ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
4本目
壁(2)
 ……一体、何の話をしとるんだ……!
 普段の話し声はよく聞こえないものの、薄い壁一枚だ。源助のよく通る声は静かにしていれば、少し大きいだけで隣の波限の部屋まで聞こえてくる。
 波限には青一郎の話声は聞こえず、最後の源助の台詞だけが丸聞こえだった。
 ――何が恋だか……いい歳こいて。
 頑張るとか頑張らないとか、もうどうでもいい。余程の奇跡でも起こらん限り初夏とどうこうなるなどもう無理だろう。
 別に隣に住んでるだけ。ただそれだけなのだから、最初から無かったと同じことなのだ。無かったことにすればいい。諦めることには慣れている。
 今思えば、波限は自分の居場所を作るために必死であった。一番長く世話になり優しくしてくれた青一郎の母親にこれから孝行をしようと思っていたところ、それは果たされなかった。だから今は、彼女の望みでもある青一郎だけはまっとうな大人にすることを第一に、彼の自立を促しながらも、進学に必要な環境と未成年に出来ないことには力になろうと思っている。
 その先は……おそらくまた一人に戻って、今ならもう社会的にも居場所はあるし、明日リストラされるような職場でもないから、ただ好きなように生活していくだけだろう。
 波限にも三大欲求は普通にあった。そして自分という存在を求められることはたとえ仮初のものでも錯覚であっても嬉しかったので、女性と交際をしたこともある。ただその理由だけでは相手の欲求とそりが合わず、互いの気持ちが冷め、あっさりと別れを迎えてしまったのだが。
 それから間もなく青一郎の母親が死に、彼が此処に来て毎日の生活に追われているうちに、わざわざ異性とそういう付き合いを持つことが面倒になって遠ざかっていた。

 ――なのに、あの笑顔に惹かれた理由は何だったのか。

 ただ単に久々に女を抱きたかっただけか、それとも本当は癒されたかったのか、寂しかったのか。
 無かったことにしようと、波限も忘れようとするのだが、すればするほど、鬱陶しいほどにしとやかな笑顔は脳裏にちらつく。
 だがこのような古く狭いアパートに、一生住むことはお互い絶対にないだろう。だからきっといつか離れることになり、こんな想いも時間が解決する筈だ――波限はそう信じていた。
 そんなことを考えていた彼は、眠れずに布団の中で闇を睨んでいた。しかしやはり眠れないので、起き上がると眼鏡を掛けて梅雨の合間の晴れた月の夜、ベランダの外に出た。
 煙草は随分前に止めたが、こういう気分の時には吸いたくなってくるものだ。
 夕方まで雨が降っていたので空には黒い雲もまだ残っているものの、天頂に浮かぼうとする大きな月が裏庭の実のつき始めたナスとトマトを照らし、水溜りが月の光を反射していた。
 隣の青一郎の部屋には明かりが灯り、まだ二人は話をしているらしい。大根と話が弾む男子高校生……やはり彼はどんな大人になるのだろうかと末恐ろしくなる。だが青一郎はとにかく交友関係が広いし、男女共に好かれているようなので将来を心配するようなこともないだろう、と安心して見てもいる。
 そこで波限は反対側の隣の部屋を何気なく――と言っても少々意識して、見る。
 その部屋はまだ明かりが点いていた。
 ――まあまだ十一時前だしな。
 波限は月のクレーターをぼんやり見ながら、あれはやっぱりウサギには見えないっつうか、エビだかカニだかに見えるとか、夏休みの一研究をしていた小学生の青一郎に聞かされたような事を、ふと思い出していた。

 すると前触れもなく、隣の初夏の家の窓がカラカラと開く音が聞こえた。
 隣の部屋とはベランダは一続きではなく、離れている。なので覗き込まなくても、横を向くだけでそれは確認できた。其処から女がひとり、顔を出した。
「――」
 見てはいけない、と思ったが思わず見てしまう。
 初夏はいつものように髪の毛を下で二つに分けて縛っておらず、風呂上りなのか肩までの長さの下ろした髪の下に、タオルを掛けていた。部屋着のTシャツ姿のようである。雨が降っていないか確認でもしているかのように夜空を見上げた。そこで波限の視線に気付いた彼女は振り向いてしまった。
 ――あ、やばい。
 覗きと間違えられたらいかんと思った波限は、自分も天気でも見たかったとでも言うように空々しく下や上を見た後、そそくさと部屋へ入っていった。
「こんばんは」、とでも言おうとしたのだろうか。彼女の口が少し動いた気がしたが、それ以上見続けることも出来なかった。逆に今度はカラカラと窓が開き、閉まっていく音の方を初夏が見送っていた。

