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野獣
作:天崎剣



第1話


 摩天楼のいただきで、獣が吠える。──しかし、その声は、ひゅうひゅうと吹きすさぶビル風に掻き消される。
 夏とはいえ、夜風は冷たく、獣の身体に容赦なく突き刺さる。獣はぶるっと、大きく震え、ふと振り返った。屋上に散らばる死体。風に煽られ漂う血の臭いが、彼の興奮を加速させる。こらえきれず、肉をあさりだす。
カイ、また、自分を見失って……、だめじゃない」
 女の声にハッとし、獣が後ろ足でのっそりと立ち上がる。──もしかしたら、それは、人間に近いのかもしれない。二メートル近い巨体が、闇の中でゆらりと動く。そして、屋上の入り口から、ゆっくりと姿を現した女性にぎらぎらと輝く視線を向ける。
「ほらほら、いつまでそんな姿でいるつもり? 世話が焼けるんだから」
 死体を乗り越えて、女が獣へと歩み寄る。小柄な、若い、髪の短い女だ。
 獣は女に牙を向け、うなる。が、彼女はそれをものともせず、背伸びして、獣の頭をそっと撫ぜた。柔らかな動物の毛が、彼女の指の間に入り込む。
 暗闇ではっきりとはしないが、それは、狼のような顔をして、身体のあちこちに、銀色に光る防具のようなものを付けている。
「いい子だから、おうちに帰ろう」
 彼女の言葉に安心したのか、獣は唸るのをやめ、穏やかに目を閉じた。身体を覆っていた武具と、獣の毛がすぅーっと身体の中に吸い込まれるように消え去り、獣だった個体は若い人間の男になった。
 男は力が抜け、ぐったりした身体を彼女に預けた。自分よりも重い、彼の全体重が、華奢きゃしゃな女の身体にどっしりとのしかかる。
「馬鹿……、ここまでして、『野獣』になりきらなくったって、いいんだよ……。人間に、戻れなくなるよ……?」
 今にも泣き出しそうな、か細い声に答えるように、男は優しく、彼女を抱きしめた。互いのぬくもりが、心を癒していく。
「ゴメン……、レイ。また、やっちゃったのか……」
「魁、あんたの仕事は殺すところまででしょ? 肉は食べなくていいの。また柳澤の奴になんか言われるよ?」
「……だな」
 男の口の中に、まだ、血の味が残っていた。

 鉄道高架橋に寄り添うように建てられた、下町のボロアパートが、彼らの帰る家だった。六畳一間。簡易的な台所と、トイレ付きの古ぼけたユニットバスが各部屋についているのが、唯一の救い。築三十年を優に越えているため、見るからにみすぼらしく、汚らしい。ところどころカビで黒ずんだサッシ。まともにカギがかからない建て付けの悪いドア。ゴキブリや、蛙、蜘蛛まで一緒に暮らしている有様。水周りの水カビや黒ずみ、トイレの汚れはもう何十年もそのままで洗おうとしても簡単に取れるものではなく、放って置かれている。
 それでもそこは、唯一彼らが落ち着ける場所。例え電車が高架橋の上を通るたびに、二階の彼らの部屋が大きく地震のように揺れようが、騒音でまともにぐっすり眠ることができなかろうが、関係ない。当たり前のように、その部屋へと戻ってくる毎日。
 金も、貯えもない。その日暮らし。それでもよかった。
 この部屋の前の持ち主が置いていった、卓袱台ちゃぶだいと、箪笥たんすが、唯一の家具。すっかりしなびてしまった、ふかふか感の一切ない、煎餅布団。二十一世紀とはとても思えない、貧乏暮らしだ。
 魁は部屋に戻るなり、血まみれのシャツやズボン、下着を部屋のあちこちの脱ぎ捨てると、シャワーを浴びた。浴室の四角いタイルの隙間に水に溶けた赤いものが、筋になって伝っていく。流しても流しても、血の臭いは取れない。
「もう! 女性と一緒に生活している自覚を持ちなさいよ!」
 澪はかんかんに怒り、汗と血の臭いで汚れきった彼の衣類を回収する。買い物用の白いビニル袋に、服を突っ込み、キュッと縛ると、「やなぎさわ行き」と、マジックで走り書き。
「また柳澤の奴に処分してもらわないと……。簡単にこんなヤバイもん燃えるごみに出せないんだからね! すぐに警察沙汰だよ!! ちょっと?! 聞いてる?!」
 シャワーを終えた魁が、彼女の声に気付き、バスルームから全裸のまま顔を出す。
「お前の話声がデカイことのほうが、ある意味ヤバイと思うぜ。他の住人に知れたらどうすんだ」
 バスタオルでごしごしと髪の毛を乾かしながら、ワンドアの冷蔵庫を漁る。……半端になった麦茶の五百mlペットボトルと、食べ残したコンビニ弁当があるだけの、貧相な中身。
 魁はペットボトルを取り出すと、中身をぐいぐいと胃に流し込んだ。ちょうどよく冷えた麦茶が、喉に染みる。
「あのねぇ、私に偉そうな口を叩く前に、股間くらい隠しなさいってば! 魁って、本当にデリカシーないよね!」
 ぷんぷんと仁王立ちで怒る澪に、使っていたタオルをポンと投げる。
「お前に気を使ってどうするんだよ。どうせ、俺とお前の仲じゃん」
「ま、そ……そりゃ、そうだけど……」赤くなる澪。
「なーんてな。六つも下の女なんか、女に見えねぇんだよ。俺の範囲外、範囲外」
「ぐ……」
 二十五歳の魁から見ると、十九歳の澪は子供同然だ。
「うるさいうるさいうるさーい!! 言いながら、毎晩求めてくるくせに!」
 澪は奇声を上げ、持っていたビニル袋を魁に突きつけた。
「これ。柳澤からどうせまた、すぐに連絡があるでしょ。回収頼むってあんたが言うのよ」
「はいはい」
 受け取ったビニルを足元に置くと、箪笥から服を引っ張り出し、渋々着替えだす。

 トゥルルルルル……

 卓袱台ちゃぶだいに置かれていた携帯電話が鳴った。
「柳澤か……、早速」
 着替えながら電話に出る。
「はい。こちら、魁」
『もしもし、私だ。──魁、またしてもやってくれたな。かなりぐちゃぐちゃだったぞ。処理するほうの身にもなってみたまえ』
 低い男の声。落ち着き、呆れているような話しっぷり。
「悪いね。ああなったら、俺にだってコントロール出来ないんだから、仕方ないだろ?」
『試験体だからって、言い訳は通用しないぞ。いつ警察に見つかるか、こっちだってハラハラしてるんだ』
「うるせぇ。あんたらの気まぐれゲームに付き合ってるこっちの都合はお構いなしかよ。第一、後処理はそっちの仕事だろ。……あー、そうだ。また、服の処分頼む。ちょっとごみには出せない状況なもんで」
『……またか。仕方ない。木曜日の午後にそっちに行く。そのときに』
「たのんますよー、教授」
『……嫌なものを押し付けるときだけ教授と呼ぶのはやめろ。いつもは呼び捨てのクセに。まあいい。また仕事が入ったら連絡する』
 ブツッと、そっけなく電話が切れる。携帯の画面を見ながら、あかんべーをする魁。
「いけすかねぇな。相変わらず。何とかなんないのかね、あの性格」
 着替え終わり、やっとまともな二十代男性の姿になった。鋭い目と、針金が入ったような硬い黒髪が印象的。
「仕方ないでしょ、あれでも、私たちの雇い主なんだし。金貰ってんだから、文句言わないの」
 澪は卓袱台の側に腰を下ろし、両手を組むと、ぐんとの伸ばして、そのままゆっくりと畳に寝そべった。埃を被った蛍光灯が、ゆらゆらと始発電車の振動で揺れる。
「それに、本当なら、死んでいるはずだったんだから。『野獣』になったとはいえ、命を取り留めてくれた柳澤には少なからず感謝してるよ、私は」
 ボソッと、呟く澪の向かいに、魁は腰を下ろした。
「そんなの綺麗事だ。柳澤は俺たちを利用してるだけだろ」
「そりゃ、そうかもしれないけどさ……。『野獣』なんて、はっきり言って、ゴキブリみたいなもんじゃない。見えないとこにひっそり住んで、知らないうちにはびこっていて。見つかれば駆除される。それだけの存在だよ。危険は常に伴うけど、こうして二人とも辛うじて生きているんだから。それに、こんな生活でも、私は十分満足してる……」
 澪が、そんなふうに言っても、魁は納得しなかった。
 時代遅れの部屋で、二人はその後、暫く沈黙を通す。
 澪の言う通りなのかもしれない。例え『野獣』なったとしても、生かされているとしても……、命があるだけでも、マシ。そう考えたほうが、気が楽になる。
 魁は、澪にならって、ごろんと横になった。
 夜が少しずつ白んできた。蝉の声が少しずつ、大きくなる。
『野獣』たちは、少し遅い睡眠を、とり始めるのだった。







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