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35:神経衰弱
 朝食後、知子の父は母の部屋にいた。

 父は難しい顔をして椅子に座っている。母は父と向かい合うようにしてベッドに腰掛け、そんな父を同情ともいえる表情で見続けていた。

「私は知子に嫌われるだろうな」

「でも仕方がないわ。加藤の苗字はいっぱいあるし、知子の名前だっていっぱいあるもの。人違いかもしれないのに、こんな所に連れてこられて、うちの知子がノーベル賞を取るなんて聞かされても信じられないもの」

 平凡な家庭からノーベル賞を受賞する子供が生まれるなんて、誰が想像できようか。

 母もまたその一人で、喜ぶどころか今の軟禁生活に(いきどお)りを覚えている。

 きっと父も心の内に納得できない激しい何かを抱いているに違いなかったが、今の父は静かに座っていた。

 知子の両親の沈黙は続き、だがそれは長年連れ添った夫婦にしかできない無言の会話で、それが終わった時、父は無言で椅子から立ち上がった。

「あなた、気をつけて」

 母は父に手を伸ばす。父は母の手を握る。

「私にもしもの事があったら、知子を頼むぞ」

「そんな事を言わないで」

 父は母の手を放す。

「あなた」

 父は母の声を聞きながら部屋を出て行った。

 リビングでは知子が智と遊んでいる。トランプで神経衰弱をしているようだ。

 父はチラリと目配りだけして、リビングをあとにした。

 父の行き先はガルネオがいる所。父は通路を歩き、すれ違った召使いを呼び止めた。

 召使いは、父の顔を見て目を見開く。父がリビングから離れた場所にいた事に驚きを隠せないようだ。

 父は召使いに(つう)じるようにゆっくりと言った。

「ガルネオさんに、お会いしたい」

『ガルネオ様?』

 日本語とイタリア語の隔たりがあっても、ガルネオだけは通じるようだ。

「そう、ガルネオ」

 召使いは頷く。そして手招きをすると歩き出した。

 父も召使いについて歩き出した。

 壁に飾られた絵画。所々にある彫刻。全てガルネオが所有する美術品。不当な手続きでガルネオが手に入れてるとは、父は知らない。

 通路に敷き詰められている絨毯(じゅうたん)。その上を行き交う召使いの人数の多いさ。ガルネオの裕福振りがうかがわれる。

 父を案内している召使いは、十字路をいくつか曲がりエントランスに出ると、あのガルネオが朝食を食べていたリビングの扉を開けた。

 中ではガルネオが人工芝を広げて、ゴルフのパターの練習をしている。

 服はアロハシャツにサーファーズボン。口には葉巻をくわえている。

 召使いはガルネオの傍に立って(うやうや)しく頭を下げた。

『ガルネオ様に、お会いしたいそうです』

『ん?』

 ガルネオは召使いを見て、次に父を見た。

『なんだ?』

 ガルネオは外国人体型。傍で見ると思った以上に大きく感じる。

 父はたじろぐ。しかし、家族を守るために言わなければならない事がある。

「あんたに話があって来た」

『分からん。何を言ってるんだ、こいつ?』

 ガルネオが周りを見ながら言うと、トロッキオがどこからともなく現れてガルネオの横に並ぶ。トロッキオも柄の違うアロハシャツを着ている。その下は綿のズボンのようだ。

『ガルネオ様、通訳を呼びましょうか?』

『ああ、頼む。だがあいつは呼ぶな。訳ありかもしれねえからな』

『分かりました』

 トロッキオは返事をすると傍にいた子分に指示を出した。

 ガルネオが言ったあいつとは圭介の事。ガルネオはいくつも危ない橋を渡ってきたマフィアのドン。今回の話し相手は知子の父なのだが、何かあると勘が働いて、自分の子分の日本語が分かる者を呼びに行かせたのだった。

 通訳はすぐに来た。アジア系の顔立ちをしている。日本人の血が混じっているのだろうか。

 通訳はガルネオから指示を受けると口を開いた。

「何か話があるんですよね?」

「そうです。タイムマシンについてです」

 通訳はガルネオと話す。ガルネオの表情が変わる。

「ガルネオ様はゆっくり話がしたいので、あちらの椅子に座れとの事です」

「分かりました」

 父はガルネオが朝食を食べていたテーブルの椅子に座る事になった。

 父の前に水が入ったグラスが置かれる。

 ガルネオも座ると、ガルネオは早速水を口に含んだ。

『運動をすると口が渇く。で、あんたはタイムマシンの何を話しに来たんだ?』

 父は緊張しながら通訳を挟んで話し始めた。

「知子は将来タイムマシンを発明します。しかし、知子が大人になるまで待たなければならない。私たちもそれまでここで暮らさないといけない。それよりも、もっと手っ取り早い方法を思いついたんです」

『ほう。それはなんだ?』

 ガルネオが笑顔になったので、父も緊張しながら笑顔を作る。

「私たちと一緒にいる男、年上の方はタイムマシンのエンジニアです。あの人にタイムマシンを作らせたらどうでしょうか。あなた方は早くにタイムマシンが手に入るし、私たち家族も日本に帰れると思うんです」

『確かにそうだ』

 ガルネオは通訳にそれだけ伝えるように指示をする。それからガルネオは、父がイタリア語が分からない事をいいことにトロッキオに笑いながら話す。

『聞いたか、トロッキオ。あの混血、タイムマシンのエンジニアだと』

『はい、聞きました』

 トロッキオも笑いながら返事をする。

『この男は、自分の仲間を俺たちに売る代わりに、家に帰りたいんだと』

『それもこの耳で聞きました』

 ガルネオはトロッキオと笑うだけ笑ってから父を見た。

『お前ら家族が日本の家に帰る。これだけでいいんだな?』

「そうです。私たち家族を日本の我が家に帰して下さい」

『分かった』 

 ガルネオは席を立った。

『早速、奴の所へ行くぞ。お前も、お前もついて来い』

 ガルネオは人差し指を動かして、トロッキオと父について来るように指示を出すと、歩き出した。奴と呼んだ圭介の所へ。
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