 ――たった壁一枚なのに、なにひとつ声が掛けられない、遠い距離。
 そう思ったのはどちらだったのか。

 部屋の中に入った波限は、思わずそのまま床に座り込んだ。
 ぐしゃりと髪をかき上げる。大根や青一郎が居なくてよかった、と心から思った。彼は自分でも、とても複雑で赤い顔をしていることが分かるからだ。
 ……コーコーセーじゃ、あるまいに……。なんなんだ、この純情は。
 本当は出てこないかと期待していたのだ。それが叶い、高鳴った胸。単純に嬉しかった――それらの一連の心の流れから、彼は遂に見たくなくても「答え」が見えてしまったのだ。
 そこからずっと逃げ続けていたが、こんなふとしたことで、それを「自覚」してしまった。そしてその答えは理屈を並べ続けていた割には、呆気ないほど簡単でシンプルなものだった。
 ――無しにしようと思ったばかりなのに。
 どうにかしようと思ってどうにか出来たら、苦労はしない気持ち。こういうものは自分で認めたら、多分最後なのだ。妄執に取り付かれる。
 こんな嘘みたいなただの憧れが、現実にそうなってしまうことが波限は悔しかった。つまらない事に心惑わされたくもない、と思い続けていたからだ。
 梅雨の夜。仄かな恋心に気付いた一人の青年は、こんな感情も時間が経てば消え去ってくれるだろうか――と、まだ逃げ続けることを考えていた。
 
 ・・・・・・・・・・

 しかし波限が気持ちを自覚して認めたからと言って、何の状況が変わるわけでもない。
 会いたくても会える相手でもなく、顔が見られるわけでも声を聞けるわけでも、ましてや触れることなんて叶いやしない。波限はただ普通に、いつもと変わらない日々を過ごすだけだった。
 最近、暑くなってきたので聖護院及び宮重家では何にでも大根おろしを混ぜることが流行っている。大根に豊富に含まれる消化酵素は熱に弱いので、生のまま食すといいのだ。揚げ物や焼き魚に掛けてさっぱりいただくのも、おつなものである。
 三者面談も無事に終わった――と言っても青一郎は学校での態度も成績も非常によろしいので常に何も問題はなかったのだが、七月初旬の日曜日の夕方、今日は波限が食事当番であるので、彼は力を込めて大根おろしをごしゅごしゅっと磨っていた。ちなみに辛いほうが好きなので末端を使っている。
 夕焼けの光が差し込む六畳間で、大根おろしとあえる唐揚げの下準備を終えた源助が、とてとて、と大根を卸す波限に近づいてきた。
「――なあ、」
 本人は青一郎の居ない時でなおかつ何気ないことを装えるように、夕食の準備の時間を狙って言ったようだった。
「……前の彼女の前では笑うてたん?」
 唐突な源助の質問に、波限は勢い余って大根をおろし金からはみ出させてしまった。
 ちゃぶ台に大根おろしが飛び散り、勿体ないとテイッシュで片付ける。
「覚えてねえよ」
 ――なんで今更そんな昔の話を。この前言ってた愛想がない云々の話の続きだろうか。
 確かに無理に笑っても変な顔になるだけだから、愛想笑いはしない方がましだと彼は思っているが、それが災いして誤解されることはいつものことだ。
 源助は「ふうん」と特に答えを求めていなかったように頷くと、少し間を置いた後に、核心に触れるべく重い口を開いた。

