いたいよ おねえちゃん
からだじゅう いたいよ
【還ってきた……体】
あたしは、春の陽気にまどろんでいる。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、いつもなら寝付きが悪くて困るところだが、今日の眠気はすこぶる瞬間的に訪れた。
いたいよ おねえちゃん
なにかに呼び掛けられたような気がした。
からだじゅう いたいよ
間違い無く呼び掛けられている。あたしを【おねえちゃん】と呼ぶ、まだほとんど声帯を使っていないかのように済みきった声。女の子なのか、声変わりもしていない男の子なのか、全く見当がつかない。
それよりなにより、全く身に覚えがなかった。嫌な寒気が走る。一体誰なのだろう。辺りは深い闇に閉ざされ、なにも視認することが出来ない。一寸先は闇とは、まさにこの状態だろう。
《……、ここ、どこ?》
聞き覚えのない幼児の声。見覚えなどあろう筈もない漆黒の空間。あたしを取り巻く全ての環境が思考を、行動を、そしてその存在をも圧迫し、威圧し、制限していく。
ここに居てはいけない。とにかく逃げなければ。
そうしないと……、死ぬ。
直感めいた最悪の予感。視界ゼロの世界における未知なる人物との遭遇が、得体の知れない感情の波となって怒涛の如く押し寄せて来る。
反射的に両腕を前に突きだし、一歩一歩ゆっくりと足を踏み出していく。早くこの場を離れなければ。そうしなければならないことが解っていてもなお、視界ゼロの暗黒がそれを許さなかった。
ヨロヨロとよろけながら頼りなく手探りで進む中、あたしはなにか、柔らかな肌触りを覚えた。温かく、懐かしい、とても優しげな感触。いつも自分を励ましてくれた大切な存在。忘れもしない、乃絵流だ。
あいこおねえちゃん あたしのあし とれそうなの…… いたいよ
間違い無い。
幼児の狙いは自分だ。今聞いた一言に、身体中から冷たい汗が吹き出てくる。おそらく目の前に居るであろう乃絵流に必死の形相でしがみ付き、床に額を擦り付けて、
「助けてお願い!
殺される!
助けて!」
必死に拝み倒す。
赤い髪を床に乱し広げ、血の海に沈んだように見えるあたし。小刻に震えている体だけが、それは錯覚なのだということを物語っている。そして、それをただ静かに見下ろしているであろう乃絵流。二人の間には、緊張感と威圧感に包まれた沈黙が流れていた。
おねえちゃん からだじゅう いたい
あしが とれちゃうよ
また聞こえてくる幼児の声。どうしても、聞き覚えがない。自分に何を訴えているのだろうか。それよりもまず、この空間のどこに居るのだろうか。 あたしはそれを確かめようと頭を起こした。目の前に居る筈の乃絵流の姿さえ見えない。
《お願い、乃絵流でも小さい子でもいいから姿を見せて!》
押し潰されそうな暗闇のプレッシャーに、遂にあたしは負けてしまった。その結果として、あたしの願いは最悪な形で二つ同時に叶ってしまうこととなる。
あいこおねえちゃん あし…… とれるぅ!
この声と同時に発生した稲光の様なフラッシュに映し出された乃絵流。それは、右足の膝下が皮一枚で辛うじて繋がっているような、酷い有り様だった。
足が取れそうだという幼児の訴えと、乃絵流の姿が恐ろしい程シンクロしている。
身体中痛い。
確かに、うっすらとではあったが前半身のいたる所に傷が付いていて、見るからに痛々しい。左目は、顔から剥がれ、糸一本で辛うじて繋がっている。
あの幼児の声は、明らかに乃絵流から発されているものだった。
乃絵流が当てにならない。それどころか、乃絵流が自分を狙っている。それは、あたしが全く視界が利かない空間に孤立してしまったことを示していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい!
彼氏に振られた腹イセにあんたを刻んだことは謝ります!
