奴隷のちスラ婚
※ヒロインの生い立ちに軽い残酷描写が含まれていますので、苦手な方はご注意ください。
ショウコウの月、クミリアの日、シンコルの刻に、私はジモティの国のこじんまりした商家の一人娘として生を受けた。
両親は遅くに生まれた私をとても愛してくれて、つつましくも何不自由ない幸せな毎日を送っていた。
だけど、そんな私が十六の成人を迎えて間もなく、悲劇と呼ばれて差し支えない凄惨な出来事が起こってしまう。
生来のお人好しだった父が詐欺師に騙されて莫大な借金を抱えてしまい、それまで住んでいた家は差し押さえられて、私は奴隷になってしまった。
何としてでもお金を集めてくると言って出て行ったきり戻らなかった父がどうなったのかは分からないけれど、母は唐突に押しかけてきた詐欺師とその仲間に陵辱され、生きたままあちこち切り開かれて無残に殺された。
目の前で繰り広げられる残虐な行為に私が暴れ泣き喚いても、目立たない場所を強く殴ったり蹴られたりして軽く血を吐く程度の被害で済んだのは、奴隷商になるべく高く買い取って貰わないといけなかったかららしい。
そうして、奴隷の身に落とされて数日。
薄暗い牢屋の中で昼夜問わず泣き暮らしていた私を買ってくれた人間は、上等な衣服を身に纏った育ちの良さそうな貴族の若君だった。
手続きが終わった際に、よろしくと笑いかけてくれて、優しい人なんだと、頑張って働こうと、思ってしまった自分がバカだった。
その時の私は、彼に選ばれたことを幸運だと信じてやまなかったのだ。
どんなに穏やかそうに見えても、彼の目はちっとも笑ってやしなかったというのに……。
屋敷に到着してまず最初に、両足の腱を切られ喉を潰された。
逃げられないように、ということらしい。
あぁ、地獄には底がないんだと、そんな現実をここに来てようやく知った。
いかなる場所でも服を着ることは認められず、床に落とされた主人の残飯を獣のように這いつくばって食べることを強要され、ことある毎に理不尽に踏みつけられては雑巾以下の存在だと罵られ、女としての尊厳も主人どころか特殊な薬品で狂わされたというハイエナ型のモンスターに踏み躙られた。
当然だが、日々心身共に痛めつけられ続けた私は、見る間に衰弱していった。
動けなくなった私を無感動な目で眺めながら、むしろ保った方だなんて溢していたのは、いったい誰だったか。
いよいよ命が尽きかけようとしていた時、そのボロボロ状態のまま、私はまたどこかの奴隷商に売られてしまったようだった。
借金をした本人は窃盗犯などと同様に犯罪奴隷として扱われることが多いけれど、私のような直接的に罪を犯したわけではない間接借金奴隷が死んだ場合、持ち主は国に届け出をして、更にお金を払って死体を処分しないといけない、なんて法律があったように記憶している。
だから、その手間を面倒くさがって、ギリギリ死ぬ前に手放すことにしたんじゃないかと思えた。
そして、そこは最初に私を引き取った奴隷商よりも、もっとずっと性質の悪いお店のようだった。
元主人のように暴力こそ振るってこないけれど、一日一度カビたパンでも与えられれば良い方で、水すらろくに貰えないのが当たり前の、みんながみんな死を待つばかりの場所だった。
実際に奴隷を売るつもりはなくて、面倒ごとを嫌う貴族専用の死体処分場のようなものなのかもしれない。
