水底の都 ―『耳無し芳一の話』―
小泉八雲『耳無し芳一の話』を平家側から見たおはなしです。原作の方を読んでから読むことをおすすめします。著作権が切れていますので、青空文庫で読むこともできます。
響き渡る雄叫び、女子どもの泣き叫ぶ声。舟はまるで木の葉のように波に遊ばれ、真っ赤に染まった海がすべてを呑みこんでいく。栄華もいのちも、風の前の塵と違いなど無かった。
もうあれからどれほどの時が過ぎただろうか。暗く冷たいなかで、老女は漂うように古の記憶を眺めていた。
憎い…苦しい…悲しい……そんな思いに縛り付けられるようにして、そこには老女の一族達が沈んでいた。
ふいに、温かな手が触れるのを感じた。
『おばあさま……ねぇ、おばあさま』
まだ舌足らずの幼子の声には、ほかのもの達のそれにあるような暗さは無い。その声を聞くたびに、老女はとうに朽ち果てた己の胸が苦しくなるのを感じるのだ。
『おばあさま、海の底の都にはいつ行くのです? 早く行きましょう、おばあさま』
『……主上、私になどかまわずお先にいらしてください。あなたはここに囚われるような由は無いのですから』
『おばあさまは?』
『……私はまだ参れません。後から一族のものどもと参ります故、どうぞ私達などお構いにならず、先に都へいらしてください』
温かな手が、きゅっと老女を掴んだ。
『……おばあさまが一緒で無ければ、行きませぬ』
老女はなだめるように、温かな手を包んだ。一緒に行くことが叶えば、どれほどよいだろう。しかし、ここから動くにはあまりに身が重すぎた。途切れること無く、一族どもの恨み悲しむ声は続く。
そのどよめきの中に、べべん、とかすかな琵琶の音が聞こえた。怨嗟の声の合間を縫って、まだ若い男――少年の声がうたうのが聞こえた。
「……祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり――」
ほかのもの達も聞きつけたのか、怨嗟の声が次第に小さくなっていった。ゆっくりとした琵琶の響きに、少年の声が重なる。高く低く、勇ましく、時に悲しく。少年のうたう老女の一族達の栄華と滅びの物語が進むにつれ、ものどもはすすり泣きはじめた。
『おばあさま、あれは何ですか?』
物語にのめり込んでいた老女は、幼子の声で我に返った。見ると、水底のあちらこちらで淡い光が灯り、ふっと消えていくのであった。
『……水底の都へ、参上しているのです』
少年の語る声にあわせるようにして、次々とものどもが光となって消えていく。その光景を信じられないような思いで見つめていると、最後の響きを残して琵琶が途切れた。
「今日はここまでといたしましょう。続きはまた明日――」
少年がそう言ったのを最後に、琵琶の音も少年の声も聞こえなくなった。
『――あれです。あの者の語りには力があった。あれならば、きっと――』
満月の光が、うっすらと水底を照らした。
その次の夜、老女をはじめものどもは鬼火となって陸に上がった。ひとりを使いに仕立て、芳一というらしいあの琵琶法師を呼びに行かせていた。
『昨日の琵琶のものが来るのですか?』
幻影の御簾の後ろから幼子が訊いた。すぐ近くに控えている老女が頷く。
『ええ、呼びに行かせました。あの者がいれば、もしや水底の都へ行くことも叶うやもしれません』
『それは真ですか。……昨日の物語は懐かしく感じました。楽しみです』
その時、使いにやったものの声が響いた。
『開門! 芳一を連れてきた!』
ものどもがざわめき、あわてて幻の雨戸や襖を開いてやった。
一族の女に手をひかれてやってきたのは、法体ではあるがしゃんと背の伸びた少年であった。案内されるままに座布団に座り、背負っていた琵琶の調子を合わせ始める。その探るような様子から見るに、どうも盲人のようだった。
老女は頃合いを見計らって語りかけた。
『ただいま、琵琶に合わせて平家の物語を語っていただきたいという殿のご所望にございます』
少年は琵琶を構え直して、どの部分を語れば良いかと尋ねた。老女の脳裏に浮かんだのは、やはり何度も思い返したあの場面だった。
『壇ノ浦の戦の話を、是非――』
芳一は頷き、声を張り上げ、烈しい海戦の歌をうたった。琵琶は時に舟を漕ぐ音であり、人の叫びであり、矢の音であり、海におちるものの音であり――まるではるか古のあの瞬間に舞い戻ったかのような錯覚に陥った。
ものどもは声を潜めて芳一を賞賛し合った。その合間にも何人かが光となり消えていく。どんどん芳一の声は熱を増し、ものどもの声は小さくなる。やがて物語は老女と幼子の入水にさしかかった。
「二位殿やがて抱き参らせて『波の底にも都の候ふぞ』と慰め参らせて千尋の底にぞ沈み給ふ」
その途端、ものどもは叫び声を上げた。芳一は驚いた様であったが琵琶を弾き続けた。やがて壇ノ浦の物語の終わる頃には、ものどものむせび泣く声も止まり、静寂が訪れていた。
琵琶の余韻も消え静まりかえった中で、老女が口を開いた。
『……あなたが名手であるとは思っておりましたが、ここまでとは。殿もたいそうお気に召し、あなたに十分なお礼をなさるお考えです。……が、これから後六日の間、毎晩御前で演奏をお聴きに入れるようにとの御意にございます。――しかし、このことは誰にもお話になってはなりません』
芳一は感謝の意を丁重に述べ、女に手を引かれて屋敷から去って行った。
その次の夜にも、芳一は使いのものにつれられてやってきた。前夜に勝るとも劣らない演奏をし、幾人ものものどもが光となって水底の都に還っていった。事が動いたのは、このまま行けば六日ですべてのものが都へ行けるのでは、と老女が希望を持ち始めた三夜目であった。
今までのように芳一が連れてこられ、琵琶を弾き物語をしていたのだが、見知らぬ男達が乱入してきたのだ。
男達には屋敷の幻や人の姿をとったものどもが見えていないらしく、芳一に向かって一緒に帰るようにと促し、仕舞いには無理矢理に担いで連れ帰ってしまった。
老女が感じたのは、怒りではなく落胆と悲しみだった。ものどものほとんどもそうであったらしく、男達への怒りよりも、未だ成仏できない互いの身を嘆き合うものであった。
『おばあさま、芳一は戻ってくるでしょうか』
『……約束を違えるような方では無いと、信じております』
しかし、四夜目に芳一はやってこなかった。
使いのものは、これしか無かったのだと言って芳一のものだという耳を差し出した。ものどもは静まりかえり、その小さな肉塊を見つめていた。
老女はささやくように言った。
『……元の水底へ帰りましょう。もはや芳一は戻ってきますまい』
そこら中から、むせび泣く声があがった。何百年も待ったのだ。次の機会と言えば、いったいあと何百年待たねばならないのか。かつての敵もすでに絶え、ただやり場の無い怒り、悲しみ、恨みによって水底につながれ続けてきた。
老女は、ものどもをひとりひとり包み込んだ。
『戻りましょう、水底へ』
幼子をその双腕に抱いて、老女はゆっくりと海に沈んでいった。古のあの時のように。
その後ろでは、どこからともなく琵琶の音が響いていた。




