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午後4時44分44秒

作者:天崎 剣
 学校の噂話なんて、大抵眉唾物ばっかりで、子供じみていて面白くない。大人になって「馬鹿らしい」「くだらない」と思うようなことを、子供は平気で信じてしまうから、あんなにもつまらない話ばかりなんだ、と、(りつ)はいつも思っていた。
 夏休みが近付き、六年一組のクラス中が、律にとってそんなどうでもいい話題で持ち切りだった。
 大抵夏となると、すぐに怪談話や肝試しをしたがる人間が現れる。
 律の隣に住む、敏志(さとし)も、こんなどうでもいい話題の中心になりたがる人物で、はっきり言って迷惑していた。敏志については、マンションの隣の部屋同士というだけで、律は特にこれといって、友情すら感じてはいなかった。しかし、鈍感で、その上子供くさい敏志は、彼女の気持ちを一切無視して、教室の隅っこで塾の時間までの暇つぶしをしていた彼女を、無理矢理その場へと誘ってしまう。
「でさ、最近うちの姉ちゃんに聞いたんだけどさ」
 敏志は目を輝かせて、机の上に胡坐(あぐら)を掻き、まるで講談でもするかのように、放課後の教室に集めたクラスの男女十数人の前で大声を張り上げた。
「この学校にもあるらしいんだよ、七不思議ってやつがさぁ!」
 おどろおどろしく言って見せたつもりだろうが、あまりにも下らな過ぎて、フンと鼻で笑う律。何かあるとすぐに「姉ちゃんが……」と言う、シスコンとも思えるこの敏志の台詞は、六年間の小学校生活で聞き飽きた。
 敏志の姉は三コ上で、今年、中学三年生。弟が可愛くて堪らないらしく、偶に社交辞令でお邪魔すると、二人で仲良くお出迎えしてくれる上に、ちょこちょこ顔を出してはちょっかいを出してくる。敏志とその姉の中のよさは、少子化で兄弟のいない一人っ子たちの憧れの的だったりするわけで、律だって、どこかしらそのようなものを感じていなかったわけではない。が、あまりにも仲がよすぎて腹が立つことだってある。
「でね、でね、でね、その不思議って奴が、また、凄いんだよ……」
 声を潜めて、目を細くし、口をにーっといやらしそうに吊り上げ、興味を引く。
 終業式間近で、少しずつ学校の道具を持ち帰っている児童が多いせいか、いつもよりがらんとした教室に、敏志の声がよく響く。夏の夕暮れは遅いので、日が傾いていたりはしないのだが、こういった話をすると、なんだかいつもより薄暗いような錯覚に囚われる。
「まず、一つ目。音楽室のピアノ。夜中にベートーベンの絵がすうっと抜け出してさ、ピアノを演奏してるんだって」
「二つ目は、理科室の標本。夜中、二階の廊下を疾走してるらしいぜ」
「三つ目、体育館で、人もいないのに、跳ね回るバスケットボール。ポンポン跳ねて、ガラスを割ったこともあるらしいんだよ」
「四つ目は、特別教室棟の女子トイレのおくから二番目。花子さんが、トイレの穴に引きずり込もうと……」
「五つ目は、校庭の二宮金次郎が、一人で遅くまで残っている生徒を後ろから追いかけて……」
「六つ目は、視聴覚室の一番窓側の席の一番後ろの席で、女の子が啜り泣きを……」
 聞けば聞くほど身の毛がよだち、プルプルと震えながら、鳥肌のたった二の腕を擦る人が大部分。怪談好きは、にやにやと嬉しそうに、「次は?」「次は?」と、敏志を急かし、場を盛り上げる。
 そんな中で律だけは、「馬鹿らしい。こんな話聞くくらいなら、塾に行ってた方がまし」と、白けきっていた。腕組みをして、トントンと足を鳴らし、いらいら感を場にアピールする。……それで気が付いてくれるような男であれば、こんな子供じみたことはしないだろう、と、思いながらも、律は敏志の話に耳を傾けていた。
「最後、七つ目。とびきり怖いから、みんなくっついてたほうがいいぜ〜。ひや〜っとするからさ」
 敏志は最高潮に達したこの雰囲気を壊さないように、自分の机の周りにぐるっと人を屈ませて、神妙に語りだす。律も仕方なしに、その輪に混ざる。