そもそも、パンを与えられたところで、それを食べる程度の体力すら残っていない者がほとんどだったのだから、推して知るべしというものだろう。
毎日、毎日、沢山の奴隷が死んだ。
私もまた、彼らと同様に無気力に地に伏し終わりが訪れる時を待っていたのだけれど、驚いたことに、こんな屍同然の人間に新たな買い手がついたようだった。
藁に巻かれ運ばれている中で聞こえてきた話によれば、私はどこかの村のどこかの森を守護する竜様の生贄にされるらしい。
それは、このまま無為に死を迎えるよりは、少しはマトモな死に方かもしれないなと思った。
竜様の元へ辿り着くまでに、きちんと生きた贄でいられる自信はなかったけれど、まぁ、死んだら死んだで、多分、村の人も気にはしないんじゃないだろうか。
あそこの奴隷はタダ同然の値段だから、どうしても生きているのが良ければ買い直せばいいだけの話で、面倒臭さはあっても困りはしないはずだ。
でも、もし本当に竜様に生贄として捧げられたのならば、こんな蛆虫以下の女でも、最期だけは人間らしい誇りを抱いて逝けるんじゃないかと、そんな気がした。
生きて、食べられたいと、そう強く願い続けたおかげか、森の祭壇へ運ばれるまでの数日、何とか命を保つことができた。
途中、もしかしたら竜様じゃなくてもっと別の、特にハイエナのモンスターが出てきたらどうしようなんて考えて怖気付きそうになったけれど、その妄想は杞憂に終わる。
村人が去ってしばらく、祭壇に現れた竜様は、赤くて、大きくて、きれいな金色の瞳をしていた。
こんな偉大な生物の糧になれるのなら、悪くない人生だったと、最期に自分を誤魔化すことくらいはしても良いんじゃないだろうか。
なんて、糧になれるほどの肉もついていないのだけれど。
それでも、残さず食べてくれたらいい、なんて畏れ多い希望を抱きながら、私は道中ずっと落ちよう落ちようとしていた瞼に我慢を強いることを止めた。
ふと目が覚める。
働かない思考のまま霞む視線を少しずらせば、すぐ傍に透明の何かが鎮座していた。
ボデュプリンゲルだ。
おそらく立った私の腰くらいまではありそうな凄く大きな楕円の……俗にスライムと呼ばれるモンスターが、私の数センチ隣にじっと腰を落ち着けていた。
もちろん怖いと思ったし、すぐにでも逃げ出したかったけれど、瀕死の状態にあるこの身体では、精々目元をピクリと動かすことくらいしか出来なかった。
そもそも、こうして再び目覚めたという事実ひとつだけを取っても、奇跡に近いことだと思う。
私が意識を取り戻したからか、スライムは緩慢な動作で身体の一部を伸ばし、私の口に何かの液を垂らしてくる。
恐ろしいが、避けるだけの体力がない。
ポタリポタリと薄く開いた口内に流されたソレが舌を撫でれば、爽やかな甘みが通り抜けた。
……この味を、私は知っている。
でも、いったい何の味だったか。
確か、遠い昔に、そう、まだ両親がいて、自分の未来が幸せなものだと信じて疑わなかったあの平和な時代に、何度か父が買ってきてくれた、赤い……。
あぁ、そうだ。リンゴだ。
害のあるものではなさそうだと、ひとまず安堵の感情が胸に広がる。
けれど、どうしてこのスライムは、私にリンゴの液なんか与えているのだろう。
そもそも、竜様はどこにいってしまった。
食べられもせず、なぜ私は生きている。
それとも、全ては死の間際に見ていた夢だったりするのだろうか。
だとすれば、いつ、どこから?
あぁ、でも、今は、全部全部、どうでもいい。
リンゴ。
リンゴ、おいしい……な。
ワケの分からない邂逅から、早いもので数週間が経過した。
いつも夢と現を行ったり来たりしていたから、本当はもっと沢山の時間が流れているのかもしれないけれど、とりあえず体感でそのくらいの期間をスライムにかいがいしく世話されながら過ごした。
おそらくここは樹のウロの中で、出入り口にもなっている穴から他の木が見えないことから、何千年と時を刻んできた立派な樹の上層部に当たる場所なんじゃないかと勝手に想像している。
スライムは食料を採りに行く時と私に食事を摂らせる時以外は、いつも身体の下に潜り込んでベッド代わりになっていた。
それがまた、元の実家で使っていたものより数段気持ちが良くて、たまにマッサージみたいに腕や足を包んで順繰りに圧をかけられたりすると、体がぽかぽかと温まって、同時に心もとても安らいで、幸せな気分で眠りにつくことが出来た。
糞尿は残念ながら垂れ流しというか、出たハシからスライムが体内に取り込んで分解している。
ただ、前の主人に自分の物は自分で片付けろと食べさせられていたことを思えば、この程度は私にとって、すでに恥ずかしがることですらない。
起きている時間が少しずつ長くなってきた辺りで、急に全身を透明の体内に取り込まれたときは、ついに死ぬのかと覚悟を決めたものだ。
でも、いつまで経っても、私の肉体が糞尿のように分解されていくことはなかった。
今では三日に一度の割合で行われているその行為が、終わって数時間はいつもより少し肌寒く感じるところから、表面に付着している垢だとか、そういった汚かったり不要だったりするものを処理してくれているのかもしれないと思った。
あと、私が寒がっていると、いつもスライムが体温をちょうど良い具合に上げてくれるから、それで体調を崩したということはない。
ボデュプリンゲルという種族が変温生物であったという話は聞いたことがないから、恐らくモンスター特有の魔法を使っているんじゃあないかと考えている。
まぁ、すこぶる快適なのだから、理屈なんてこの際どうでもいいかな。
現実に比べたわけじゃないからハッキリとは分からないけれど、未だ骨ばかりのガリガリの身体はともかく、肌の状態だけを見れば、実家にいた時よりもキレイなんじゃないかと思えた。
最近は食べる量も増えてきたせいか、髪の毛なんか艶が出てきているくらいだ。
山の中に捨てられた赤ん坊を猫のモンスターが拾って育てる猫少女というタイトルの本を読んだことがあるけれど、その流れからすると、私はスライム少女と呼ばれることになるのだろうか。
想像して、それも悪くないかもしれない、なんて思った自分がちょっとおかしかった。
喉が潰されているからスライムと一緒で話せないし、足の腱が切られているからスライムと一緒で地面を這いずることしかできない。
だから、そんな私にお似合いの名のように思えたのだ。
まぁ、よくよく考えれば、こんなに立派に育ったスライムが私のように無能者なわけがないんだから、まったく失礼な話だったのだけれど。
スライムの献身的な介護のおかげで、やがて私は自分でウロの中を這って動き回れるぐらい元気になっていた。
また、その頃には、ほんの少しだけこの稀有な存在と意思の疎通が図れるようになっていた。
透明で弾力のある体にポンと一度触れれば了解だとか、肯定の意味。
同じくポンポンと二度触れれば、何か伝えたいことがあって、これからジェスチャーをしますよという意味。
手早くポポポンと三度触れれば、違うとか、拒否の意味だ。
他のスライムより長く生きているからなのか分からないけれど、彼もしくは彼女は、見た目にそぐわないかなり高い知能を有しているようだった。
もちろん、彼がモンスターだとか何とか、そういった恐怖はとっくの昔に克服している。
むしろ、動けない自分をここまで回復させてくれた恩スライムを怖がる意味が分からないと思う。
現実には、前の主人のような人間の皮を被った悪魔だっているのだ。
心の在り様に種族なんか関係ないんだってことを、私はこのモンスターの形をした天使から教えられた。
スライムと暮らす毎日はとても……とても穏やかだった。
そうして、ぬるま湯のような生活に浸りきっていたある日。
私たちの前に、いつかに見た赤い竜様が姿を現した。
竜様は、しばらくスライムに向かってグルグル鳴いていたけれど、どうも威嚇というよりは会話をしているように見えたので、私はウロの端にもたれ掛かった状態で首を傾げながら二体の動向を窺っていた。
