隣の家では暗い部屋の中、布団の中で一人の若い女性が眠れなさそうに寝返りを打っていた。
初夏もまた、このアパートに引っ越してきてから、そして隣人を意識し始めてから、今日までのことを思い返していた。
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ここ数年会話をしなくなった歳の離れた兄が出来ちゃった……ないし、おめでた婚で結婚して、兄一家は初夏の家で暮らし始めたため、彼女は自分の居場所が無くなったように感じた。
もう子供じゃないんだし、とそういった事情で初夏は家を出て一人暮らしをすることにしたのであった。
職場に近くて安いアパートを探す。少々古かったものの安い割にリフォームもされており、昔ながらの大家のおじいさんが居て、とても親切そうだったのでこのアパートを選んだ。
大家の老人は言った。お隣は公務員の好青年と近くの進学校の高校生の家族だと。そういった肩書きがあっても犯罪をする人間はいる、と初夏は当てにはしていなかったものの、確かに暴力団の一味などと言われるよりは安心出来た。
引っ越してしばらくして、隣の青年に会った。とりあえず挨拶は大事だからとしてみたものの、彼はにこりともしない。第一印象は少し恐かったものの、会釈は返してくれた。その後、高校生の少年にも会った。逆に彼は不気味なくらいににこにことしていた。
……正反対の兄弟だなあと彼女は思った。――この時は、二人の血が繋がっていると思っていた初夏であった。
しかし隣の二人は夜中まで騒ぐこともなければ変な行動も見られず、いつも同じ時間に美味しそうな食事の匂いがし、毎日同じ時間に仕事にも行っているようであるし、時々楽しそうな声も聞こえてくるし、見た目は健全な生活を送っているように見えた。そのことには少しほっした。
やはり昨今の世の中、ニュースを見ていたら恐いことばかりだからだ。歳が離れているが、互いを思いやる仲の良い兄弟なんだろうな、というイメージが初夏の中に植えつけられた。
そんな中、隣の青年が間違って届いた荷物を届けてくれた。最初は驚き、やはり警戒もしてしまったが、荷物だけ置いて彼はあっさりと帰っていった。律儀な人かもしれないと思った。
背も高いし、ちょっとかっこいいかもしれない……とこの時彼女は、年上の青年に対して少しばかり思ったのだった。
そして何ヶ月も過ぎるうちに――今年の春頃か、いつの間にか、隣から聞こえてくるにぎやかな声が増えていた。
まさかその声の主が大根だとは、よもや思わなかった初夏。ただ単に、変な方言の人だなあとその時は思っていた。よく来る友人なのだろうか、とも思っていた。
走り回り物が飛ぶ賑やかな音がすることが増えたが、就寝できないほどうるさいわけでもなかったため、たまに聞こえてくると楽しそうでうらやましいと思うほどであった。もちろん初夏にも友人はいるが、あそこまで思い切りじゃれあったりしない。
丁度その頃だ。隣の青年と高校生はアパートの前でなんと、開墾までして畑仕事を始めたようだった。本当に健全な人たちだなあ……今時、こんな若者がいるんだなあ、と彼女は自分も若者のくせにこっそりと感心していたものだった。
――そして更にその頃だった。隣から、聞こえてくる会話の中に、
『はつか』
と自分の名前が混じっていたのは。
彼女は驚いた。
理由が分からず恐怖も覚えたが、だからと言って何かをされることもなかったため、不思議に思いながら自分の名前が出てくる会話をよくよく聞いてみると――、
――はい!? ……まさか、ねえ……。
目を見開いて、胸をどきりと高鳴らせる。壁に耳をつけて聴いたわけでもないから確かではないが、窓が開いている日に隣の部屋から、そして畑の方からなんとなく聞こえてくる話からして、
――あのおにーさんが、わ、私を……??
