ブルー・マジック・バード(25/44)PDFで表示縦書き表示RDF


ブルー・マジック・バード
作:やおたかき



第四章 はるかなるもの・6


 冬の富士山登山は、死にに行くようなもの――とよく言われる。
 それを今、体の芯から理解させられている。深い秋空のもと、探検三日目。――えんえんと歩いた。いや、動いた。
 地獄の行進だった。水と薪を背負ったうえ、この大斜面。地面がざらざらとして滑りやすく、登ってはずり落ち、ずり落ちてはさらにずり落ちた。ピッケルを持ってこなかったことを、このときほど悔やんだことはない。そのうえ絶えず強い冷風が吹き付け、ときおりそれに砂粒が混じる。これが顔面を襲った。俺らはサングラスをかけ、カッコ悪いけどタオルを顔に巻き、さらに着られるものをすべて着て耐えた。
「富士山の土って、赤っぽいのね! てっきり、青い色してるんだとばかり思ってた……」
 さすがのセイレンも荒い息を吐いている。俺は、気息奄々となりながらも答えた。
「――多分、空が青い理屈と、同じなんだと思う。……台風一過の、空気が、澄んでいるときは、遠くからでも、ちゃんと土色に、見えるから」
「思うのだけど――ユダちゃんって、妙にマメに説明してくれるのよね。ソンな性格!」
「言ってろ。……ソンしてトク取れって言ってね。――いいんだよ」
 言ってる途中でしまったと思ったのだが──やはりアリアは聞き逃してくれなかった。
「あらあ、トクって、なにかしら?」
 わざわざ足を止めてまでして訊いてくる。
「いや、その……」
「親身に説明してくれて、ボク、ユダに感謝してんのよ。この見返りは、なにがいいかしら……」
「ああ、もうかんべんしてくれ」
 集中力が切れた。足元が崩れた。あっと思ったときにはもう、滑り落ちている。ずるずるずる! 手をついても止まらない。――ああう、せっかく半時間かけて登った十五メートル!
 アリアと静が、足場を確保してからザイルを垂らした。あの二人が、二人がかりで慎重に引っ張り上げる。アリアは意地悪くニヤニヤした。
「なるほどよくわかった! ソンしてからのトクって、このことね? わざわざ実演してくれるなんて、ユダったら、ホント親切なんだから!」
「……俺は、そーゆー性格をしているらしいからな」
 そばまで引き上げられて、俺、逃げられない。やれることと言ったら、長いため息をつくことだけだった。

         ※

 遠目にはなだらかな大斜面世界にも、実際には崖や窪地が点在する。
 出発から八時間。風を遮る壁がある棚地に、テントを張った。今日は時間を計算してから出発したので、メシを食ったらあとは寝るだけだ。三日で、俺達も少しは利口になったもんである。
 中で横になり、ランプの明かりで気圧計を確認する。ノートの記録を見る。出発地点は九百八十メートルだったから、計算すると、現地点は標高千四百メートルほどとなった。つまり高度差たったの四百二十メートルを、じりじりと一日かけて登ったことになる、んだなぁ……。何度計算しても、そうなる。事実は動かせない。人跡未踏に意味があり、高度はさほど気にしていなかったとは言え――これはちょっと、あんまりだろう。
 この千四百メートルというのは、十万メートルの、一・四パーセントにあたる。ああ、たったの一・四! わかりやすく富士山を、長さ一メートルの丸棒としてみると、まず、直径は六センチ。そして高度一・四パーセントは、そのまま一・四センチだった。
「……」
 ついでに人の身長は、十万分の一だから、〇・〇一八ミリ。俺は右手をかざす。人差し指と親指の爪先でその隙間を作ろうとして――途中であほらしくなってやめた。
「斜面の角度って、どれくらいあるの……?」
 セイレンのアリアが、うつろな声を出す。とにかく、答えるのは俺の役目だ。
「今いるここらへんだと、約四〇度かな……」
「……」
 くそだらーだよ、というノリの静の、弱々しい呟きが聞こえた。――くそだらあ? 俺は気を取り直すと話を続けた。
「探検初日に話した気象観測所のこと、憶えてる? それが建築されている標高三千メートル辺りになると、平均斜度は六十度になるんだ。いつだったか、雑誌の紹介写真で見たけど、そこはもう、円筒側壁部と言ってしまっていいくらいだったよ。建物は重心を極力外に出さないようにするため、厚みがない。その代わり、横へ横へと広がって容積を稼いでいる。もう山壁にへばりつくように建てられているんだ。気象観測官の悲壮感がただよって、おもわず涙がこぼれたね。……建設初期のころ、作業者が富士山に、なんて渾名付けたか思いつくかい? なんと、バベルの塔だってさ! はは!
 斜度六十度ていうのは、とにかく危ない。滑る。転ぶ。そしたら、もう自力では止められない。そんな角度なんだ。落下と同じなんだ。下まで転げ落ちて、行くとこまで行って、はじめて自分が生きていることに気づく。もちろん、運がよかったらの話だけど。たいていの場合は、ぼろぼろにされて、肉塊になって死んじまう……」
「……」
 静が喉の奥で低く唸った。アリアが、なんか、もう諦めたような口調で訊いてくる。
「いままで――チャレンジャーは、何人もいたんでしょう、もちろん? レコードはどれくらいなの?」
 俺、上半身をがばりと起こす。
「待ってたよ、その質問!」
 はたからみたら、俺の顔、興奮で輝いて見えたに違いない。二人とも、あっけにとられている。でもこれは、それほどの話題だった。
「今から二十年前の記録なんだけど――二十歳の天才クライマーがいたんだ。不世出の登山家と謳われた、単独行の貴公子・加藤文太郎その人さ! この文太郎が打ち立てた記録が、それだ!
 富士山南壁――
 到達高度、『八千九百九十九メートル』! ああ――!」
 興奮をどうすることもできない! 彼は文字通り永遠のヒーローなのだ。
「彼はそこで力尽き――落下した。
 体は粉々になり、富士山の土と化した……。一体となったんだ!
 ──
 この記録はいまだ破られていない。……まあ当分のあいだ、彼を超える人物は、出てこないだろうなぁ!」
 二人ともいくぶん呆れた顔で俺を見つめている。だがその表情はまじめだった。
「ソイツ何者? 『ボクら』だって、到底マネできない!」
「特別な人じゃない。フツーの人だよ。――ただ、特別なことをやったんだ」
「神人を超える人――超神だわ」
「同感だね……!」
 満足だった。身を横たえた。そのまま一回敬礼する。
 文太郎に敬意を表して、今日は勝者なし……。その夜はそれ以上誰も口をきかず、早々に眠りに入った。

