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39:トランプ
 知子はリビングの椅子に座っていた。

 目の前のテーブルの上にトランプがあり、智と遊んだ神経衰弱がやりかけのまま置いてある。次の順番は智なのだが、その智はもういない。智は自らの意思でガルネオについて行ってしまったからだ。

 その原因は父の裏切り。父が家族を日本に帰すために辛い選択をした事は、あのあと母から説明を聞いて知っている。

 だから智は父の裏切りに腹を立てて、知子の身辺警護を放棄して圭介について行ったのだろう。知子を一度も見ずに、再会の言葉もなく。

 知子は、圭介をガルネオに売った父が許せなくて、父と母と一緒にいるのがイヤで一人リビングの椅子に座って、智が裏返すはずだったトランプをずっと眺めていた。

 父を叩いて散々なほど流した涙も、今はもう出てこない。

 王子智とキング圭介が連れて行かれて悲しいが、日本に帰れると知らされて、心の底では安堵し喜んでいたりもする。

 父に対しては、自分を守ってくれたという感謝の思いがあるものの、ほかの方法が思いつかなかったのか、という圭介をガルネオに売った事への怒りや憎しみもある。
 
これらの感情は形も質量も無いのに、心の中にあるだけでとても重く感じてしまう。今までに、こんな複数の感情を、しかも正と負という両極端に近い感情を同時に抱く事があっただろうか。

 10歳の知子にとって、それは初めての経験で、この感情をどう処理していいのか分からず、だからといって両極端な感情を心の中にずっと置いておくのも辛くて、知子の生きる気力の足かせになっていた。

 リビングに人が現れて知子の隣に立つ。

 見なくても智や圭介じゃない事は分かる。隣に立った人が何を望んでいるのかも想像がつく。いつかタイムマシンを発明する自分をどこかへ連れて行こうとしているのか、部屋へ戻れと言おうとしているかのどちらかだ。いつの間にか今後の展開を予想する癖も身についてしまっている。

 知子はトランプに手を伸ばした。裏返しになっているトランプを箱に戻していく。

 トランプを箱に入れている途中で肩を叩かれる。知子はゆっくりと首を動かして振り返り肩を叩いた相手を見た。

 肩を叩いたのはトロッキオ。トロッキオはにやつきながら知子を見下ろしている。

 知子は驚きもせずトランプを全部箱の中に入れると椅子から降りた。表情のない知子の顔。

 もうトロッキオが近くにいても怖くない。むしろ智がいる所へ連れて行って欲しいとさえ思えてくる。

 トロッキオの子分もいて、部屋にいる両親を外へ連れ出している。

 両親は背中を押されながら知子の横に立った。

 子分の一人が両親に言う。

「一緒に来て下さい」

 外国語訛(がいこくごなま)りはあるが日本語だ。見た目も日本人と変わらない。通訳者のようだ。

 母は聞く。

「あなた、日本人なの?」

「いいえ。イタリア人です。混血ですが、どこの国なのかは知りません」

 父は言う。

「さっき通訳してくれた人だね。君には日本人の血が流れていると思うよ」

 通訳者は笑う。

「日本語は学校で覚えた言葉です。それだけで日本人と決め付けるとは。噂どおり日本人は平和ボケしているんですね」

 通訳者はトロッキオに会話内容を報告する。

 トロッキオも笑い出し、手を振って知子たち家族を相手にするなと通訳者に指示を出した。

 通訳者は返事をしたあと全くしゃべらなくなり、知子たちは指示に従って歩き出した。

 歩く知子の目に高価そうな絵画や彫刻が順番に映っていく。

 十字路をいくつか曲がっていると父が急に騒ぎ出した。

「おかしい。変だ」

 母が聞く。

「なんで?」

「今朝、あっちの道へ行ったら広い玄関があって、そのあとに庭が見える、私たちが最初に来たあの部屋へ行ったんだ。でも逆の方向に曲がった。私たちは玄関に向っていない」

「え! 本当に?」

「間違いない」

 両親は顔色を変えて言うがトロッキオに逆らえる訳もなく歩きながらしゃべっている。

 玄関に向っていなければどこへ行く? 知子には、もうどうでもいい事だった。

 歩いていると通路の途中に螺旋(らせん)階段があり、階段は下へ続いている。

 トロッキオはその階段を下りて行く。当然、知子たち家族も下りて行く。

 階段を下りるとまた通路がある。ただし、絵画も彫刻も絨毯(じゅうたん)もない。通路の先は暗くてよく見えない。それが無性に通路を狭く長く感じさせる。

 通路は一本で十字路もない。ドアが等間隔で並んでいるだけ。

 トロッキオはいくつ目かのドアの前で足を止めてそのドアを開けた。
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