夕食も済ませ、入浴も済ませた波限の家の隣の佳人、初夏。
Tシャツにジャージのようなパンツ。その格好からも、これから外出するとは思いがたい。男が訪ねてくるにしてもリラックスしすぎている。
――今日は、たまたまそういう日じゃあらへんだけかもしれんけど……。
源助は細かく初夏の様子をチェックしていた。たまにその不穏な視線に気付くのか、彼女は台所を振り向くが、ぱたりと倒れて普通の大根のふりをした。
――ふー、危ない危ない。
テレビを見たり、ノートパソコンを広げたり、雑誌を読んだり……まったりとくつろぐ女性。途中、携帯電話を取り出したので源助はどきっとしたのだが、メールを少しの間して、終わったようだった。
――まあ彼氏とメールしとるかもしれんし、毎日電話するとも限らんしな……。
青一郎がつまらないと言ったとおり、本当にまっとうに夜の時間を過ごす彼女。もしかしてこう見せかけてあばずれ(死語?)なのかもしれないし、ネット上で副業してがっぽり稼いでいるかもしれないし……女は本当に分からない。これは何日か此処に住み込まねばならないか? と密かに源助は思っていた。
しかしただひとつ、初夏の中で不思議な行動があった。
薄い壁一枚だ。耳を済ませば隣の源助が住んでいる部屋の音は、波限と青一郎が二人で過ごしているからか、よく聞こえてくる。三人で話している時は、初夏の部屋の音は殆ど聞こえないのだが、こちらは女性の一人暮らしであるため静かだからより聞こえるのであろう。
波限たちも夕食が終わったのか、内容は聞こえないが若干の男性同士の話し声と物音が聞こえた。初夏はその音に反応したように、隣へと繋がる壁を見た。
彼女はそちらをじーっと見て何事か考えていた後、台所に置いておいた大根――源助を見て、彼女自身のの格好を上から下まで見て、そしてまた壁を見て、最後にため息をついた。
――なんや?
バカだバカだと言われているが、時々妙に鋭い大根。そこに「何か」を感じたが、何かまでは分からなかった。
何かひらめきそうなのに、出てこない――。
源助がううーんと悩んでいると、そこでまたインターホンが鳴った。
「よくお客さんが来る日だなあ……」
初夏はひとりで呟くと夜にも関わらず、とことことドアの方へ近づいていった。この時、彼女は先程の謎の贈り物――大根の贈り主のことで頭がいっぱいであった。その贈り主がもしかしてさっきは……と再び訪ねて来てくれたのではないかと言う浅はかな期待を抱き、覗き窓を覗いても相手の姿がよく見えなかったこともあり、チェーンをつけてではあるが思わず扉を開けてしまったのであった。
「掃除機の訪問販売やってます、ホニャララクリーンという者ですが……」
「はあ……」
――しまった……。
それは運の悪いことに、ただの訪問販売であった……。
・・・・・・・・・・
初夏は自分の思うことがはっきりと言えない。子供の頃はそうではなかったが、思春期を境にそれが怖くなった。なのでこういう強引な手合いが一番苦手なのである。
しかも訪問販売員も生活が掛かっているらしく、妻や子供を養わねばならない話を涙ながらにしながら、延々とスタンド式とかぞうさん型とか空を飛ぶタイプとか様々な掃除機の話をよどみなくする上に、今ならなん洗剤とティッシュがついてくるとかなんとか……。そんなのいらない……と初夏は思うが、迫りくる相手もプロだ、彼女に口を挟む隙を与えない。
一人暮らしをしたいと実家を飛び出すように出てきたのはいいのだが、やはりこういう時は女一人だと困るし怖いものだ。それこそ家に頼れる彼氏でもいればいいが、今この家には一人きり。隣に頼る――? といっても、まずこのドアを開けてこの訪問販売員を押しのけなくてはならないし、そんな義理は隣の人々にはない。
ご家族のことはかわいそうだけど、早く諦めて帰ってくれないかなあと、買う気もない初夏は生返事を続けながら困り果てて立ち竦んでいた。
――おいおい。こないなモンがつんと一言言って断りゃええやろー。
その様子は台所に居た源助に丸見えであった。