でもちゃんと直したじゃないですかぁ!
それで許してください、許してぇ……」
あたしを心から震え上がらせ、そして、乃絵流の足下に跪かせて命乞いをさせているもの。それは、乃絵流の右手の中でほんの一瞬だけ煌めいた……、ナイフだった。
もはや命を狙われていることは明白だ。このような、何処とも知れない暗闇の中で誰にも見取られずひっそりと死んでいくなんて、嫌だ。あたしは必死に命を乞う。
おねえちゃん いたいよ!
乃絵流の、悲鳴のような痛みを訴えるような声が聞こえる。次は、あたしが右足に走った痛みに泣き叫ぶ番だった。
気が付くと、あたしはベッドの上に上半身を起こし、汗だくになって座っていた。時計の針は午前七時十七分だ。
なぜこれほど息が荒いのだろう。なぜこれほど濡れているのだろう。今自分が視認している平凡極まる朝の一コマにはとても似つかわしくない呼吸の乱れと発汗だ。なにか悪い夢でも見ていたのだろうか。どうにも思い出せない。
まあ、そのようなことは、思い出さずに済めばそれに越したことはないのだろうし、とりあえず気にしないことにした。
「おはよう、今日もいい天気だね」
枕元に置いてある、継ぎ接ぎだらけになってしまった自作の人形に、いつもの通りトビッキリの笑顔で声を掛ける。
いつもと変わらない日常生活が確かに、そこにあった。燦々と朝日が差し込み、雀のさえずりを聞く。とても清々しい朝だ。
だが……、その良い気分の中にわだかまる少しの違和感を認めた。認めてしまった。
右足の、膝から下の感覚がどうもおかしいのだ。
別に痛むわけではないし、特に重苦しい妙な感覚があるわけでもない。しかし、逆なのだ。感覚のあるべき場所に、全く感覚が無いのである。
あたしは今確かに、人形に声を掛けるためにベッドの上に正座している。間違い無く右足の膝から下は尻とベッドの間に収まっているのだ。なのに、重みを感じているのはふくらはぎだけで、脛と足の甲には何も感じないのである。
《神経が……、死んでるの……?》
得体の知れない恐怖が襲い掛って来た。自分の足が寝ている間に死んでしまったかもしれない。一体何の病気なのだろう。
あたしは、この違和感に体が下の方から順に麻痺していく奇病の気配を感じてしまった。そんな病気は見たことも聞いたこともなかったが、無いとも言い切れない。
自分が寝ている間に次々と身体が麻痺していく。明日は左足、明後日は腰、その次は腹、そして……、胸。胸内には生命活動を営むために必要不可欠な呼吸器系と循環器系が詰まっている。
そこが麻痺してしまうと、間違い無く命を落としてしまうのだ。
《やばい、死ぬ病気だ》
体の震え、寒気、動悸、息切れ。突然沸き上がった負の思考が、あたしの心身を侵蝕していく。 とにかく確かめなければならない。足の神経がどうなっているのかを。それを確認するための一番確実な方法は、立ち上がり、歩き回ってみることだ。小刻に震えながら、肉付きの薄い、すらっとした右足を前に投げ出す。続けて左足を投げ出し、両足に力を込めて体重を移していく。
立てた。
まず第一関門は突破した。のこるは、歩くことが出来るかだ。
狂ったように震え続ける右足を必死の思いで前に投げ出し、左足を挙げる。この時点でバランスが崩れる気配はない。左足を投げ出し、体重を前方に移していく。
進んだ。
どうやら、普通に歩行は出来るようだ。だが、素直に喜べないのも事実だった。右足に重みを感じなかったのだ。
死んではいない。だが、どう考えても壊れ始めている。これが歩行実験で得た結論だった。
学校の授業を終え、部活も終え、今は、ポテトチップスをかじりながらテレビを見ている。液晶画面の向こう側では、河山寿春という霊能者と門倉麻里愛という陰陽師によって、霊体験相談番組が繰り広げられていた。