「この学校ってさ、四つ階段があるじゃん。こう、L字型になっている校舎の(敏志は宙に校舎の形を書いてみせる)、一番北側にある、殆ど使われてない、ここの階段。(Lの先っぽを指差す)そこに、おっそろしい伝説があるんだよ」
「え〜、あそこ〜? 気味悪い」一人の女子が言う。
「いつも湿ってる感じ。大体、あそこがなくたって、困らないし」別の女子。
「校舎自体が古いんだよ。鉄筋コンクリートっていってもさ、ウチの親の世代からのまんまだぜ〜。あっちこっち継ぎ接ぎだらけだし。気持ち悪いんだよ、夜中に学校を遠目に見るだけでもさ」
「そうそう、建て替えすればいいのにって思うよ! するとさ、大人たちは『少子化だから今から建て直したって、子供の数が足りなくて勿体無い』『校舎はまだまだ現役』とか、言い訳するしさ! オンボロに通学する子供の身にもなってみろって!」
 口々に校舎への不満をぶちまける。
 律もこれには納得し、うんうんと頷いた。怪談は嫌いだが、こういうトークは好きだ。
「あー、はいはい、盛り上がってるところ悪いんだけど、続き行くよ〜」
 パンパン、敏志の「俺に注目せよ」の合図の手拍子。
 シーンと静まり返り、また、敏志の怪談へ戻る。
「あそこの階段の真下の辺りには、昔、墓地があったんだ。学校を作る際、土地が足りなくて、一部墓地を埋め立ててその上に校舎を建てちゃったんだよ。……そのせいで、あそこには、墓を失った霊がうろうろしているらしいんだ」
 ごくり、みな唾をのむ。確かに、他のよりずっと生々しい。寒気がする。怖がりの女子(律以外の全員)は固まって、手を握り合って何とかして恐怖から逃れようとしている。男子の中にも、怖くて堪らなくなり、あちこち見回しながら(お化けがいないか確認でもするかのように)、肩なり膝なりを必死に擦っている者がいる。
「その霊が、あそこに、異空間を作り上げて、引きずり込むらしいんだ。──あ。いつも、じゃないよ。特別な時間だけ。いつもだったら、用務員のおじさんあたり、いつも行方不明になってなきゃいけないじゃん。だから、その辺はどうも、考慮されてるらしくて」
「何それ。それこそ眉唾もんじゃない」
 それまで黙っていた律だが、思わず、敏志にブーイングを浴びせた。
 ぱっと、緊張の糸が途切れ、みんなが一斉に律を見る。まるで、「せっかく面白かったのに」と言わんばかりに白けた目が律に集まる。
「まあまあ、律、ちょっと最後まで聞けよ。せっかくだからさ」
 ちょっと高い視点から見下ろす敏志に、周りのクラスメイトたちに、圧倒されて、律は口を閉じた。
「そこの階段の四段目を……、『午後四時四十四分四十四秒』に上がったとき、異世界への扉が開かれるんだよ……。四段目がすう〜っと消えて、大きな穴に引きずり込まれるんだ……! ──永遠の闇の中にさぁ〜!!」
 ぞわぞわーっと、鳥肌の波が、一気に少年少女たちの間を伝う。
「キャー!!」黄色い声。恐怖からくるのか、楽しんでいるのか。
 騒ぎ立てる敏志を、律はあきれた顔で見ていた。はっきり言って、付き合ってられないと思った。いつまでもバカ騒ぎをして……。律には、敏志の怪談に一喜一憂しているのが鬱陶しく、馬鹿馬鹿しく見えていた。
 怪談話が一息つくと、律はクラスメイトを横目に、一人で席を立つ。
 今日も塾がある。少し日が傾いてきた。
 七月の終わり、ぎらぎらと照りつけていた日差しの残りが、夕暮れ時になってもまだ、教室に漂っていた。


 終業式。
 敏志はクラスの有志を集めて、肝試しをしようと提案してきた。
 律は参加などしたくなかったのだが、頼みの綱の敏志が、「夏休みの宿題、見せてやらねぇぞ」というので、仕方なく参加することになってしまった。律は毎年、敏志とその姉に、宿題の手伝いをしてもらっていたのだ。