――よお言われへんってタイプか。まあまだ若いし、これからふてぶてしくなってくやろーか。ケッコンしたり母親になれば、ちったあ強くなるかな、がんばれよ聖護院……などとそれを聞きながら勝手に考えていた源助であったが、終わらない押し問答を延々と三分も聞いているうちに、短気な彼はすぐに腹が立ってきた。
――っつうか、何やっとるんや聖護院、千載一遇のチャンスやないか、助けに来たれよ! と歯がゆくなるものの、玄関が通れない状態になっているので源助も彼を呼びにいくことも出来ない。ベランダも大根の足では飛び移れない。
といってのらりくらりと交わしてはいるが、初夏嬢が困っているのは見ていても哀れだし、人が嫌がっているのに押し売りを強要しているのにも聞いていて腹が立つ彼。
そこで源助は眼(などないけれど)を座らせると、初夏の後ろをこっそりと通り台所から六畳間へと移動した。そして彼は仕切り戸の影に隠れ、もう我慢ならないと言わんばかりに大きく息を吐いた後、すう、と息を吸い込み――、彼の中で最も低いと思われる声を、少しドスを利かせようと大きめに出したのであった。
「おい、ハツカ、いつまで待たせるんじゃ、ワレェ!」
その柄の悪い、チンピラのような方言交じりの声に、初夏も訪問販売員もぎょっと驚いた。
「あんま人のコト待たせんなや、いてまうぞ、コラ! まさか昔の男やないさかいな。もしほんなんやったら、ソイツの顎の骨ガッタガタ言わし――」
「かかか彼氏さん見えてたんですねー、それは失礼しましたー!!」
四十代位の痩せた訪問販売員は、こんな清純そうな顔してチンピラの女だなんて世の中信じらんない、訪ねた家がまずかった~と、そのガラの悪い男の声に恐れをなして、一瞬のうちに退散していった。
――いいい今のは!?
驚いたのは初夏の方である。いつの間に家に自分の名前を知っているチンピラが上がりこんでいたのか!? とそちらの方が余程怖かった。
だが何処かで聞いたことのある声と、変な方言――そう、それは隣の部屋から、そして下の畑から、ちょうど今年の春頃からたまに聞こえてくる、よく通る独特の声と同じものだったような気がした。
それでも別人かもしれない。それに隣の青年にも高校生にも会ったことはあるが、その変な言葉遣いの男にだけはまだ会ったことがなく、隣に住んでいるとは限らないのだ。
それでもタイミング的に、自分を助けてくれたように思えた。もしそうならば実はいい人なのかもしれない、と安堵もするが、どう考えてもその人物がいつの間に家の中に入ってきたか、初夏には分からなかった。
緊張しながら、特に人影も見えない六畳の方へとドキドキしながら初夏は歩いていく。
「だ、だれかいるんですか……?」
そして恐る恐る部屋を覗くと――、其処には、台所に置いておいた筈の今日玄関の前にあった大根が、リボンを巻かれたまま横たわっていた。
「え……??」
何が起こったのかわからず、初夏はぺたりとその場に腰を落とした。
なんともタイミング悪く、訪問販売員が来た時は夕食の片づけをしていて聞こえなかったくせに、源助の大きな声がした時は夕食の片づけが終わり、そろそろ風呂でも入れるかと二人でお茶を飲んで静かにまったりとしていた時間に差し掛かっていたため、隣の部屋の波限たちには源助の声は丸聞こえとなっていた。
「――!?」
しかも元々よく通る彼の声は、意図的に大きく出したのもあって、見事に波限の部屋まで薄い壁を通って聞こえてきたのであった。
「おい、今の――」
嫌でも毎日毎日聞かされてきた声だ。分からないわけがない。波限は新聞からはっと顔を上げて、風呂を入れようと立っていた青一郎を見上げた。
その眼鏡の眼と青一郎のくりくりとした眼が合った。
「え……っと……」
青一郎は嘘が得意だ。母親が死んでからは、特にそうなった。だけどこの青年にだけは嘘がつけなかった。ついたとしてもすぐに、知られてしまう。そんな気がしているから尚更ついても意味がない。
確かに生まれた時から一緒に居るのだし、青一郎の小さな変化を見逃すような人間ならば、ここまで彼も信頼しないだろう。
そして波限もそこまで愚鈍ではない。青一郎のその様子から全てを察したようだった。
「てめえら……」
彼はまるで地獄から這い上がって来るかのように低く、呟いた。
――うっわー、きたよきたよきたよ〜! 源さんのばかあ〜〜!!