どうやら、【魂移し】という現象の話になっているようだ。
被害者はある朝、目覚めると体の一部が動かせなくなっていたという。
ドクン。
まず下半身から始まり、翌日に右手、明後日に左手と自由を奪われ、四日後には、意識不明になってしまい、今もなお意識不明は続いているらしい。
ドクンドクン。
話が進むごとに、脈が乱れてくる。自由を失う程ではないにしろ、状況が似過ぎている。【魂移し】。それがどういう経緯で起こるものなのか、どうしても知りたかった。あたしは今、いままでに無いほど真剣な眼差しで液晶画面に食い付いていた。
「なんだ姉貴。なにそんなマジな顔で張り付いてんだ。
お化けなんざ、ヤラセに決まってんだろ」
「うっさいわね、あんたは黙ってな!」
あまりの真剣さに弟が横槍を入れてくる。それを適当にあしらって、現象のメカニズムが説き明かされるのを待つ。
麻里愛が口を開く。
「今回のケースは絵画だっ」
ここまで真相が語られた段階で、液晶画面がブラックアウトした。コンセントのソケットから煙が上がっている。短絡だ。
激しい胃壁の痙攣。襲い来る吐気にどうしても、抵抗できなかった。明らかに何かが自分を狙っている。それがなんなのか知ることが出来たのに、何かの力によってそれを妨害された。
おぞましい音を発てて痙攣する胃壁が繰り出す汚物が口内一杯に広がり、許容量を遥かに超えて繰り出され続けたために鼻孔から噴出してしまう。そうなるともう、口を開くしかなかった。
「どうした姉貴!?
つわりか!?」
弟が訳の解らないことを訊いてくる。繰り出され続ける汚物が、突っ込むことを許してくれない。
コンセントの周りは、とても短絡を起こすような状況ではなかった。にも関わらず、短絡。
いったいこの家で、いや、自分の周りで、何が起こっているのだろう。
「おい、マジでどうしたんだよ?
なんか変なもんでも食ったんじゃねえのか?
一応救急車呼んでやっから、病院行ってこい」
弟が救急車を呼んでくれるらしい。とりあえず家から離れることが出来る。たぶんこれで、暫くはなにかから逃れることが出来る。
病院に到着して、一番始めにしてもらったことは、右足の検査だった。もしかすると、魂移しなどではなく何かの病気かもしれない。そうであって欲しい。だが、検査の結果は……、
【異常無し】
右足には、全く異常は無いと言う。相変わらず、物に触れている感覚はふくらはぎにしか無い。今は、診察室の椅子に座っていて完全に宙に投げ出されているというのに……。
「いぃいやあぁぁあ!」
セミロングの赤い髪をバサバサに振り乱しながら悲鳴をあげるあたしの意識は、それが止まると同時に、飛んだ。
意識を失ったあたしの体は本来診察してもらうべき内科へ回され、内視鏡により胃壁の検査が行われている。穴が開いていた。
病名、胃潰瘍。
本来なら、投薬治療で治る病気なのだが、穴の幅が広すぎたために、手術が必要と診断され、そのまま緊急手術の運びとなった。
その知らせが、当然弟にももたらされる。それを受けて弟は、
「あの、これ、枕元に置いてやってもいいですかね?」
と、一体の人形を鞄から取り出した。あたしのベッドの枕元に置いてあった継ぎ接ぎだらけの自作人形だ。
「こいつ、いっつも姉貴に力を分けてくれた、姉貴の親友なんすよ」
あたしが、小学三年生の時、家庭科の裁縫実習で作った自作人形。信じられない程うまく作ることが出来たその小さな女の子を、あたしはまるで妹のように名前まで付けて可愛がり続けていた。
その自作人形の名は……、
【乃絵流】
おねえちゃん いたいよ
くびが とれそうなの
乃絵流だ。また乃絵流が襲って来たんだ。
相変わらず、深い暗闇に視界を阻まれている。前に襲われた際、右足の膝から下を皮一枚で繋がっている状態に切断され、もはや、身動き一つとることが出来ない。
前の時に、足が取れると訴えて右足を切断してきた乃絵流が、今回は、首が取れると訴えている。
《殺される……。あたしここで、死ぬんだ……》
首が取れて生きていられる生命体など、いる筈もない。
カサッ
カサカサッ
遠くから何かの物音が迫ってくる。
逃げないと殺される。それを理解していながら、あたしには足の痛みにのたうち回ることしか出来ない。
カサカサカサッ
布が床に擦れる音がもう、間近まで迫っている。
視界ゼロの闇。
迫る物音。
痛む足。
絶望。
カサカサカサカサカサッ
眼前まで迫り止まった物音に、あたしは動きを止め、涙と涎を同時に流し、震え始めた。
稲光がほとばしり、死を与えに来た死神の姿を映し出す。乃絵流の脛部は……、失われていた。
連続して発生する稲光が、乃絵流の動きを連続写真のように一コマ区切りに映し出す。
おねえちゃん
右手に持つナイフを高々と振り上げる乃絵流。
くび
もうこれ以上上げることが出来ないという位置まで、ナイフが振り上げられる。
とれちゃったよぉ!
そしてそれは、あたしの脛部へと、なんの情け容赦も、躊躇いも戸惑いも無く……、打ち降ろされた。
目を覚ましたあたしは、四方を白く塗り固められ、調度品さえも白く統一された殺風景な部屋に居た。
《病室?》
それを一撃で理解することは出来る。だが、それ以外のことが理解の範疇をはるかに超えていた。
目に見える光景全てが、有り得ない程巨大化しているのである。それに片目の視界が全く無く、明らかに視力を失っている。
目の前には病院の枕と布団、そして、自分の背丈ほどもあろうかという、目を疑うほど巨大な赤い髪の頭。その頭は整髪料で塗り固めてあるのだろうか、大量に白い粉を吹き、テカテカと輝いていた。
「んっ……、うっ……」
赤頭の主から声が漏れる。今まで微動だにしなかったそれが、小刻に動き始める。
不意に病室のドアが開かれる。誰かが見舞いに来たようだ。誰か確認しようと首を動かそうとして、自分の体のとんでもない異変に気が付いた。
気が付いてしまったのだ。
首が全く動かなくなっていることに……。
なにこれ どういうこと?
疑問符の嵐が脳内に吹き荒れる。
「おっ、姉貴やっとお目覚めかよ!」
どうやら見舞い客の正体は弟のようだ。いつの間に入院していたのか、全く身に覚えが無い。「いきなり整形外科なんて関係ねー病棟行って意識飛ばすし」
あたしは弟に足のことは全く説明していなかった。それが逆に心配を招く結果となってしまったらしい。
「その後検査したら胃に大穴空いてて緊急オペだっつーし」
当然そんなことを、あたしが知る筈も無い。
「死ぬほど心配したんだぜ!?」
《えっ……!?》
驚愕、戦慄、恐怖。様々な感情が一把ひとからげに襲い掛って来た。弟が【姉貴】と呼び掛けていた相手。それは、あたしではなく、目の前の赤頭だったのだ。「そうだ姉貴、乃絵流にもちゃんと礼言っとけよ?」
まただ。また弟が赤頭に【姉貴】と語りかけている。
だが、そんなことは、それに答える赤頭の行動を見て、どうでもよくなってしまった。乃絵流に礼を言うために、上半身を起こした赤頭が見た先。その視線の先に居たのは自分だったのである。しかも、あたしを見つめる赤頭の顔、それもまた、あたしの顔だったのだ。
混乱しきっているあたしの精神にとどめを刺したのは、赤頭のこの一言だった。
「ありがとう、乃絵流」
「さっき先生から聞いたんだけど、姉貴もう屁ぇこきゃ出てこれるんだろ?
俺、甲子園の予選近いからさ、練習行くわ」
「あそう。
去年あんた決勝で4タコだったもんねー。
今年こそ四番の責任果たしなさいよ?」
あたしの混乱をよそに、呑気な会話が繰り広げられている。そして弟は、病室を去って行った。
「……、あいこおねえちゃん からだをありがとう
おねえちゃんをぶっころしたいだけだったのに なんかからだ のっとっちゃった」
あたしの形をした乃絵流が乃絵流の体躯にふさわしい拙い言葉と幼児の声で話しかけてきた。
「あれだけあたしをいじめておいて ころさなかったおねえちゃんとちがって あたしはちゃんと ころすわよぉ」
なんのことだろう。多分あたしは人形が魂を宿した存在になっている筈……。元々生命体ではないものを殺せる筈がない。
「これからはあたしがきっちりと葛城愛子を演じてあげるから、安心して死んでいいわよ、乃絵流」
トビッキリの笑顔であたしになった乃絵流は、乃絵流になったあたしに殺害を予告してくる。
「これから、あんたとは違う完璧な詰めってやつを見せてあげるよ」
そう言いながらあたし形の乃絵流は、ナースコールを押した。
病室のドアが開き、看護師がやってきた。あたしを殺すための詰めとは、いったいどんなものなのだろう。なんとか阻止したかったが、人形に宿ってしまった今となっては成り行きに身を委せるしかなかった。
「あのぉ、あたしぃ……、……、おならがしたいんですけど……」
なるほど、まずはそう来たか。確かに帰宅しなければ話にならないのだ。小生意気にも顔を赤らめ、恥ずかしそうにもじもじしている。中々堂に入った演技だった。
ついこの前まであたしの物だった肛門からかわいらしい音を発て、乃絵流が退院の儀式をつつがなく終了する。
なぜあたしと乃絵流の体が入れ替わってしまったのか、大きな謎を抱えたままあたしは、自宅へと帰ることとなった。
病院の前でタクシーを拾い、乃絵流が行き先を告げる。
「高谷神宮までお願いします」
それは、自宅ではなく、家と病院の間にある小さな神社だった。
タクシーが神社へ向けて発進する。神社は魂を祓うための機関だ。あたしを供養することではなく、祓い清めること、それが乃絵流が言う【完璧な詰め】なのだろうか。
紅い鳥居が高々とそびえる高谷神宮前に、タクシーがつける。愛子だった頃には全く受けたことの無い強烈な威圧感が、あたしが不浄な魂となってしまったことを如実に物語っている。
なんとか体の入れ替わりを神主に伝えなくては。このままだとあたしは乃絵流として祓い清められてしまう。まだ死んでもいないのに、神のもとへなど送られたくはない。
「あの、ごめんください。この人形、焚き上げてほしいんですけど!」
乃絵流が神殿に入り、大声を張り上げる。
「御焚き上げですね。では人形を見せてください」
宮司が乃絵流からあたしを受け取る。どういうつもりなのだろう、自分から宮司に渡すなんて。この宮司には、あたしの言葉を聞く能が無いことを見抜いたということなのか。
悩んでいても始まらない。取り敢えず宮司が本物であると信じて、コンタクトを試みてみよう。
《待って、話を聞いて!
人形は乃絵流なの!
愛子はあたしなの!
乃絵流があたしの体を乗っ取っちゃったの!》
さあ、どう出る。これを無視されるようなら、このインチキ宮司に焼き殺されるだけ。聞いてもらえたなら、宮司は本物で、話し合いの余地が出て来る。
「娘さん、お名前は?」
本物だ。乃絵流に対して名前の確認を行っている。
「葛城乃絵流です。そして、その人形が愛子です」
《えっ!?》
何だというのだろう。何を企んでいるのだろう。自分から真相を明かすなんて……。
あたしの疑問をよそに、二人の会話は続いている。自分は確かに存在しているのに、それを完全な形で黙殺する世界。今まで身を置いたこともない、あたしの知らない世界に慄然となる。
「これ、初めて裁縫実習を受けた時に作ったんです」
「はい」
「ずっと大事にしてたんです」
「ええ」
いちいち相槌で話の腰を折る宮司がうっとうしかったが、乃絵流の話はだいたい正解だ。
「でも……、一回だけ粗末に扱ったんです。恋人に振られて八つ当たりでズタズタに刻んじゃったの……」
乃絵流と名乗るあたしの体は、たった今愛子と名を変えたばかりの人形から顔をしかめて目を反らす。
一方で、宮司は何かを確信したように深く頷いていた。
「続きお願いします」
宮司が続きを促す。
「それから、変な夢見るようになって……。愛子がナイフ持って襲って来るんです。痛いよぉって」
《あっ!?》
それは、あたしが最近見るようになった悪夢だった。なぜ思い出せなかったのだろうか。いや、本来は忘れているものなのかも知れない。それをこの【神社の神殿の中】という特殊な場所に集まる霊力か何かによって思い出すに至っているのだろうか。
乃絵流のインチキな説明はまだ続く。
「あたしがいろんな事しすぎたせいで、愛子が意思を、しかも殺意を持ったんじゃないかって、とても怖くなったんです」
……、……、……。
暫しの静寂が、三者三様であると思われる各々の思惑の重さを示している。
乃絵流の詰めは、自分が言っていた通りにほぼパーフェクトだ。
敢えて自分が【乃絵流】であると名乗ることであたしは反撃を封じられてしまった。【自分が愛子で彼女が乃絵流なんだ】いくらそう訴えたところで、実際に乃絵流がそう申告しているがために、何の効果も発揮しないのだ。そしてあたしは何の抵抗も出来ないまま、愛子として焚き上げられようとしている。
そして、宮司が沈黙を破る。
「危ないところでしたね。愛子は、貴方の躯を自分のものだと勘違いしています」
勘違いをしてしまったのは宮司の方なのに……。この流れでは突っ込んでも効果は薄そうだ。
「このまま放置しておくと、魂移しによって躯を乗っ取られるところでした」
【魂移し】。そういえば、視ていた番組でこの現象に触れたとき、何かの力によって強制的にコンセントを短絡させられた。あれは自分が行ったことを悟らせないために、乃絵流がやったことなのか。
「かしこまりました。乃絵流は責任持って当社が焚き上げておきます」
《?》
頭の中に疑問符が並んだ。この宮司、今確かに【乃絵流を焚き上げる】と言ったのだ。今迄の流れだと【愛子を焚き上げる】でなければおかしい筈なのに。
案の定乃絵流もクリクリな目を更に広げて小首を傾げている。
「失礼、間違いました。では早速準備に取り掛かりますが……、乃絵流さん、あなた立ち会われますか?」
あたしの期待、解ってくれたのかという期待はこの言葉によって見事に裏切られた。乃絵流を立ち会わすことによって、あたしが魂移しとやらで体を奪い返す機会を完全に奪っている。
「是非!」
是非もなく乃絵流が乗って来る。勿論乃絵流のことだから宮司が言わなくても自分から立ち会わせろと言ってきたのだろうが。
「解りました。それではお待ちください」
宮司はそう言い置いて、その場を離れていった。おそらくは火を放っても問題のない場所へ祭壇を組むのだろう。あたしを焼き殺すための祭壇、悪魔を野放しにするための祭壇を。
これから悪魔をあたしだと思って接していかなければならない周りの人達や、これから壮絶な苦しみを味あわなければならない自分を思うと、無性に泣けてきた。