         ※

 探検四日目、朝、日の出前。やっぱり静が先に起きていた。別に競争しているわけではないのだが、どうも敵わない。──そういえばヤツ、プロの農家だったっけか? 関係ないか。
 猛烈に冷え込んでいた。しぶしぶ外に出ると幸いなことに、風は止んでいる。一人たたずみ、空を見上げていた静が、上を見て、と声をかけてきた。見た。そして絶句した。
 富士山の雪の『腹巻』の下の端が、すぐそこ、標高およそ二千メートル辺りにまで下って来ている。これを雪明かりと言うのだろうか、いやにくっきりと目に映っていた。
 腹巻は、昨日はそれでもまだかなり上の位置にあったのだ。それが一夜のうちに、まるで手でも届きそうな位置にまで下って来ている。まったく思ってもみなかった事態だ。
「ちょっと、時期が遅すぎたんだなぁ……」
 静がまた、一昨日の朝と同じようなコメントをした。

 静はアリアに、これ以上の登山は断念すべきだと進言した。一応アリアが隊長 <リーダー> であるからだ。
 普通、隊長の権限は絶対で、独裁が認められている。山での民主主義は、どうしても行け行け <イケイケ> の意見が多数を占めてしまい、結果命の危機に陥るケースが多いからだ。
 そのため、隊長は経験豊富なベテランの山屋がなる。が、アリアは南国の海の娘――
 というわけで、これは当然の申し出だった。未練を残しているように見えたがアリアだったが、ゴネることなく首を縦に振った。彼女も、隊長として最悪のケースを考えていたのかもしれない。
 俺は、セイレンとノリの二人だけならまだ行けるのではないかと、一応発言した。アリアに即、却下された。静も無謀だと答えた。何しろ装備が貧弱だ、自分も寒いのは寒いのだ、と彼は説明した。
「もう登らない……!」
 アリアが一度こっちを睨み付けると、念を押すように、はっきりと宣言した。──わかったから、睨まんでいいよ。

 日程に二日ほど余裕ができた。ルートが再検討される。
 確かに寒くはなったが、天候には恵まれていた。今日も上天気である。体を動かすと、十分に暖かい。そういうわけで、高度を落とさず、少し北の方へ足を伸ばしてみることになった。
 斜面にも慣れ、急激なアップダウンもなかったので、前日と比べると行進は楽園 <パラダイス> ように楽だった。また三四郎の筋肉痛は、そのつどその道の最高権威のお二人が揉みほぐしてくれるので、すこぶるラクチンだったと言えよう。──うらやましいだろう?

 ここは、影の国である。昼前にその影に包まれた。三人は喝采を上げた!
 そのうちに、アリアと静が騒ぎはじめた。
「見える! あそこ、星!」
「ええ――!?」
 驚いて見上げると――俺の目には、ただの青空だった。
 ……うーん。天頂の柱のそばに、かすかに、それらしき光点があるような、気のせいのような……?
「――ちぇ。こういうときは、お前らのその力が、うらやましくなる」
「ユーダ! 『噛んで』あげよっか? ボクとノーリと、『どっち』がお好み?」
「ば、ばか言ってら!」
 モロにスキを突かれた。――うわあ、耳の先まで熱い!
「それとも、いっぺんに両方イってみる!? うふふ! ユダの助平!」
「ふ、ふざけろ! わあっ」
 笑い声が影の国に広がる――