 終業式の日は授業がなく、お昼前に解散になる。お昼ご飯を食べ、再び学校に集まった六年一組の十人は、敏志を囲って、教室でこれから起こるだろうとびっきり怖い事件を、一方でハラハラしながら、一方では待ちきれないくらいドキドキして待っていた。
「それじゃ、そろそろだな。四時四十四分に検証に行こうぜ〜! うひひひひ〜。怖がって逃げんなよ〜!」
 敏志はばしばしとクラスメイトの肩を叩きながら、付いて来い、と言わんばかりに悠々と教室から出て行く。
「敏志って、そういうの好きよね」
 律の友達の、奈々子が敏志の後ろ姿を追いかけながらそう言った。奈々子は律の数少ない、気を許せる友人だ。
「あいつはね、ああやって、クラスの話題をかっさらうのが楽しくてしょうがないんだよ」
 律は奈々子に皮肉たっぷりに言ってやった。どうやら、奈々子は敏志に気があるらしい。
 敏志は人気者だ。いたずらっぽく、目立ちたがり屋、それに、面倒見もいい。新しいものを仕入れてくるのは、いつも敏志。今回の怪談だって、敏志が原因で大盛り上がりしている。敏志には、そういう、人を惹きつける才能がある。本当は、律はそれが羨ましいだけなのかもしれない。
 校舎の二階の廊下をずんずんと北側へ向かって歩いていく。
 廊下の窓からは、暑い夏の日差しに照りつけられた瓦屋根たちが湯気を出しているのが見える。道路を行き交う車も、どこか暑苦しそうに、ゆらゆら揺れて、のろのろ運転をしている。
 校庭の木々に止まった蝉たちの大合唱。たまに、そのなかにさおだけ屋の懐かしい声が、溶け込むように混じってくる。
 暑い、夏の日。北側にある階段だけは、何故か凍ったように、涼しい空気が漂っている。それは、階段側のすぐ隣にある、倉庫の壁がすぐそこに迫っていて、殆ど隙間なく、そこに設けられた窓を塞いでいるからなのか。それとも、本当に、昔墓地だったからなのか。
「まず、普通に下りてみようよ。まだ、少し時間があるからさ」
 敏志に誘導され、二つに折れた階段を、そっと下りていく。
 律も内心怯えながら、クラスメイトにくっついて下りる。
 何事もなく、みんなが階下に集まり、胸を撫で下ろす。
「さて、時計を持ってきたんだけどさ、あと、五分と四十五秒。誰が行く? 一人で行く? 数人で行く?」
 腕時計を掲げる敏志の呼びかけに、生唾を飲み、互いに顔を見合わせる面々。
「一人よりは……、何人かで行ったほうが……」
「怖いしねぇ」
「じゃ、やってみたい人。──あ。勿論、俺はやるよ」
 敏志は、最初からそういうつもりだったらしい。
「私もやるわよ。どうせ、眉唾でしょ。敏志の話が出鱈目だって証明する、いい機会じゃない」
 堂々と言い放つ律に、みんなが息を呑む。敏志だけは、「へぇ、上等!」と、にやにやしている。
 他に候補者もなく、結局律と敏志だけが、四時四十四分四十四秒の検証をすることになった。
 二人は手を繋いで、階段を仰ぎ見た。三段目までゆっくり上がり、その時間を待った。カチカチと、敏志の腕の中でアナログ時計が時を刻む。
 全ての時間がそこに凝縮されたように、誰もが皆、四段目を見つめていた。
 次第に、心なしか冷たい風が、彼らの隙間を漂うようになる。もともと薄暗い階段が、妙に気持ち悪く、カビっぽい臭いが、更にそれを煽る。
 知らず知らずのうちに、怖さで肩が震えていた。
 寒気がし、鳥肌が立つ。
 律は自分の中の「怯え」を敏志に悟られまいと、必死に歯を食いしばった。
 それを知ってか知らずか、律の左手を握った敏志の手に、ぐっと、力が入った。
 ドキッとして、律は敏志を見る。敏志はそ知らぬ顔で、左手にはめた腕時計を見つめている。
「行くよ……三十五……三十六、三十七、三十八、三十九、四十……四十一、四十二……」
 敏志のカウント。
 律は片足を上げて、タイミングを待った。
「四十三……四十四!!」
 ズン、二人の右足が、同時に四段目に足を掛ける。
 ……と、律は、身体がフッと、重くなり、落ちていく感覚を覚えた。
 気が付くと、階段にしがみ付いている自分がいた。
(何が起こったの……?! 転んだ……?)