青一郎は心の中で涙したが、彼を騙したのは自分たちの方だ、今更後悔してももう遅い。
波限は、だんっ! とちゃぶ台に一発拳を入れると立ち上がった。その肩が怒りに震えている。
「向こうに、あのバカが居るんだな……?」
ゆらりと自分に近づく青年に、青一郎はこくんこくんと頷くと、ごめんなさい〜と完全に白旗を揚げて全てを認めることとした。
「すみませんすみませんすみません〜」
「一応、聞くが前からあいつと彼女が知り合いだったという言うオチか……?」
「そ、それは、わかりません〜……」
いっそそういう事にしておけばよかったと青一郎は思ったが、今更嘘はつけない。
「だとすればまだいいが、覗きみてーにコソコソ忍び込んだんじゃねえだろーな……。人のプライバシー覗かれて、気分いいヤツがいると思うか!?」
青一郎が幼い頃から、叱る時に胸倉を掴んだり暴力を振るったりすることは絶対にしない波限だが、完全にキレた状態だ。悪さをして仕事で居なかった母の代わりに、彼にカミナリを食らった小さなの頃を思い出す。
確かに源助と初夏が仲良くなるという手は、寧ろ本当に波限と初夏が上手く行った時のことを考えれば中々良い手でもあったのだが、源助が大根である以上リスクが高くそんな方法は考えもしなかった。波限もまた、喋る大根など騒ぎになるのが嫌で周囲に内緒にしてきたので、その可能性は薄いと考えていた。
――とすれば考えられる状況としては、俺の為などとほざいて彼女の家に忍び込んだのか…?
イタズラがバレた子供のように、青一郎は首を竦めていた。
確かに相手が覗きを喜ぶ変態でない限り、波限のいうことは正しいからだ。たとえ波限が彼女の私生活とかお風呂とか本当は覗いてみたいと言う欲望をフツーに持っていたとしても、彼自身はそれが犯罪となることであれば絶対にそれには手を出さない性質であるので、この場合、保護責任がある少年を叱る方に理性がシフトされているのだろう。
それが分かっているだけに、「とにかくごめんなさいー」と青一郎はひたすら謝ることに徹する。
青一郎の様子や彼の年齢からしても、これだけ言えば反省するだろうことは波限にも分かった。なので彼はそれ以上何も言わずに、今度は玄関へと向かった。
「なぎささん、どこへ!?」
「連れ戻しに行く」
ちらりと置時計を見れば午後八時半。――まだ失礼な時間ではない。
キレた波限にとって、今は彼女と話すことが照れ臭いとかそんな事は関係ない。
他人のプライバシーに土足で上がりこんだあのバカ大根をさっさと連れ戻して一発怒鳴らないと気が済まないのだ。
源助が声を出したことからしても、彼女はもう喋る大根の存在に気付いているだろう、と彼は察した。それが己の差し金だと思い、自分を軽蔑しているかもしれないが、今はそんなことよりも彼女――しかも惚れている女――に迷惑を掛けているこの状況の方が、波限には腹立たしかったのだ。
波限のこういう部分は青一郎もよく知っていたが、本当に許せないと彼が怒りを感じた上での行動であるので、誰にも止めることなど出来ない。だがそこではっと「あること」に気付いた青一郎は、これだけは言わねばと、波限の前に立ちふさがった。
「ちちちちちょっと待ってください!」
「何だよ!?」
「なぎささんほどの方が気付かないんですか!? 今、源助さんの声が聞こえたでしょう?」
波限は「ああ?」と眉を寄せて、必死で自分に訴えかける背の低い青一郎を見下ろした。
「おれたちいつも三人でうるさくしてたし、お隣はいつも一人で静かだったから気付かなかったけれど、――そういうことなんですよ! 源さんの声って特によく通るんですよ! てことは、」
隣に住むのは静かに日々を過ごす女性が一人――。
「こんなボロアパートの薄い壁、既に、おれたちの会話なんて……その、なぎささんがはつかさんのこと好きだとか……今更ですが、お隣まで筒抜けだったんじゃ、ないですか……?」
恐る恐る自分を見上げて言う青一郎の仮定に今頃気付いた間抜けな青年は、ガラガラと足元が崩れ落ちていくような感覚に目眩を覚えていた……。
◇拍手&簡易メッセ◇
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