私は夜空にキスをする。
爪先立ちで背伸びして、顔を月に向けて目を閉じる。
頬に触れ髪をなびかせる風、耳に伝わる夜の声、唇に感じる星空の大気。
そう、この瞬間に私は夜空に口付けている。
「……何やってんだ?」
けれど私の星空への思惟は、無粋で訝しげな声に引き戻されてしまった。
「ちょっとは気を使うって事しなよ」
そう答えながら、聞きなれた声に振り返り言葉を続ける。
「今日の私には、フラットが付いているの」
「は?」
「半音低くなった私は、元に戻るためにナチュラルの記号を求めて――」
私は、芝居がかった大袈裟な動作で空に掌をかざして語った。
「病院へ行くのか?」
「酷いな、もう」
近付いて来るあいつから、雪を踏む音が伝わる。
「こんな所で何してんだよ」
「それは、こんな所に来た人が言う台詞じゃないと思うけどな」
笑いながら私が告げると、ちょっとだけ舌を出してからあいつは答えた。
「そうか」
「そうだよ」
空気が冴え渡った良い夜だった。星が煌き、足元の雪が星明りを反射する。
ここに居る理由は、誰より自分が解っている。
センター間近のこんな時期にフラフラ出来る理由は少ない、私達は進路が決まっている方。とは言っても、合唱に陸上と二人の先は全然別だけど。
「もうすぐに私は東京、達也はここ……?」
冬空の下、私の言葉が白く染まる。
「県内っつっても大学まで何時間掛かると思ってる、寮住まいだ」
良く言えば飾らない、ぶっきらぼうな声が返って来る。
いつもそうだけど、少しは雰囲気ってモノを察して欲しいと思う。
「そっか、じゃあもうすぐここともさよならだね」
「アホ、大学の休みは長いって聞くぞ」
達也は呆れ顔で言った。
「そうじゃなくて」
少し苛立ちながら、私は告げる。
「私がここにいるのが、当然じゃ無くなるんだなって事! だから、今を憶えておこうと思って」
「そういうのって、普通は春の桜とかじゃないのか?」
積もった雪に徐に手を伸ばして、彼は言った。
「ここの春は遅いからね、卒業式には間に合わないよ」
この地方では、桜が咲くのはゴールデンウィークになってから。
「それに、冬の方が星が綺麗なのよ」
細い月と星と雪の織り成す光の軌跡は、他では簡単に見れはしない。
ぐるっと空を見渡しながら、彼は白い息に言葉を乗せる。
「そうだな……、そろそろ家に戻れ大分冷え込んできたぞ」
「いやよ、まだ用事が終わってないもの」
まだ舞台への挨拶が済んだ所、やっと来た一人きりの観客を迎えたばかり。
「聞いてくれるんでしょ?」
今日、私はこの場所にキスをしに来た。
もちろん地面にキスなんてしない、私のキスは大気から満ちて行くから。
ここは幼い頃から私の歌声を響かせてきた場所で、歌う私の隣には決まってこの人が居て……今も何も変わってなくて。
そしてゆっくりと私から流れ出すメロディー、唇を震わせて夜空に溢れる。
そう私は今、この世界にキスをしている。
解ってるのかな?
この歌詞が、愛する事を説いている事を。
知っているのかな?
この声に込めた、私の想い。
気付いているのかな?
そうやっていつも近くに居てくれるから、期待してしまう事に。
でも……このサインに気付かなくても仕方が無いかな、ラテン語の歌詞なんて私にも解らないし。
ここでのラストキスは、達也の唇に決めてしまおう。
だって――後少しでこの想いは、全て星空へ響き切ってしまうのだから。 |