 違った。
 四段目が、無い、のだ。
(ほ、ホントに……?!)
 律の右足は、四段目に吸い込まれ、三段目に残った左足と、右手の肘で、何とか身体を支えていた。そして、左手を握った敏志が……。
(さ、敏志……!)
 いない。
 敏志など、どこにもいなかった。
 すっぽり抜けた、四段目に、先に呑み込まれてしまったのか。
 敏志の手の変わりに、彼の腕時計が、律の左手から覗いている。
 姿の見えない何か真っ黒いものが、律の周りにまとわりつき、四段目の穴へと誘い込んでくる。
(嫌だ……、怖い……、行きたくない……!)
 恐ろしさのあまり、涙が止まらなかった。
 鼻水を啜り、階段をよじ登る。
(敏志が消えた……、誰も、助けに来ない……)
 階段の下で見ているはずの、友達の声もしない。
 あんなに、わずらわしく鳴いていた蝉の声も、さおだけ屋の声も、そのときの律の耳には届かなかった。
 まるで、階段という空間に、律がたった一人、閉じ込められてしまったかのように。
(怖い、怖いよ、助けて……! 敏志……!)


「律! 大丈夫?! 転んだりして……!」
 奈々子の声。
 律ははっとして、顔を見上げた。
 クラスのみんなが、律を心配そうに見つめている。
 少し薄暗い階段の途中に、律は身体をうつ伏せて倒れていた。
 蝉の声と、さおだけ屋の声が、律の耳に戻ってきた。
「さ、敏志は?! 敏志はどこ?!」
 体勢を直すと、律は奈々子に聞き返した。
「さとし……って、誰?」
 奈々子は首を(かし)げた。
「誰って……、あんたの好きな、クラスメイトの敏志だよ。ほら、ウチの隣に住んでる……」
 律は必要以上に説明した。なんだか嫌な予感がしていた。
「敏志なんて、ウチのクラスにはいないよ?」別の子が言った。
「何、みんな冗談言わないでよ。私、さっきまで、敏志と一緒に階段を……」
 全身からどっと汗を噴き出す。まるで、律の言うことのほうが、嘘のような雰囲気。
 一体、今、何が起こったのか、理解できない。
 四段目を踏んだ途端に、何かが変わってしまったとしか思えない。
「律は、一人で階段を上がったんだよ?」と、奈々子。
「違う! 大体、元はといえば、敏志が怪談話をみんなに持ちかけたんじゃない、忘れたの?!」反論する律。
「あれ? 最初に階段の話をしたのって、律じゃなかった?」
「そうそう、面白い話があるって、みんなを集めて……」
 口々に、律の認識と違う事実を語るクラスメイトたち。
(おかしい、敏志が、完全にいなくなってる……。敏志は……、敏志は、四段目の闇に呑み込まれて、本当に、『消えてしまった』んだ……!)
 ぞぞぞぞっと、全身から血の気が引いていく。
 本当だった。敏志の話は本当だった。
『四段目がすう〜っと消えて、大きな穴に引きずり込まれるんだ……! 
