人はストレスが溜ると旅に出たくなるという。
コンビニでバイトする“彼”も、まさにその内の一人であった。
(旅に出ようかな……。あ、でも金ないし)
彼は黄色のスモックに身を包み、商品を棚出ししている。昆布おにぎり梅おにぎり。
彼の胸元には直径5センチほどのスマイルマークのアップリケがついていて、着ているスモックもレトロ感あふれるAライン。それは60年代を彷佛とさせる。
しかし似合っているとはお世辞にも言い難い。彼の長身で涼し気な顔、小麦色の肌にはあまりにもミスマッチだ。それは失笑ものと言っていい。
もちろん好んで着ているわけではない。これはコンビニ『ニコちゃんマート』の制服なのだ。彼はコンビニ選びを間違えてしまったと、非常に落胆している。働いてこの3ヵ月、実は毎日悔やんでいる。
(だいたいDr.コパじゃあるまいし、何で黄色の制服なんだよ。ふざけるなっつの。このスマイルマークも剥がしたい。これじゃ幼稚園児じゃねーか。……最悪)
そんなこんなで彼には莫大なストレスがかかっている。――これが旅に出たい理由、その1。
その2。それは至って簡単。
ちょうど1ヵ月前のこと、彼は二年ほど付き合った“彼女”にあっさりと振られてしまった。
そのバッサリ感は、かえって潔いくらい。
(あのブス! よくも俺をフリやがって。……くそっ、不幸になっちまえ)
彼は本気で「ブス」やら「不幸になれ」などと思っているわけではない。なぜならいまだに彼女の事が好きだからだ。
この1ヵ月、頭が禿げるんじゃないかというくらい彼女を想い、悩んできた。そう、彼は真剣に復縁したいと思っている。
しかし彼のプライドは高い。よりを戻そうとすがりつくなど到底ムリな事。
彼女を思えば思う程、彼のストレスは積み重なっていく。これでは旅に出たい衝動に駆られるのも無理はない。
そして旅に出たい理由、その3。
それはまさに、今から起きる出来事である。
★
自動ドアが開き、店内に客が入ってきた。
雑誌に載っていそうなファッションの、茶色いボブヘアの女。無造作に巻いたピンク色の大判ストールがかなり印象的。
「いらっしゃいませー」
彼は客に対し、当然のごとく決まり文句を言う。しかしその言葉は棒読みで心はこもってない。
彼としては、客が来ようが来まいがどうでもよかった。ただ給料をもらえればそれでいい。
グレーのレオパード柄のミニワンピースを来たボブの女は、彼に近づくなり会釈した。
だが、彼は気づかない。ひたすらかったるそうにおにぎりを並べている。
しばらく店内を物色したボブは、チラチラと彼を見ていた。
「す、すみません。あの……会計おねがいします」
と、ボブは恥ずかしそうに言う。
(え、俺が会計すんの? 今取り込んでんだけど。……他に誰かいないの?)
彼は両手に3つづつおにぎりを持ちながら店内を見回した。が、誰もいない。
今日は同じシフトの浅田がいるはずなのだが、浅田の姿はどこにもない。
(浅田のやつどこに行ったんだよ。まさかまたトイレ? ったくふざけんなよ。つかえねー奴)
渋々おにぎりを籠に戻し、レジへと向った。その時、軽く舌打ちをする。
「おねがいします」
ボブはミントのガムを1つ差し出した。
受け取るとすかさずバーコードを読み取り、彼はボブの顔を見ずに「105円です」と淡々と言う。
「はい」
白い手はぎこちなくサイフを開き、遠慮がちに動いている。
ネイルサロンでも通っているのであろうか? ボブの爪は整えられ、可愛くデコレーションされていた。
綺麗な手だなと思ったのもつかの間、彼はその直後、ムッとするどころかはらわたが煮えくりかえりそうになってしまう。
なぜなら差し出されたのは福沢輸吉――1万円札だからだ。
(ふざけんな! 喧嘩売る気か、このバカ女。ガムごときに万札出しやがって)
彼は非常に低い声で「……9895円のお返しです」と告げた。
(せめて「大きいのしかないんですけど」とか言えよ。常識だろ、気遣えっつの。このカス!)
