れなくなってしまった。
それでも、ブランシェはまだ、ラファの英雄でいようとしてくれる。
だからせめて、疲れた彼女を癒せる存在でありたいと願う。
「他の誰がなんと言おうと、俺はずっと君を愛してるよ」
「愛とかつまらない。そんな暇あるなら、新しい難問を持ってきて頂戴。これ、解き終わっちゃったわ」
そう言って本を投げ飛ばされる。
どうやら異国のパズルの本だったらしい。
「……これ、解いたら賞金出るヤツじゃなかったっけ?」
「興味ない。欲しかったらお前が貰って来たら? ああ、それと、こないだの交響曲、直しておいたわ」
ブランシェはそう言って別の手で紙の束を差し出す。
「……ありがとう。ほんっと、多才っていうか、頭使いすぎ」
そのうち本当にブランシェが壊れるのではないかと心配になるほど、彼女は同時にさまざまなことをこなしてしまう。頭は一つしかないのだ。もっと大事に使って欲しい。
「常に頭を働かせていないと、眠くなっちゃうじゃない」
ブランシェはそう言って、また、大きなあくびをする。
もう、限界も近いだろうに、彼女は無理に起きていようとする。
「たまには、俺と一緒に眠らない?」
そう、誘うと、ぎろりと睨まれてしまう。
「嫌よ。お前の寝言、耳鳴りみたいな音だもの」
不快そうに言うブランシェに驚く。
「あれ? 俺の寝言聞いたことあるの?」
そう訊ねれば、ブランシェは聞こえない不利を決め込んだようだった。眠たそうな目で、もう既に擦り切れた本を眺める。既に暗唱できるその本を、彼女は何度も何度も開く。
初めて会った日に、彼女が開いていた異国の童話の本。
そして、芋虫になりたいというおかしな願いを持っていた。
あの、気取っていて、少し拗ねた少女は、やっぱり、素直で優しくて、今も少しも変らない。
「俺は、なにがあっても、ずっと君のことが好きだから」
そう言っても、ブランシェは聞こえないふりをする。けれども、微かに耳が赤く染まる。
素直じゃないように振舞っていても結局は根は素直ないい子なのだ。
もしかすると、ラファとブランシェは、凄く奇妙な関係に見えるかもしれない。
けれども、ラファは今の関係に満足している。
昔よりも、ブランシェとの距離が近付いた。近づけるなら、もっと近付きたいけれど、そうすると、ブランシェのほうが遠ざかってしまう。今の距離が一番いいのだ。
手を伸ばせば届く距離に憧れの王子様が居る。
そう思うだけで、ラファは今、満たされている。