……らしいのだ。
彼女は驚いた。しかしやけにドキドキとしてきた。決して嫌いなタイプではなかった。むしろ――。
何よりも、彼女は男性と付き合ったことが一度もなかったのであった。地味で大人しいからか、学生時代に告白をされたこともない。だから余計に驚き、そして……彼のことが、とても気になってしまったのであった。
しかしアパートは生活空間であるからして、ジャージでうろうろしないものの、化粧もせずに出歩くことはよくしており、隣には風呂やトイレなどの生活音も聞こえているだろう。布団を干したり、洗濯物を干したりと恥ずかしい姿をたくさん見せてきた気がするが、そのあたりは大丈夫なのだろうか……。
だが本人に言われたわけでもないので、自意識過剰なだけかもしれない、と彼女は自分を叱咤する。
高校生の方とはまだ言葉を交わしているが、青年とは話が出来る仲でもない。だから何も聞けなかった。
――困惑と胸の高鳴りだけが日ごと募っていく。
二人の歳が離れた兄弟の仲がよさそうな畑での姿を時折見下ろしては、不思議な気持ちにさせられていた。
そんなある日、アルバイト帰りらしい高校生の方が話しかけてくれたのだった。青年の情報を何故かたくさん教えてくれたものの、二人が本当の兄弟じゃないと聞いて初夏はどきりとした。
本当の兄妹でも分かり合えないでいるのに、他人同士でもこうしてここまで信頼し合えることが、これまで以上にうらやましくなった。きっと二人とも、心が優しいからだろう。
そこで青年には、今、彼女がいないということも教えられた。……でも昔はいたらしい。確かに初夏よりも五つほど年上であるようだし、かっこいいからモテそうだよなあ、と彼女は何故かショックを受けてしまった。
そして次の日、畑仕事の帰りの青年に偶然会った。真偽は分からないものの、犯罪などを企んでいない限り自分のことをいい風に思ってくれるのは、純粋に嬉しいものだ。だからいい印象の自分で居たい、そう思って彼女はいつもどおり自分から挨拶をした。
すると、たった今、間引きしたとかいう大根菜をもらってしまったのだった。
――初めて、男の人からプレゼントをもらってしまった……。
実は情けないくらい男慣れしていない彼女は、それくらいで意識してしまったのであった。そんな小さな出来事が嬉しかった。栄養豊富そうなものを善意でくれたことが。
それくらいで、自分に自信はないものの思い上がりそうになってしまった。
誰かに何かをしてもらえることはこんなに嬉しいんだな、そして嬉しいと思えるということは、その人に対して自分は嫌悪感とは逆の感情を持っているのかもしれない――。そんな風に考えると、妙に笑みがこみ上げてくる。
その晩、大根菜は味噌汁に入れた。少し苦かったが、とても美味しかった。
しかしそんな風に浮かれていたある日曜日の朝、青年の部屋からまるでモデルのような美女が彼と一緒に出てきたのであった。しかも二人とも背が高いから、とてもお似合いに見えた。
やはり男性経験の無い自分とは違うのか。背も高くないし胸もないし、ぱっとしない自分を、初夏はとても惨めに感じた。 ――彼女は、前の晩に泊まっていたのだろうか。
高校生は今、彼に彼女は居ないと言ってたが、どういう関係なんだろう。
ゆうべは二人で何をして過ごしていたんだろうか――。音は聞こえなかったけれど……大人だし……。
初夏はそんなことを一瞬のうちに考え、一人で盛り上がっていたことが、ばかみたいに感じた。
そして彼女自身もよく分からないがこれまで以上にショックを受け、これから出かけるらしい二人の顔も見ずに急いで家に入った。
――複雑な気持ちだった。話したこともないのに、何故こんな気持ちになるのか。
自分の持っている気持ちがなんなのか、彼女はよく分からなかった。
まだ彼と何を話したわけでもない。こんな幻想のような、何の事実もないことに。そんなものに心を任せてしまってよいのだろうか。そんな風に悩み始めた。
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