そう思いながらボブの顔を睨み付ける。
ボブは今流行りのピンク系の薄化粧をした女であった。その睫は綺麗にカールされていて、肌は白い。
「ありがとうございます。あ、袋はいらないです」
袋を辞したボブは、キャメル色のブーティをかつかつと鳴らしながら自動ドアの向こう側に消えていく。
(2度と来んな! この常識知らず)
彼は憎々しくボブの後ろ姿を睨みながら、奥歯をかみしめる。
それから遠い目をして、ああ、旅がしたい……と肩を落とした。
★
翌日、彼は非常に落ち込んでいた。その心は仕事にも現れる。
いつもは早いおにぎりの棚出しも、今日はゆっくりめであった。
彼は昨日、振られた彼女に連絡した。しかし、その返事はない。
電話はもちろんのこと、メールすらも。……それは当然といえば当然といえるが、それでもずっと連絡を待ってしまう。
恋愛、惚れた方が負けというのは、まさしくそのとおりだな。と、彼はぼんやりと考える。
「なんすか、さっきからため息ばっかり。しみったれてますねー」
バイト仲間の浅田が彼の顔を覗き込む。昨日に続いて今日もまたシフトが同じであった。
「うるせー浅田。いいから我慢してないで、早くウンコして来いよ」
「フフン。もうさっきしましたよ。……あ、今臭いからトイレは入らない方がいいっすよ」
「バカ、絶対入らねぇよ。っつかお前、ほんとあきれるくらい快便だなぁ」
彼は浅田と常にくだらない話をする。ウンコ話が出てしまうのは、浅田が毎日大便を職場でする為である。
「僕、一日3回は出るんすよね」
「聞いてねーし」
浅田はペチリと彼に頭を叩かれた。
その時、自動ドアは滑らかに開く。
「いらっしゃいませ!」
と、浅田が心を込めて言うと、彼もまた「いらっしゃいませー」とだるそうに棒読みで言う。
「あ、なんか結構かわいい客っすよ」
浅田がニヤニヤしながら彼に耳打ちする。
彼はうつろに客を見た。
(あっ!)
店内に入ってきたのは、なんとボブである。黒いサテンのサロペットを上手に着こなしている。
ボブは店内をぐるぐると回り、商品を手にする。そしてレジに向って歩き出す。
「おねがいします」
ボブが差し出したのはスナック菓子ひとつ。チーズ味で、新発売の商品だ。
彼は再びボブのレジを担当することとなる。
「158円です」
昨日と同じく淡々と言う。
浅田はチラチラとボブを見ているが、彼のほうは全くボブに興味はない。
ただ『昨日のムカつく1万円の女』と認識している。
ボブはサイフからお金をとりだすと、黙って彼の手の平にそっと載せた。
(はぁ? ちょっ、今日も!? ……この女ふざけやがって! もう我慢できん。我慢の限界。本当に殺す。マジで殺す)
彼の手には福沢輸吉――またもや1万円札。
こめかみに青筋を浮かべながら、「9842円のお返しです」と地獄の鬼のような低い声で言った。
(この女、昨日万札くずしたくせに……小銭がないとは言わせねー。昨日のよこせよ、昨日の金を)
ボブは会釈し釣り銭をサイフにしまう。そして、
「ありがとうございます。あ、袋はいらないです」
と昨日と同じく袋を辞して、サンダルをかつかつと鳴らしながら去っていく。
(くそっ、ムカつく! お前のせいで千円札と500円玉が品薄じゃねーかよ! どうしてくれる)
彼は下唇を噛みしめながらボブの後ろ姿を睨み付ける。
これにより、旅への思いがより一層強まった。
(俺、海の見える所に旅したい。で、体育座りして夕日を眺めたい。あー、もうどこでもいい。もう何も考えたくねぇよ)
★
驚くべき事に、ボブは毎日と言っていいほど『ニコちゃんマート』にやって来た。
そして必ず彼のレジで一万円を差し出し続けている。しかも買うものはごく安い商品ばかり。
その度彼は、くも膜下出血で倒れてしまうんじゃないかと思うくらい、たいそう頭に血を昇らせていた。
(絶対これって嫌がらせだ。俺、本格的ないじめにあってる。もう、俺が何したって言うんだよ。くそー)
彼はボブが来た回数を嫌でも記憶している。ボブはもうかれこれ12回は店に来て、一万円を出している。
(今日も来るぜ、あの女。絶対、来る! ……来る。………………ほ、ほら来た!)
彼の予想通り、ボブは飄々と自動ドアよりあらわれる。今日はTシャツワンピの重ね着というラフな格好だ。
その時、一瞬ボブと目が合うが、彼はフンと思いっきり目をそらす。
(見てんじゃねーよ! バカ女)
「おい浅田。俺、トイレ行ってくるから」
「えっ!? 今行くんすか?」
「悪いかよ」
浅田は、軽く焦ってみせる。
「うわっ、ちょっと藤崎さん! 僕、実は……さっきウンコしたばかりなんすよ。だからその……」
一瞬、うわぁマジかよと思うが、それでも彼はしたくもないトイレへと向う。ボブをやりすごそうという魂胆だ。
(く、臭ぇな。浅田め、感じ悪ぃなオイ。でもあの女のレジを打つことに比べたら……マシか)
彼は顔をしかめながらトイレにこもる。何食ったらこんな臭くなるんだよ、と思いながら携帯を握りしめ、時間をチェックした。その間、10分。
(よし……そろそろ、だな)
長居したあと、おそるおそる店内を見渡した。
……ボブは、一万円の女は、もういない。
安心しつつ、彼はせっせと雑誌を整頓している浅田に声をかける。
「なぁ浅田。さっきの女、万札出しただろ?」
「は?」
浅田はきょとんと彼を見つめ、「さっきの女って、あの、よく来るおかっぱ頭の女の子の事っすか?」と聞く。
それから二人は同時に言葉を発する。
「そ。あの女、本当に嫌な奴でよー、万札しか出さねーの」「え、別に万札出されませんでしたよ? 千円札でしたけど」
「……はい?」
彼は耳を疑う。
「おい浅田。おま、……今、何て言った?」
「だから万札じゃなくて千円札でしたよ。っていうか、それがどうかしたんすか?」
その問いには答えず、彼はフラフラとレジに向う。
頭の中は真っ白だ。
(ふ、不思議すぎる……。ひょっとして万札は俺の時だけ!? 何なんだよ。そんなの、不公平じゃねーか!)
その日、彼はもやもやと考えながら一日を過ごす事となる。
旅に出たいとか、元カノから連絡がないとか、そういう事は考える余裕もない。
考える事はただ1つ。
――なぜあの女は俺の時にだけ一万円を出すんだ――
★
(……あの女、あれ以来全然来ない)
彼は自動ドアを気にしながら、ボブの姿を探している。もう日課と言っても過言ではない。
だがあれからほぼ2週間、一万円の女はいまだ現れていない。
「あれ、どうしたんすか?」
落ち着きのない彼に対し、浅田は眉をひそめて問う。
「どうもしねぇよ」
「そっすか」
グレーのカラーコンタクトをした浅田は、彼の目をじっと見る。そして、
「あの、今日は客が少ないっすよね。……どうしたんすかねぇ」
と心配そうに言った。
彼は(そのカラコンはお前の薄い顔にはどう考えても似合わねーだろ)と思いながら、
「俺は客が少ないほうがいいけど。楽だしね」
そう穏やかに言った。
そして再び自動ドアに視線を移す。
相変わらずボブの姿はない。
見えるのは長い髪のOLと、まだ学生とみられる数人の若い男の姿。
(俺、なんであの女待ってんの? どうでもいいじゃんあんな奴。あいつが来ようと来まいとどうでもいい。……あんなムカつく一万円女)
「ねぇ、藤崎さん。最近彼女、来ないっすよねぇ」
浅田がまさにタイムリーな話題を振る。
彼は内心ドキっとするが、何事もないように心を落ち着け、細心の注意を払いながら「あ? 誰のこと?」と聞いた。
「ほら、あの、ここによく来てた女の子っすよ」
しらじらしく「ああー、あの女ね」と言った後、
「何、お前。まさかひとめぼれ?」
と、浅田をからかった。
「や、そんなんじゃないっすけど……彼女、かわいかったっすよねー」
浅田は顔をすこし赤らめながら言う。
(かわいいだと? あの女が?)
彼はボブを思い出す。
ある時はワンピース、ある時はチュニックにデニム、またある時はシフォンのブラウス……。どれも女に似合っていた。
難しい物をも、さらりと雑誌のように着こなしてしまう一万円の女。ころころと変わる彼女の服装は、ある意味毎回どこかで楽しみにしていた。
安い品物に一万円を出す事さえしなければ、「ありがとうございます。あ、袋はいらないです」という気遣いは、非常に好感が持てるものであった。
(……たしかにあの女は、かわいかったな)
★
人の心は移ろいやすいもの。それは彼とて例外ではない。
あれから2ヵ月、彼の心境は驚くほどに変化していた。
まず彼は元カノからの電話とメールをことごとくシカトしている。最近頻繁に連絡が入るようになったのだ。
内容は、ご飯一緒に食べに行ってあげてもいいよ、ヨリ戻してあげてもいいよといったもの。
現在彼はそれどころではない。すでに元カノにも興味はない。
それもそのはず、名前も知らない女の事を一日中考えているからだ。もう重症と言っていい。
夜、夢にまで登場するようになった、一万円の女――。
彼とてその理由はわからない。しかし、ボブを思うと心臓は早くなる。
(マジかよ。これって好きって事? やべえな。シャレになんねーよ)
今日はもう何度ため息をついただろうか。彼は大学の中庭にあるベンチに座り、冷めきったココアを飲み干した。
「なぁ中宮。お前今日ヒマ?」
彼は隣に座る、高校からの同級生、中宮に声をかける。
「わりぃ、カノジョとデート」
「ふうん」
中宮は彼の肩にポンとその手を乗せた。
「お前もな、いくらフラれたからって、いつまでもウジウジしてんじゃねーぞ? 俺らはまだ若いし、いくらでもチャンスはある」
「……ウゼぇな」
中宮のデートという言葉を聞いて、彼は軽く落ち込んだ。やっぱり“彼女”はいいものだなぁとしみじみ思う。
そして顔を上げ、中庭を闊歩する女たちを見る。
入学したての頃に比べ、女たちはそのほとんどが垢抜けて洗練されている。
1年や2年ごときでここまで変化してしまうとは、女ってすげぇな。と、彼は尊敬の眼差しで眺めていた。
その時――
「あっ!」
彼は思わず大声を出し、素早くその場に立ちあがる。
その瞬間、微妙なバランスで設置されているベンチの重心は、完全に残された中宮のほうへ傾き、椅子はガタガタと音を立てながら倒れてしまう。
中宮はそれは豪快に地べたへと転がった。
「てめ、ふざけんな。何急に立ってんだよ! 二人同時に「せーの」で立たなきゃダメってあれほど言っただろ」
彼の耳は中宮の言葉など全く受け付けない。
その涼し気な切れ長の瞳は、ひたすらある一点を凝視している。
一万円の女。
間違いない。それは夢にまで見た、憎き“あの女”の姿である。
ボブはトートバッグを肩にかけ、携帯電話で会話しながら中庭を歩いている。
ボーダーのマリン風のワンピースがとても良く似合っていて、彼は不覚にもその姿に感動さえ覚えてしまう。
(やべ、うれしすぎる! そっか。同じ大学かぁ)
彼の顔は思わずニヤニヤと綻んでいる。
「おい、藤崎。聞いてんのかよ!」
中宮は大層憤慨しているが、彼には全く届かない。
諦めた中宮は彼に問う。
「……なぁ、何見てんの?」
彼はいまだにニヤけながら、
「あのボーダーのボブの女。お前に前話したよな? バイト先に一万円しか出さない女が来るって。それがあの女」
と満足そうに答えた。
「おい、あれって貴島じゃねーか。貴島柚名」
中宮がさらりとボブの名前であろう名を口にするので、彼は大いに腹を立てた。そして中宮の首をぐいぐいと絞めつける。
「おいっ、何で中宮の分際であの女の名を知ってるんだよ!? 説明しろ!」
「く、苦し……。っつか、何でお前が知らねーの? 法学部の貴島じゃねーか」
彼が知らないのは無理もない。
彼は赤の他人にあまり興味を示さない性格の為、顔と名前を覚えるのが異様に遅く、それは非常に苦手と言えるのだ。
「離せよ」
中宮は顔をしかめながら、無理矢理彼の手をふりほどく。それから、
「お前って、前から思ってたけど、やっぱ最低な男だよ」
と付け加えた。
「どういう事だ?」
彼は怪訝な顔つきで中宮を見る。中宮はひたすらやれやれという呆れ顔。
「お前なぁ、あの時の事、まさか忘れたのかよ」
「あの時の事?」
思い当たる事は何もなく、ひたすら首をかしげるのみ。
「ほんとに覚えてないわけ? ひでぇな。……お前なぁ、前に貴島に告られたじゃねーか。そしたらお前、言ったよな。「今はムリ。出直してきて」って。俺あの時、何様のつもりなんだと思ってムカついたよ。お前って本当にクズだね。でもさ、とりあえず貴島はすげーよ。すげーがんばってる。髪茶色くして、どんどんお洒落になって、ガラリと変わっていったもん。多分出直すつもりなんだろうけどさ。っつか、お前のどこがそんなにいいんだか。変な女……って、オイ!!」
中宮の演説を聞き終わる前に、彼は走り出していた。
さすがは中学高校と陸上で鍛えていただけのことはある。並の人では追いつけない程の、華麗なるスピードだ。
彼は思い出していた。
元カノと別れて三日後、食堂で見知らぬ女に声をかけられた事。
彼はその女を知らないけれど、相手は彼を熟知しているようであった。
そして言葉は鮮やかに蘇る。
「藤崎くん……あの、私を覚えてますか? もしよかったら、あの……」
長く黒い髪。そして黒ぶちメガネ。
しかし彼は、メガネの女は好きではなかった。
「ねぇ、何の用? もしかしてキミ、俺に告ろうとしてる?」
冷たい言葉に対し、女は素直に真っ赤な顔して頷いた。
「あのさ、俺、今それどころじゃないから。っつか、ムリ。……出直して来てくんない?」
「あ、はいっ。私、出直して来ます!」
そう言って女は踵を返し去っていった。
★
「あの、貴島さんっ」
彼はもう、すでに女の名を覚えていた。
頭の中はボブの名前がその顔が、ぐるぐるといつまでも回り続けている。
「あっ……」
ボブは振り返り、口元に手を当てた。それは信じられないといった表情である。
同時に手元の携帯電話はカシャリと音を立てて地面に落ちた。
「藤崎、くん。……わ、私、あの、貴方に嫌われたんじゃ、ないの?」
瞳にいっぱい涙を溜めながら、言う。
「えっ!? 嫌い? あ、あの、どうして? 俺、嫌ってなんかないよ、全然! っていうか泣かないでよ」
彼はしどろもどろになりながら、頭を掻いた。
「ね、貴島さん。あのさ、またコンビニ来てくれる? 俺、その、……待ってたんだよね、ずっと。また一万円で安いお菓子、俺から買ってよ」
普段涼し気な顔をしている彼は、めずらしく真っ赤な顔をしていた。
彼自身、自分が何を言っているのかさっぱり分からなくて、現在、口が勝手に言葉を紡ぎだしている状態であった。
「でも……あの、迷惑だったでしょう? 私ったら大変な事しでかしちゃって……」
泣きながらボブは言う。彼はその姿を見ていると、力一杯抱きしめたくなってしまう。
しかし、堪える。まだだめだ、と。
「あれってさ、もしかして……俺に顔を覚えさせるために、ワザと一万円出してた?」
ボブは彼の言葉に、深く頷く。
「あの、私、ずっと前から『ニコちゃんマート』に行ってたの。でも普通に買っても顔も見てもらえないし、気づいてもらえないし……だから……。でも、すごく迷惑を……かけちゃったし。ほんと、ごめんなさい……」
ポタポタと流れ落ちるボブの涙は、水晶のように太陽に煌めいて、それはそれは美しい。
彼は親指でボブの宝石のような涙を拭った。
驚いたボブはビクっとその場で飛び跳ねた。
「じゃあ、その作戦は成功だ」
「え?」
ボブは彼の顔を見る。
その時、なぜか彼の切れ長の瞳から、金縛りのように目が離せなくなってしまう。
「だって俺、貴島さんの顔を覚えるばかりか、貴島さんのことばかり毎日考えてるし、それに、えっと、その、うまく説明できないけど、俺、キミが好きだったりするし……」
「……え?」
ボブは頭が真っ白になり、後ろに倒れそうになる。
彼は慌てて手を伸ばし、ボブの華奢な体を支えた。
「ねぇ、貴島さん。あの食堂の事覚えてる?」
「も、もちろん……覚えて、ます」
「じゃあ、俺のカノジョになってくれますか?」
「えっ」
彼は眉をつり上げ、「ダメ?」と不安そうに聞く。
ボブは慌ててワンピースの袖で涙を拭い、口角をキュっと上げた。
その頬にはかわいらしいえくぼが現れている。
「も、もちろん、です。嬉しいです!」
彼は思わずボブをぎゅっと抱きしめた。頭の中はもうパラレルワールドと言っていい。
人はこれを、薔薇色と呼んでいるのかもしれない。幸せ過ぎて、空をも飛んでしまいそうな勢いだ。
そんな天国のような感覚の中、彼はぼんやり考える。
(あ、そうだ。俺、旅がしたかったんだっけ。……っつか、俺、このコと一緒に旅したいな)
★
人はストレスが溜ると旅に出たくなるという。
コンビニでバイトする“彼”も、かつてその内の一人であった。
しかし彼にはもう、ストレスと呼べるものは何もない。
隣には相変わらずシフトが同じ、浅田の姿。
彼は今日も黄色のスモックを着る。だがもう不満に思う事は何もない。
そして彼の胸元では、今日もスマイルマークは晴れやかに微笑むのだ。
★ 完 ★
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