         ※

 清涼な空気だった。なぜか、急に、誰も知らない不思議の国に、やって来たのだ、という感慨に襲われる。
 影の国から見る空は、心なしかより深く見えた。柱は、上側およそ五分の四が、薄い空色に溶けている。言うなれば、真昼の月色だ。そこが、もう宇宙なのだ! その距離は、手は届かずとも、声は届きそうだった――
 我知らず、三四郎は朗々と歌い出していた。それは、星めぐりの歌だった。

「あかいめだまの さそり
 ひろげた鷲の  つばさ
 あをいめだまの 小いぬ
 ひかりのへびの とぐろ
 オリオンは高く うたひ
 つゆとしもとを おとす――」

 詩は、宮澤賢治。曲は即興だ。そして──
 ああテノール。俺の、テノール。存分に心から発声した。鳥になった気分だった。満ち足りた浮遊感があった。

 歌い終わると、少し間を置いてから、今度は静が歌い出した。

「アンドロメダの くもは
 さかなのくちの かたち
 大ぐまのあしを きたに
 五つのばした  ところ
 小熊のひたひの うへは
 そらのめぐりの めあて──」

 静も即興! 軽やかに、艶やかに──

 ああ、いいな。素直に思った。
 歌は、人の生活と共にあったと思うんだ。例えば喜び、例えば悲しみ。そして、慰みとか、励み。さらには憎しみ、許し、慈しみ……。その心に乗せる歌があった。生、そのものだと思う。
 だから、友と『歌』を競うのはいいのだ。ときに、共感も生まれよう。そこで――『喉』の優劣を争うのは、愚かというものではないだろうか。
 ああ俺は、今まで何に囚われていたのだろう。
 気持ちが透き通っていく――

「ボクの出る幕がなかったなー」
 アリアがそれだけを笑顔で言った。

         ※

 柱の真北で足を止めた。振り仰ぐと、気象観測所が小さく見える。通称、北方館。別名、多聞天ハウス。(ついでに、東方館は持国天ハウスである。以下同様だ。いちいち言わない。――まったく、ネーミング者のセンスを疑ってしまうというものだ!)
 背中に振り返ると、足下に影の国の原生林が地平線まで縹渺としていて、その秋色深く、ただ風が走っている、って具合だ。木々の色づいた葉がひらめき、枝が揺れ、幹が動き、森全体が波打ち――げに一刻の千金の――まるで動く錦絵を見ているかのよう。
 この天地に三人だけ――
 さみしいような、逆に満ち足りているような、ヘンテコな穏やかさを感じる。
 このまま西回りに、俗世界に南下する気がなくなっていた。二人も同様のようす。それで、のんびりと上に登る(多少はいいだろう?)ことにした。斜面の厄介さに、今度は余裕の笑みがこぼれた。

 その日の野営場所は、降るような星空だった。薪と練炭の小さな火を囲みながら、アリアが口を切る。
「フジサンの名前の由来を教えて。お金持ちのサムライ、という意味でいいの?」
「いや、違うんだ。士 <サムライ> に富む山、つまりサムライがたくさんいる山、という意味なんだ。もともとは不二山、二つとない山、という名前だったんだけど、その読み方だけ残して、漢字の方が入れ代わっちゃったんだな……」
 さっそく答える。
「不二山の方が、らしいのに?」
「うーんとね……。これがなかなか難しいんだよ。実は、富士山の名前の由来は、今もってはっきりとしていない。諸説紛々、こじつけなら沢山あるけど。……困ったな。とりあえず、そのこじつけの中から一つだけ披露するけど……。
 かぐや姫の話、知ってるかな? かぐや姫は、月から来たお姫様だったのさ。生まれは、なんと竹の中……」

 かぐや姫は竹の中から生まれた。竹取の老夫婦に育てられ、美しく成長する。わけありのお姫様は、当然のように現れた何人もの求婚者を、無理難題を申し付けることによって拒んでしまうのだ。
 最後に帝に申し込まれる。帝の人物に、さすがの姫も心が動かされてしまうのだが、結局これもまた拒んでしまうのさ。
『わたくしは、月に戻らねばならぬ身の上なのです……』
 さあ、帝は乾坤一擲、実力行使に出たね。一番高い山、つまりこの不二山に兵を送り、月からの使者を追い返そうとしたのだ。山がサムライで溢れた。富士山の名は、ここから生まれた。
 ところで帝の兵は、とどのつまり月の使者を阻止できなかった。かぐや姫は使者が持参した薬を飲んで、老いた両親、帝などの、いろいろな下界の記憶をすべて捨て去ってしまう。
 姫は使者を従えて富士山を登り、月へ帰って行ってしまったのだ――

「――インスピレーションを得た。プリンセス・カグヤ、絶対モノにするよ!」
 アリアが宣言した。
 歌? セイレンが創る、かぐや姫の歌――!?
 俺は気の利いたセリフを返そうとして――いきなり心臓が早打つ興奮に捕らわれてしまった。素朴さ丸出しだった。
「楽しみだ。期待してる……!」











ブルー・マジック・バード


ネット小説ランキング 投票していただけると励みになります。(月1回)
長編小説ランキング Wandering Network






ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう