雨がポツポツ。
傘をさす人ささない人。
六月。梅雨の季節だというのに、今年は雨が少ない。たまに降る雨も小雨だ。
「にーちゃん」
雨音で声をかき消される事だってない。黄色い傘をさした少年が兄を呼んだ。
「にーちゃんってば!」
「……んだよ」
兄は鬱陶しそうに後ろを振り返る。少し視線を下げた所に弟はいた。
「なんでにーちゃんは傘をささないの?」
兄の肩はうっすら濡れている。しかし当の本人は全く気にする気配が無い。
「面倒だから」
「でも濡れてるよ。風邪ひいちゃうじゃんか」
「いいんだよ」
高校生くらいの兄は随分と大人びている。それに比べて弟はなんて幼い。小学生だから仕方のない事なのだが。
「よくないよ。三菜子さんに迷惑だもん」
「……」
「ホラ、にーちゃん!」
弟は手提げ鞄から折り畳み傘を取り出し、それをグイッと突き出した。
「三菜子さんに頼まれたんだ。にーちゃん、傘ささないからって」
「……懐いてんな」
「はぁ?」
「新しいオカアサン、そんなに好きか?」
兄の顔が皮肉っぽく歪んだ。雨は相変わらず弱々しく降っている。
「好きだよ!一緒に遊んでくれるもん!」
ニコニコと幼い笑顔で即答する。兄は弟から折り畳み傘を乱暴に取った。
「……残酷だな」
傘を広げながら、聞こえない位、低い声で兄が呟く。義母からの青い折り畳み傘に当たる水音が次第に強くなる。
「ホラね!ビショ濡れになるトコだった」
「……そうだな」
「三菜子さんの言う通りだッ!」
ニヒヒ、と笑う顔が憎たらしい。黒いランドセルが傘からはみ出して、少し濡れていた。
「何で“お義母さん”って呼ばねェの?」
「うーんと、にーちゃんが嫌がるから」
「……は?」
「にーちゃん、三菜子さんの事、嫌いなんでしょ?」
「……」
傘のせいで弟の顔はよく見えない。黄色い傘だけがクルクルと回っている。兄は黙ってしまった。
「にーちゃん、あんなにお母さんとケンカしてたのになァ」
思い出すように、ポツリポツリと言葉を零す。
「でもやっぱ、お母さん、大好きだったんだね!」
「……陽太」
「僕もお母さん、大好きだよ」
「……そうか」
折り畳み傘からはみ出した鞄がグショリと濡れて、重みを増す。ズボンの裾もビショビショだ。
「三菜子さんを“お義母さん”って呼ぶのはねぇ……」
弟はクルッと兄の方を向いた。傘を斜めにして、兄の顔を下から見る。
「にーちゃんが三菜子さんの事、好きになるまで待ってんの!」
「……ガキの癖に生意気言うな」
「ひひひっ」
弟は兄の前を駆けて行った。兄はスピードを変えず、それに付いて行く。
「にーちゃん。お母さん、天国に行けたかなァ」
「さぁ?」
「雨のせいでよく分かんないや」
空を見上げると生憎の雨降りの曇り空。
「にーちゃん、にーちゃん!」
「なに?」
「雨ってさ、ぎゅーって溜まってドバーッて降るの?」
「……意味が分かんね」
「梅雨って何でこんなに雨が降るんだろ?」
兄は話に付いて行けない、とただ弟の後を歩くだけだ。
「たくさん貯金でもしてたのかな」
「……どちらかと言えば、貯水」
「そっか!今は雨が我慢しなくていい時なんだァ!」
顔は見えないが、弟が笑っていることは容易に想像できた。雨音は次第に弱まっていく。
「僕ね、お父さんが泣いてるの、見た事ないんだ。ねぇねぇ、にーちゃんはある?」
「ない」
「そっかぁ。じゃあ、お父さんも今なら泣けるかな」
兄は怪訝そうな顔をして弟の方を向く。弟はピョコピョコとジャンプしながら前進している。弟が跳ねた水溜まりはグラリグラリと波打つ。
「お母さんが死んじゃった時も泣かなかったんだもん」
「……それは親父にオンナがいたからだろ」
兄はポツリと呟いた。弟は不思議そうにキョトンとしている。
「それってどういう意味?」
「何でもない」
「ふーん。でもお父さん、実は泣いてたんだよ」
「?」
「すっごい悲しそうな顔してたもん!僕、もっと涙が出て来ちゃった」
ゆっくりと弟は立ち止まった。兄はようやく弟の隣に並んだ。
「三菜子さんがウチに来て、ビックリしちゃったけど……僕はちょっと嬉しかったんだァ」
にーちゃんはすごく怒ってたけどね、と弟は付け加えた。兄は何も言わない。
「お父さんが寂しい思いをしなくて済むじゃんね!」
「親父は元々、お袋と離婚するつもりだったんだよ。お袋の病気が発覚したから出来なかったけどな」
兄の言葉で空気が重々しくなった。
「にーちゃん、お父さんも嫌いなの?」
「うるせ」
「オトシゴロなんだね」
「どこでそんな言葉習ったんだよ」
叩かれそうになり、弟は笑いながら逃げ出した。幼い声が辺りに響く。
「にーちゃん」
「……んだよ」
「にーちゃん」
弟は急にさしていた傘を畳んだ。ポツポツと彼の服に水滴が付き、たちまち水玉模様になった。
「たまには雨に濡れちゃうのもいいねッ!」
弟はニコッと笑った。すると兄は弟を自分の傘の中に入れてやる。小さな折り畳み傘から二人の体はしっかりとはみ出している。
「風邪ひくぞ、バカ」
「にーちゃんこそ」
弟は大人しく傘を再び広げた。同時に傘の水滴がキレイに飛び散る。気が付くと、既に小学校の前だった。
「にーちゃん、僕今度、皆で海に行きたい!」
「あー……もうすぐ、そんな季節か」
「お父さんと三菜子さんと仲良くするんだよ?」
上目遣いに悪戯っぽく笑ってみせてから、弟は小学校の校門の中へ入って行った。
「余計なお節介だ!お袋の真似すんな」
兄は溜め息混じりに笑いながら、青い折り畳み傘を揺らしてその場を後にした。
|