さてそれから二週間後の、晩春の空気が爽やかな金曜日の夜のこと……。
この波限という青年は、現在彼女もいなければ、職業柄接待というものもない。付き合いに積極的に参加しなくても今のところ出世とは関係く、深夜に及ぶ残業も忙しい時期でない限りはしなくてよい。
そして酒は飲めないわけでもないが毎日飲みたいほどでもない。ついでに知らない人間(特に女性)と話を合わせるのが苦手なので、合コンも断り続けていたら話はこなくなった。
つまりのこと、義理や友人の誘いがない限り飲み歩く――もとい、飲む打つ買うの欲望に関して金を掛けることを、波限はしない性質であった。
だったら寧ろその分貯金して、折角それなりの成績を修めているのだから、本人が望むのであれば青一郎の進学の足しにしようと考えている生真面目な青年。青一郎自身も頑張ってアルバイトに精を出しているようであるが、それで成績が下がってしまえば本末転倒なのだ。
十歳しか年は離れていないのに彼の母親への負い目も手伝って過保護といえば過保護であるが、安月給しか収入源がないため、本当に節約しないと高校生を養っては暮らしていけないのである。
また原則家事は当番制としている。今日は一応波限の当番の日であった。そんなわけで金曜日の夜であるにも関わらず、波限は夜七時に帰宅した次第であった。
波限の部屋の明かりは点いている。しかも左隣の青一郎の部屋の明かりも点いている――ことから青一郎は自室にいるようだ。……ということは、間違いなく波限の部屋には今、あのハイテンションな大根がでーんと座って今日も家主である波限の帰りを待っているわけである。
思わず吐かれる大きなため息。家に帰ったのになんとなく余計に疲れる気がし、ドアを開けるのも躊躇われる波限であったが、ふと右隣の部屋をちらりと見ると、その部屋にも明かりが灯っていた。……彼がこっそりと憧れている年下の女性、初夏の部屋である。
明かりだけでも自分の殺伐とした部屋と違い、妙に淡く癒される感じがする――あたり、相当不毛で寂しいのかな、と彼は空しくなる。
でも彼女の部屋にもいつもこれくらいの時間は明かりが点いている。そして何より、男が家に入るのをまだ目撃したことがない。――ということは……と、波限はまたどうでもいいことを考えそうになるが、そんな妄想をぶんぶんと振り払うと、自分の家のドアに手を掛け、現実へと足を踏み入れた。
……が、そんなことをしなくても「現実」の方から彼を迎えに来てくれたのであった。
「おっけえりー!!」
ドアを開けた瞬間、本日はいつも以上に熱烈な歓迎ぶりで、件のトラブルメイカー、源助大根がだーっと走ってくると波限の顔に飛び上がって抱きついてきた。
いつもは下手をすれば、部屋の真ん中に寝転がりテレビを見ながら、手の代わりをする根で尻のあたりを掻きつつ、「早よメシの支度せーやー」などと偉そうに言っているくらいであるのに、一体どうしたと言うのだろう。
「今日は記念すべき日なんやー! 無事に、ワシらの播いたダイコンの種が元気な芽を出したでー!!」
波限の肩に両足を掛け、腕を彼の頭へと伸ばしてその体制を保ちながら、嬉しそうに源助は言う。
不毛の土地を力づくで開墾し、それでも土が固く養分も少なかったので、大家の老人の友人である農家から分けてもらった畑の土を足した。そして何とか作物が植えられる状態とし、肥料も撒き、ようやく播種を行った――この作業のほとんどを波限が行ったので、確かに枯れてしまったという報告よりもその内容の方が、何十倍も嬉しかった。
「そりゃよかったな」
しかしそのハイテンションに付き合うのも疲れるので、波限はあっさりとそう答えると、肩の大根を振り払った。
「なんやもっと喜びゃーて」
と相変わらず何処の方言だかわからない訛りで、ぶつぶつ不服そうに言う源助であったが、それを無視してワイシャツから部屋着のジャージに着替え、急いで夕飯を作ろうとした波限は、ふといい匂いがしていることに気がついた。
「おかえりー、なぎささんー」
そしてこの騒ぎで波限の帰宅に気付いたのだろう、青一郎がこちらの部屋へとやってきた。
「今日、源さんが学校まで芽が出たって教えに来てくれて、それでおれも早く帰ってきて、もうご飯作っといたんですよ」
――コイツ、高校まで行ったのか!?
波限は驚愕してニ人を見比べるが、妙にウマの合うニ人はにこにこと顔を見合わせている。
逆に、源助が自分の職場にも来るかもしれないことを想像して、波限はやめてくれとぞっとしていた
「だからそのお祝いに、今夜は大根メシ作りましたよー!」
そこで嬉しそうに青一郎は片手を伸ばして炊飯ジャーを指し、源助も一緒に根を誇らしげに伸ばす。
「祝い……って……」
しかし波限の反応は冷たかった。
「……ただ単に米が切れかけて、ダイコンで嵩増ししただけだろ?」
ため息交じりのその言葉に、思わずぎくっとする青一郎と源助。まるで「おし●」のような食生活(※「お●ん」がわからない子はおかあさんにきいてみよう)ご馳走なのかそうでないのか甚だ疑問である。
それは別にこの大根が悪いのではなく、どちらかといえば大食いな青年男性二人が食費に困っているこの状況がいけないのであり、寧ろ大根を提供してくれるだけでもありがたいと思わなくてはいけない。
それにその大根飯とやらも、空きっ腹にはいい匂いがした。
「米にダイコン! 身体もあったまるし、ビタミンに消化酵素も一緒にとれてええやないか、なあ」
「そーですよー。それにおれたちが植えたものが収穫されるのはまだもう少し先だから、その間はわざわざ源さんが故郷からダイコン取り寄せてくれてるんですよー」
まーた怒られるかなーと、家主の機嫌を伺うように、ニ人で口々に言うと左右から波限の顔を覗き込む。
確かに恩返しの内容は、「一生分の大根に困らないようにすること」と波限は聞いている。
こんな風に取り寄せできるんなら、いっそ人に作らせないで送ってもらおうぜと思うが、源助曰く、手間隙掛けて育てることで収穫される大根への感謝と愛情も沸き、更にそのことにより食べられる大根も喜んで栄養分が増幅するのだ――という話。それよりもクニから送ってもらえる大根も数に限りがあるので、そんな年がら年中もらえるわけないのが実情のようで、それら御託を聞くのも面倒臭くなってきて、結局自分で作っているのである。
だが、これをきっかけに最近では他の野菜も自給自足にしようかと折角開墾した土地を見て思うようになり、なんだかんだで彼はこの栽培生活に馴染んできてしまっているのかもしれなかった。
「いーから食おうぜ。腹減った」
そんな結論に落ち着いたからか、意外に穏やかであった波限の台詞に、台所に立つその背中の後ろでほっとしたように残りの二人は顔を見合わせた。
「今日は大根サラダと大根菜の味噌汁と、大根と挽肉の煮物ですよー」
青一郎もそう言いながら、短時間でよく此処まで作ったなと思われる、彼が作った料理を台所から運び始めた。
そして慎ましやかな金曜の夜の夕餉が始まったのであった……。
「あ! そう言えば、麦と粟と稗でよければどうぞ、って大家さんが持ってきてくれましたよー」
「お、よかったな」
そしてこれまた意外と美味い大根飯をかき込みながら、波限はうんうんと頷いた。
近年は雑穀ブームなのもあり、主生産ではない雑穀米はかえって単価が高かったりするので、日常的に混ぜているわけではないが……もしかしたら、実際に自作すればコストは米よりも掛からないかもしれないが、さすがに野菜以上のものまでは手を広げる自信はない。
しかしそれこそ大根でも麦でも、タダで貰える食べ物でカロリー源、栄養源になりそうなものならば、なんでも米に混ぜて量を増やそうという、食べ盛りの二人なのであった。
「麦は食物繊維も豊富ですし、雑穀ご飯も体にいいから嬉しいですねー」
そうなのである。更にはこの慎ましやかな食卓は、彼らの健康にも一役かっていた。
彼らの均整の取れた体格や医者要らずの体は、元からそうではあったものの、意外とこの食生活がそれを維持していた。
しかし青一郎はまだ成長期のため、こういうものを利用して上手く家計をやりくりし、動物性タンパク質も毎日とらなければ筋肉も発達しない。まあ身長が低いのは母親譲りであり、栄養失調などではないと波限も思いたいものだが。
とりあえず米が切れそうだったこの家庭でも、ひとまず主食はなんとかなりそうであった。
その話題が一旦途切れたところで、美味そうに大根を屠る二人を幸せそうに見ていた源助が、ふっふっふと話を切り出した。
何だよ、と波限が嫌な予感に不気味な笑い声を出す大根を見下ろすと、
「聞いてくれんか! ワシなあ、恩人である聖護院のためにな、このムッツリがよう声も掛けられん、お隣の『はつか』ダイコン……じゃなかった、お嬢のこと調べてきたんやでー!」
その発言にぶぶーっと古典的に大根菜の味噌汁を吐き出しそうになる。ちなみに大根の葉の部分は少々苦いが、ビタミンにカルシウム、リンに鉄分等々含まれているとても栄養分が豊富な部位なのである――それはさておき。
「すっごーい。どうやって調べたんですか?」
むせ返って言葉も出ない波限の代わりに、青一郎がその言葉に反応した。
「ふっふっふっ。ワシのこのダイコンというフォルムが、見事なまでの尾行を完璧にしたんや……」
隣の佳人、初夏を尾行したときのことを思い出し、その成功の達成感に酔い痴れる大根。
……それは彼女に振り向かれては普通のダイコンのように横たわったり、通行人の目に触れないように塀の上を歩き、人に見られそうになれば電柱の影に隠れたり、時には八百屋のダンボールの中に入り、猫に追い掛け回されたり……といった名(?)尾行ぶり。
「っつうかな、何度もチャレンジして、今日ようやっと成功したんや!」
源助はこれまでの苦労を思い出し、(体内の水分を飛ばして)おいおいと泣いた。
――それだけ失敗して、よくそれで人に見つからなかったな……と内心では思う二人であったが、謎めく女性の正体は気になるところでもあったので、青一郎は「それでそれで?」と源助の尾行の結果を聞くべく話を促し、波限もちゃっかりと聞き耳を立てていた。
◇拍手&簡易メッセ◇
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