今、愛子という名の人形は泣いているのだろうか。泣いていればいいのだが。そうすれば少しは悔しさが宮司や乃絵流に伝わる。
「準備が出来ました。それでは乃絵流さん、愛子を持って祭壇までおいでください」
宮司によるあたしへの火焙りの刑がいよいよ始まろうとしている。本来なら、なりふり構わず必死に抵抗するのだろうが、こんな躯になってしまってはもう、どうにも出来ない。
「では愛子をここに。そして貴方は、【人形に宿りし魂よ、神送りの炎にて在るべき場所に還り給え】と心の底から念じてください」
「はい」
返事をする乃絵流の顔には、勝ち誇ったような笑みが張り付いていた。
「このヒトガタに宿りし邪悪なる魂よ」
あたしは決して邪悪などではない。まして、ヒトガタに宿った魂でもないのだ。
「この神送りの炎にて」
神送りの炎とやらはいったいどれ程の痛みを与えてくれるのだろうか。体がガクガク震えてくる。震えてくる筈なのに、震えてくれはしなかった。
「在るべき場所に還り給え」
違うのに……。あたしの魂の在るべき場所は、あの乃絵流と名乗る女の体の中だというのに……。
下に薪をたっぷりと敷いた矢倉の上に祭られたあたしの処刑場。今、薪に火が放たれた。チロチロとくすぶっていた火が、見る間に一塊の炎と化す。それは、一瞬の内にあたしを飲み込んでしまったが、不思議と痛みも熱気も何も感じなかった。
ただただゴウゴウと、パチパチとあたしを包んで炭化させていくだけ。
《貴様ら
祟ってやる》
あたしの意識は終に飛んでしまった。次に気付く場所はもう、神のともとやらなのだろう。
あたしが意識を取り戻した場所。それは意外にも、神社の中だった。目を醒ましたあたしを宮司が心配そうに覗き込んでいる。
「あっ、愛子さん、御気分どうですか?
御依頼通り、乃絵流は焚き上げましたよ」
意外な言葉だった。あたしは乃絵流に騙された宮司によって焚き上げられたのではないのか。
「驚いた顔なさってますね。実は、早いうちから人形は乃絵流だということには気付いてたんですよ」
あの真剣に話を聞いていたのは演技だったのか。
「あの、いつ頃気付いたんですか?」
問うてみた。とても気付いているとは思えなかったのだ。
「んー、貴方を触った瞬間から疑いは持ちました。魂を持ったヒトガタは、自分も人間であると認識しますから、乃絵流が【人形だった】とは思わないんですよ」
ああ、なるほど。乃絵流の説明を鵜呑みにするならば、どっちも人間だと思っていなければならなかった訳だ。
「だからあたしは、乃絵流が人形だったことを知ってる状態で人形になっちゃったって気づいたんですね?」
「そうです。そして、確信に変わったのは……」
いったいどこなのだろう。この神主探偵はいったい何で乃絵流は人形だったと確信したのだろう。それがなければ、あたしは死んでもいないのに、あの世に逝かされていたのだ。
「八つ当たりで切り刻んだと言ったとき、如何にも辛そうに苦しそうな顔で目を反らしたんですよ。被害者以外はあの行動はとりません。相手が人形なんですから、直したんだからいいやぐらいにしか加害者であるあなたは思ってない筈です」
そして宮司は続けた。物を粗末に扱ったバチが総出で当たりまくったんだと思って懲りろと。全く言う通りで返す言葉もない。
まだ気になることがあった。ついでに問うてみる。
「最後の祝吐は、あたしをあたしに、乃絵流をあの世に還すってことですか?」
「あれも一種の魂移しでしたから、乃絵流にあなたの魂を呼び込んでもらわなきゃいけなかったんですよ。彼女は貴方をあの世に送りたい一心で必死にそれだけを祈ってくれますから」
あたしの在るべき場所が葛城愛子の体であることなど考えもせずに。それを思うとなんだか哀れだった。
「魂移しには、混じり気のない純粋な気持が必要なんです」
あれから十年。あたしは未だに人形を見ると背筋が寒くなる。もう二度と、あたしの側に人形が置かれることはないだろう。
〈END〉 |