それが終わったかと思うと、竜様は、次に私の方へ首をもたげて話しかけてきた。
は な し か け て き た。
ビックリした。
竜様は本当に偉い竜様だったらしく、私の頭に直接自身の言葉を送り届ける不思議な術を持っていらっしゃった。
そうしてお話を伺ったところによれば、あの日、私が気を失った直後にスライムが現れて、助けて生き延びたら妻にするから譲ってくださいと乞われたそうで、それならどうぞどうぞとあっさり譲って、今ここにいるのは結果がどうなったのか気になったから見にきた、ということらしい。
森の調和は元々のお仕事で、人を食べる必要はないのだけれど、毎年の生贄については相手から言い出したことだし、まぁ貰えるものは貰っておこうという程度のことだったから、譲渡するに特に問題はなかったとのこと。
あと、このスライムは森の中でも結構な実力者で、なのに驕らなくて弱い者に寛容なところが竜様のお気に入りなんだって。
しかし…………そうかぁ。
私、いつの間にかスライムの奥さんになっていたのか。
衝撃の事実……のはずなのに、驚くほど簡単にその立場を受け入れている自分がいた。
助けられた刷り込みもあるのかもしれないけど、優しくて、暖かくて、本当に満ち足りた日々を送っていたから、人の世界に戻されるより絶対こっちの方が幸せに生きていけるだろうって心からそう思ったから、嫌だなんて気持ちはちっとも浮かばなかった。
むしろ、少しは好かれてたのかなって嬉しくなったくらい。
穏やかすぎる時の流れの中で、ふいに過去の揺り返しが来て精神が不安定になって自殺に走りたくなった時もあったけど、そんな時はスライムに飛び込んで全身まんべんなく揉まれている内に落ち着くことができた。
多分、そんなの、彼以外の他の誰にだって出来やしないから、やっぱり私は種族がボデュプリンゲルだからなんてバカみたいな理由で妻になることを拒否して、彼から離れるべきじゃあないのだろうと思う。
奥さんともなれば、いずれは夜のお勤めを果たさなきゃいけなくなるのかもしれないけれど、極論、あの行為自体にはもう慣れているし、あそこで強要されていたほど酷い真似をおそらく彼はしないだろうから、まぁ、大丈夫だろうと楽観視している。
逆に、私が純潔な花嫁じゃあなくて、すごく申し訳ない気分にもなった。
顛末を聞いても私が彼を拒否する様子を見せなかったせいか、竜様は結婚祝いにと一口食せば十年は寿命が延びると人の世で言い伝えられている幻想桃をその木ごと一本置いてから、満足そうに飛び去っていった。
そんな桃の木の存在が、ただでさえ驚きの連続の今日という日において、最高のビックリだったことは言うまでもない。
竜様が消えた空とウロの中に無造作に横たわる木とを交互に見ながら、潰された喉からおーおーと汚い音を出して落ち着かない気持ちを表現していると、いつもよりもずっと緩慢な動作でスライム……旦那様が近付いてきた。
彼は、あともう数センチで私に触れるという位置で動きを止めて、じっとこちらを見つめているような気配を出してくる。
何を伝えたいのか分からなくて、首を傾げて意を示そうとしたところで、ふと、確信めいた推測が頭を巡った。
きっと、これは彼なりの最終警告なのだ。
本当に自分のようなモンスターの妻になっていいのかと、嫌だと思っているなら、人の世に戻りたければ今ならまだ戻してやれると、そう言ってくれているのだろう。
旦那様の優しさに、自然と笑みがこぼれる。
あー、と相変わらずのダミ声を出しながら、私は彼に向かって手を伸ばし、ポンと一度その透明の身体に触れた。
聡い旦那様のことだから、これで私の気持ちは届いただろう。
すると、彼は間もなく地面近くから順繰りに全身を細かく震わせて、それから、まるで子どもが親に抱きつこうとでもしているような様子でグイグイと身を寄せてきた。
そんな旦那様の行動に、胸の内から染み入るような愛しさが込み上げてくる。
込み上げてきて、あぁ、ちゃんと、好きなんだな、と思った。
ポヨポヨといつでも触り心地の良い身体に両腕を伸ばして抱きしめ返す。
あぁ…………愛しい。
泣きたくなるくらいの幸せな時間がそこにあった。
目の前のこのボデュプリンゲルは、今、私と同じ気持ちでいてくれているだろうか。
降ってわいたような幸運に、夢ならどうか覚めてくれるなと強く願いながら、私はその日、いつまでもいつまでもスライムな旦那様を抱きしめ続けていた。
おしまい。