限りなく灰色に近い青縦書き表示RDF


限りなく灰色に近い青
作:夕焼け


掴みそこなって宙をかく手にかすかに触れて、また遠ざかる。
まるでスローモーション。
僕はいつまでもその光景を忘れられないでいる。



多分幸せだったんだと思う。



始まったのは梅雨の真っ只中。
終わったのはクリスマスの少し前。

彼女が僕の為に泣いてくれた事を覚えてる。
けばいくらいに化粧をしたその目をパンダみたく真っ黒にして、僕の為に泣いてくれた。

僕は当時ちょっとした鬱病のようなものを患ってて、よく当ても無い散歩に出かけ、どこだか分からない場所で我を取り戻したりしたものだった。
見た事のない建物。
見た事の無い町並み。
急に不安になる。
彼女に電話してみる。
彼女は少しくたびれた声で僕に尋ねる。

「ねえ、近くになにがみえる?
近くの電柱には何市の何番地って書いてある?」

僕は近くにある電柱に書いてあったそれを読み上げ、目に付いたデパートの名前を告げる。

「多分30分くらいで着くから、そこから動かないでね」


僕はベンチにゴロっと横になって、目を閉じる。
時間は夜の7時くらい。
なんだか疲れてしまってうとうとしてしまう。

僕の名前を呼ぶ声で目が覚める。
彼女が言う。

「大丈夫?」

僕が言う。

「うん」


僕たちは並んで川沿いの道を歩く。
彼女は乗ってきた自転車を手で押している。
自転車で30分かかるくらいの距離だから、歩くとなかなかの距離だ。

夏の終わりくらいの季節で、川沿いを伝う風にはまだ夏の匂いがかすかに残ってた。

その道がどこまでも続くような気がして、彼女がいなくなるだなんて考えもしなかった。



僕と彼女は付き合って半年、ただの一度もセックスをしていない。

彼女は僕の前の男との間に子供を一人おろしていた。
その、生まれてくる事すら出来なかった子供の供養に僕も付き添ったのを覚えてる。
小さな仏壇代わりのそれの前で線香をあげ、手を合わせる彼女の横顔。
その日は雨が降ったりやんだりしてた。
江ノ島よりもう少し奥のほうにあるお寺。
丁度帰る頃に雨が上がったので、江ノ島を海岸沿いに歩いた。
8月31日の海は、夏の間だけ開くお店ももう全て閉じていて、がらんとしたその道を僕たちは手をつないで歩いた。


その日の夜、彼女はお酒を飲み、少しだけ泣いた。

「私がもしどっかいっちゃったら、いつか私がしたみたいに追いかけて来てくれる?」

僕は何も答えられなかった。
何でかは分からない。
時が経った今だって分からない。
でも、きっと今同じ場面がまた訪れても答えられないんだろうなって思う。



僕は彼女を抱く事をためらった。
彼女の抱える不安を僕はよく知っていたし、僕は僕自身の甘さや弱さを良く知っていた。
だから彼女を抱く事が間違った事のように思えたし、何よりも怖かった。
それを背負う事が。

一本の境界線。
彼女がその白く細い指で引いた一本の線。
彼女は、越えて欲しくなくてその線を引いた訳じゃない。
むしろ、越える事を強く望んでた。
その事を僕はよく知っている。
でも僕はその線がどうしても越えられなかった。


季節はゆっくりと、でも確実に過ぎていく。
音を立てずに何もかもが形を変えていく。
この街のあり方も、彼女と僕のあり方も。



彼女が言った。

「もう行かなきゃ」

僕にはその意味が分かっていた。

クリスマスが近いその夜、僕たちの物語は終わった。
飾り付けられた幸せな街の真ん中で。





あれから数年が経った。
僕のしてきた事は間違いだったのかも知れない。
そんな風に思う夜はひどく彼女の声が聞きたくなる。

僕が洗いざらいぶちまけた後に少し間をおいて、彼女は唯一言こう言うんだ。

いいのよ、と。







追記:

5年が経って、もう正直彼女に対する恋心は全く無い。

だけど今でも時々無性にあの場面に戻りたくなる事がある。
夜の公園で、
夏の終わり頃で、
二人でビールを飲んでて、
木の下のベンチで、
野良猫の人生についての考察を僕が話して、
彼女がそれについて見解を述べる。
とても真面目な表情で。
そこまでを終えてやっと二人で笑う。
お互いに馬鹿みたいって言って、笑う。


幸せだったんだと思う。
多分。














ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




◆BACK
小説家になろう