「気ぃ悪くしたら堪忍な」
 珍しく気を遣う大根の言葉に波限は思わず手を止めて彼を見た。今は暇な時期だからお節介を焼くことにパワーが向かっている、と言えばそれまでであったが、源助には青一郎とこの前の話をしてからどこか引っかかっていた。人の心に土足で踏み入ることは大根の流儀に反するが、人の幸せを情厚く誰よりも願うのも大根だ。
 ――聖護院が心から幸せになる為には、「この部分」を解決しないことには無理なような気がする。きっとマイラバーの清白様でも同じ考えに至るだろう、そう思った源助は真面目な口調で語り掛ける。
「あんなあ、嫌なこと思い出させて悪いけど……宮重から聞いたんやけどなあ、宮重のかーちゃん死んだ時、聖護院、泣かへんかったんやて?」
 その途端源助の予想どおりに、青年は何で今頃、しかもお前が、と言うような何とも言えない表情をした。だが意外に怒ったりはしなかった。源助の尋ね方が遠慮がちであったので、なんで彼がそんな質問をしたのかの答えを待っているようであった。
 源助は青一郎の話から感じた違和感を素直に伝えた。
「オトコはな、本当に好きな女と自分の親とか家族が死んだ時は泣いてもええんやってワシは習ったで」
 ――じゃあテメエは何なんだよ、と感情豊かな大根を見て波限は今度こそ突っ込もうかと口を開きかけた。しかし、心配そうに自分を覗き込む――これも目に見える表情がなくとも分かるようになってしまったのだが――大根の様子と、先程の「笑ったことはあるのか?」の質問から、彼が何を聞きたいのか、言おうとしているのか波限は察した。
 それはきっと、源助にその話をしてしまった青一郎も同じ気持ちなのだろう、と。もう二度とあの日のことは話題に上ることもないだろうが、どこかで未だに青一郎も気にしているのだろう。子供にそんな風に気を遣わせていることを、波限も悪いとは思っているのだが。
 だから怒ることも突っ込むこともなく、波限は源助の疑問に答えた。
「……別に、『家族』じゃないと思っているわけじゃない、あの人も俺にそう呼ばせてくれた」
 ――けれど。
 波限はその先を言わなかった。
 言わなかったのはわざと言わなかったのではなく、言う言葉が見つからなかったのだ。
 言う言葉がどうしても見つからず、どんな言葉で表せばよいのかも分からず、その代弁として、そんな自分への嘲笑もきっと含めて、波限はただ静かに、微かに――笑ったような、顔をした。
 それはきっと『あの時』も同じで――。

 源助は更に青一郎から聞いた話を思い出していた。その現場を見ていなかったが、流石に彼にも分かった。
 青一郎はこう言った。
 ――葬儀はひっそりと二人だけで行った。青一郎が波限に母の突然の死を知らせた時も、彼が病院に駆けつけた時も、通夜の時も、火葬の時も、骨を拾う時も……彼は一滴の涙も流さなかった。その帰り道、青一郎は何度流したか分からない涙を拭い、鼻水を啜りながら目の前を歩く波限の広い背中を見ていたが、それはいつもと変わらない頼りがいのあるもので、勿論辛い表情はしていたもののやはり涙は見せなかった。
 別に咎めるつもりもなかった。ふと疑問に思っただけだった。いや、八つ当たりかもしれなかった。そして自分に感情をぶつけてくれない、この最後に残った「家族」に苛立っていたのかも知れなかった。
 ひとつだけ分かるのは、自分が子供だったということだ、と青一郎は源助に苦笑して言った。
 まだ中学生だった青一郎が波限の背中に投げかけた言葉は――、
『……泣かないんだね』
と一言。
 その言葉に彼は青一郎を振り向いた。
 そして静かに、だけど決して愉快だからなのではなく、それは泣いているのと変わらないような表情で、いやそれ以上に彼自身を責めて詰っているような何とも言えない切ない顔で、波限は微かに――笑った。

 他人の気持ちなど、誰にも分からない。
 青一郎の気持ちが波限には分からないように、青一郎も波限の気持ちも、傷の深さも分からない。
 ……だけどきっとその時の笑顔と今のこの笑顔は似ているんだろうな、と源助は思った。
 流石のお喋りな源助も軽々しい言葉は口に出来なかった。

 そして、青一郎は苦笑したままこうも言った。
『でもね、あんな笑顔だけは、もう二度と見たくないんですよ』

 ――うん、分かるで。ワシも一緒や。

 その後、気まずくなった二人の会話は途切れ、大根おろしを磨る音だけが夕暮れの部屋に響いていた。
 青一郎が帰ってくる頃には、いつもの家の様子に戻っていたが、この時源助大根は、あることを決意したのであった。
 

◇拍手&簡易メッセ◇

個人サイト(※R15/続編有り)>「碧落の砂時計」TOPへ


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。