──永遠の闇の中にさぁ〜!!』
 冗談なんかじゃない。
 敏志は、あの階段の闇の中に呑まれてしまったんだ。
 永遠の闇の中に……!
 律は慌てて階段を駆け下りた。
(嘘だ、嘘だ、敏志がいなくなったなんて、嘘だ!)
 律は心の中で叫んだ。
 言いようの無い不安が、律の中を覆いつくす。
 同時に、もしかしたら、自分の中で密かに、敏志のことを好きだったかも知れない、という、抑えていた感情が噴き出してくる。
(どうして、どうしてこうなる前に、敏志に素直になれなかったんだろう……! 私が、あの場で止めていたら、敏志はいなくならなかったのに……!)
 走って、走って、学校を飛び出し、校門を抜け、廃れた商店街を駆け抜け、住宅地に入り、自宅マンションの、隣の敏志の部屋のチャイムを鳴らす。
「おばさん、おばさん! お姉さんでもいい……! 誰か……!!」
 足を鳴らし、ドアを打つ。
「りっちゃん、どうしたの?」
 敏志の姉が慌ててドアを開ける。律の様子がおかしいのに気付き、心配そうに律を見下ろしている。
 律は息を整え、震えてかみ合わない奥歯を必死にかみ合わせながら、敏志の姉に訴えた。
「敏志が、……敏志が、消えちゃった! どうしよう、お姉さん……!!」
 涙でぐしゃぐしゃになった律を、敏志の姉は、稀有なものでも見るかのよう。首を傾げ、ゆっくりと律の頭を撫ぜた。
「ねえ、その、『敏志』って子、どうしたの? どこか遠くへ行ってしまったの?」
 律ははっとした。
 友達だけじゃない、家族の中からも、敏志が消えている。
「お姉さん、敏志だよ、わからないの? 弟でしょ? いつも仲良く遊んでたじゃない……!」
「何言ってんの? りっちゃん。私は一人っ子だよ? 忘れたの?」
 左手に握り締めたままの腕時計が、まだカチカチと鳴っていた。
 自分以外の人間から、『敏志』という人物が、きれいさっぱり、最初からいなかったかのように消えてしまった……!
(嘘だ、敏志はいた……! 間違いなく、ずっと一緒に……!)
「じゃ、じゃあ、この時計は? この時計は、誰の? おじさんのじゃないの……?」
 律は左手を突き出した。広げた掌から、シルバーの、男物の腕時計が現れた。
「コレは……」
 敏志の姉は、驚いたようにその腕時計を取り上げ、まじまじと見つめた。
「コレ、うちのお父さんが、三日前に失くしたやつ……。どうしてりっちゃんが持ってるの? まさかりっちゃんが……」
「違うよ。敏志が持ってたんだよ」
 律は、彼女の手の中から時計を奪って、叫んだ。
「敏志は、いたんだ……! どうして忘れちゃうの? こんなに大切なことなのに! どうしてみんな、いないなんて言うの?! みんな、おかしいよ!」
 敏志の姉は、そういい残して隣の部屋に消えた律を、不思議そうに見つめていた。


 敏志が消えてから二週間。
 八月に入っていた。
 律は宿題に手をつけることも、塾に行くことも、プールに行くことも出来なかった。友達と遊ぶなんて、到底考えられることではなかった。
(敏志がいない夏休みなんて、ありえないよ……)
 自分の部屋に引きこもって、机に伏して過ごす日々。両親に説明しても、理解してくれなかった。「お隣に『敏志』なんて子はいない」の一点張り。
 敏志の残した、彼の父親の腕時計を見つめながら、時間が過ぎていくのを感じていた。カチカチと、敏志がいなくなってもまだ、時を刻み続ける。
「敏志を……、何とかして助けないと……」
 律は自分を奮い立たせ、立ち上がると、学校に向かった。
 夏休み中も、図書館やプールを開放しているため、入るのは容易だった。例え律がひとり、険悪な表情で北側の階段に向かっていたとしても、気に留めるものもいなかった。
 敏志の残した腕時計を握り締め、律は階段の下で時間を待った。
「午後四時四十四分四十四秒……。早く……」
 律の小さな両手の中で、大人物の時計が、大きく音を立てて秒針を鳴らす。
(きっと、敏志は帰ってくる。大丈夫。ここでいなくなったんだから、きっと、まだここにいる)
 自分に言い聞かせて、階段を仰ぐ。
 あの時と同じ、重い空気が漂ってきた。もうすぐ時間だ。
 敏志がいなくなった日、律は敏志の手を握っていた。でも今は、敏志はいない。周りで見ていた友達もいない。たったひとり、敏志を助けるために、同じところに立っている。
(敏志……、きっと、きっと、助けるから……!)
