歩き慣れた帰り道に幾重もの靴音を刻ませて、男が黙々と歩みを重ねていた。会社から駅へと繋がる、いつものアスファルト。電車に乗るため、彼は駅ビルへと続く曲がり角に、疲労した身体を進めた。
『…………?』
曲がる場所を間違えたのか。彼の前に知らない風景が広がり、足が―― 止まる。
(……このまま進むと、知らない世界になったりして、な)
仕事疲れの影響は、帰巣本能にさえ勝るのか。そんなふうに思いを巡らせた彼だったが、どこか胸の高鳴りを覚えて、そのまま歩いた。が、すぐに見慣れた場所へと出てしまう。
『ふっ、そんなわけないよな』
彼はつまらなさそうに呟いた。そんな自分に驚きつつ、駅へと階段を降り、電車に乗り込む。心地良く揺れる車内はいつもと同じく、通勤帰りの人々で混雑の極みにあった。
(くっ‥やはり、変わらないよな)
元来、夢想の気があったのかもしれない。彼は曲がり角を間違えた、たったそれだけの出来事で、これまで見知った世界が変わっているんじゃないか、そう思い始めていた。
身体の前後左右が塞がれ、身動き一つ取れない。あまりにも人が多過ぎる。その中で彼は自由な部位、頭の内部で変わるべきだと、そう思い込もうとしていた。
(そうさ、きっと何か変わっているはず。私の知らない何かが……)
繰り返される日常。平凡という名の日々。波乱万丈とはいわない。学業から脱却する前に夢見た社会は、こんな灰色の景色ではなかった。望んだ世界は、明るい色彩によって輝いているはずだったのだ。
そう、今からでも遅くない―― 気がつけばいい。
変化の二文字を期待する思いが、彼の脳内に満ちていく。
しかし期待は空しく終わった。帰宅した彼を待っていたのは、いつもと変わらない妻と、見飽きたリビングだった。
壁際に設置されたダッシューボード。その上に飾られた写真の中で、彼は少年のように闊達な瞳で、彼に視線を投げかけていた。
翌日、会社に行っても何も変わらない日常は続いた。昼休み、社員食堂のガラスケースに並ぶ、A定食かB定食か、それだけの味気ない選択。
何かないか。何か起きていないか。彼は変わったものがあるはずだと信じ、懸命にあらゆるものを注意深く観察した。行き帰りの道中に限らず、就業する会社の中。訪問した取引先。とにかく変わったものを知りたいと、探求し続けた。
そんな調子で一週間という暦が流れたが、何も変わったところは無く、疲労だけが重なっていった。
帰宅してから『何か変わったことは無かったか』と、尋ねてみる。しかし妻は簡潔に『別に変わらないわよ』と、平凡な答えを返すばかり。
(やはり、変わらないのか……)
毎日が同じというのは、一見すると平和で穏やかである。しかし退屈で好奇心が腐っていく感触がまとわりついた。彼は何とか日常で変わったことがあるはずだと、今まで以上に注意を怠らないようになった。
(そうさ、明日には何かが変わっているかもしれん)
彼は気づいていただろうか? 変貌という名の影が足元から忍びより、雨水が巨石を穿つように、彼を浸食していたことを……
彼は家の門に着くと習慣になっている行動を取った。玄関の扉を期待を込めて開ける。ゆっくりと、ゆっくりとドアノブを回し、先の空間を凝視する。
――無い。何故、変わっていないのか!?
眉間の皺が深く刻まれる。落ち込む眼球は、窪みの中に更なる陰影を宿した。
『なあ、今日も変わったところは……無かったかい』
妻に質問する彼の声には、張りも艶も無くなっている。
『…………』
『何だよ、何か……見つかったのか』
妻は答えなかった。悲しみの表情を湛え、ただ夫を見ていた。そんな妻が示した態度の意味も分からず、彼は震える声を荒らげた。
『何だ一体! 何が変わったんだ、おい!』
妻は目を細めて泣きそうな顔になりながら、ダッシュボードに置かれた写真立てを指差した。
そこには――
――そこには未来を胸馳せ、気宇闊達な瞳で彼を見つめる……
かっての彼の姿が佇んでいた。
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