 鼓動が高鳴り、自分が呼吸する音が、鬱陶しいくらい大きく聞こえてくる。
(大丈夫、大丈夫……)
 一歩、一歩、階段を踏みしめる。
(あの時と同じようにすればいいんだ、そうすればきっと、敏志を連れ戻せる)
 律は何故かそう思い込んでいた。
 ただただ、敏志を救いたいという想いが、律を動かしている。
 三段目。あと一段。時計を見る。あと三十秒。
「大丈夫、敏志はいる……。帰ってくる」
 カチ、カチ、カチ……。
「三十五、三十六、三十七……三十八、三十九、四十……四十一……」
 右足を上げる。
「四十二……四十三、四十四!」

 律は息を呑んだ。
「あ、あれ……?」
 四段目に、立っていた。
 穴が開かない。吸い込まれることも、ない。
「なんで……? 何で落っこちないの……?」
 予定では、穴が開いて、そこへ飛び込んで、敏志を助けに行くつもりだったのに。もしかしたら、本当に、あの出来事は嘘だったんじゃないかとすら思えてしまう。
「敏志、帰ってこないじゃん……!」
 気が抜け、屈みこんだ。──と、左手だけが、身体に付いてこない。何故か、高い位置に留まったままだ。
 律は隣に気配を感じて、そっと、顔を上げた。
 律の手を、誰かが握っている。律より少し大きい、子供の手。プールに入りすぎて、真っ黒に日焼けした、男の子の手。
「ただいま」
 敏志だった。
 照れくさそうに、律を見つめている。あのときのまま、左手に、律が握り締めていたはずの腕時計をして、はにかんでいる。
「敏志……! よかった、よかった……!」
 律は憑き物が取れたように座り込み、大声で泣き出した。敏志の前では泣いたことはなかったが、そんなことはどうでもよくなった。
 涙で、敏志の顔が滲んでいた。
 あまりの大声に、敏志は驚いて屈むと律を抱きしめた。
「ごめん、そしてありがとう」
 短い言葉に、敏志の想いが詰まっている。
 階段の冷たさと、敏志のぬくもりが、痛いくらい律に覆いかぶさった。
「お帰り、敏志……」


 夏休みは、いつもと同じように、それから何事も無く過ぎていった。
 毎年の如く宿題を丸写しするために、敏志のところを訪れ、その姉に手伝ってもらって、作文や自由研究をこなした。
 誰も、あの事件を口にする者は無い。今度は、「敏志が消えた事件」が、起こらなかったかのように。
 午後四時四十四分四十四秒の、北側の階段の噂は、その年でぷっつりと途切れた。もし、その噂話をすれば、きっとまた同じことが起こってしまうだろうと、敏志と律が口を噤んだからだ。
 不思議なことに、怪談話の七つ目は、「夏休みの夕暮れにに学校を徘徊するランドセル」に変わっていた。「学校が待ちきれず、ランドセルを背負ってうろうろする霊がいる」そうである。
 それでも、もしかしたら、その学校では、また同じことが起きてしまうかもしれない。くだらない噂が大好きな子供たちが、数字の組み合わせから、そんなこともありえると、面白半分に試してしまうかも。
 そうなったとしたら、敏志と同じように帰ってこられる子供はいるだろうか?
 律のように、助けに行く子供は……?
Fantastic Cafe
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