31.三階の女傑
小次郎はこの世界にとどまり続けた。夜はいつも悪夢にうなされた。ピートやカイザー、その他の論客たちと積極的に意見を交換した。彼の潰れた片目と鼻はこの世界の医師の手で作られたピコテクノロジーマシーンで綺麗さっぱり元通りになった。ムカデやクモに齧られた事が原因であるらしい皮膚のブツブツは処方された薬を一ヶ月ほど飲むことで嘘のようにまっさらに無くなってしまった。
真摯に語り合っては食べ、ひたすら考え込んだ。いかにいきるべきか。何をするべきか。その事を常に考え、考えが煮詰まると幾たびも語り合った。そして睡魔は毎回訪れてその度に小次郎は我知らず眠りに落ちた。そして悪夢の住人たちとの議論を重ねた。ピートが眠らずに済む薬を処方してくれたが小次郎はそれを飲まない事にしていた。真っ向から自分に突きつけられた問題と向き合いたいと考えたのだ。
しかし、どうしても悪夢の住人たちとは折り合いが付かなかった。そしていつしか小次郎は悪夢の只中で言葉を発する事を一切やめてしまった。ただひたすら彼らの言い分を黙々と聞いているのみであった。特にこちらから返答をしなければ彼等は一人ずつ彼の前に現れ、長々と愚痴をこぼして涙を流して、時に怒り狂って、そしてやがて闇の中に去っていった。そして再び次の一人が訪れて、同じ様に彼の前で自分の無念の思いを吐露しにくるのだった。そして小次郎は気付いた。夢の住人は結局、彼に危害を加える事は出来ないことを。悪夢の中での支配者はあくまで小次郎自身であることを。彼が何かを確認したくて、訪れる人に声をかけるととたんに大勢の住人が押し寄せてくる。その手には鍬やナイフが光っている。しかしある一定の距離間以内には小次郎には近づけないようだった。大勢が押し寄せた場合でもひたすら小次郎が沈黙を守っていればやがて一人また一人と立ち去ってゆく。そしてまたただの一人を残すのみであった。小次郎は彼らを哀れに思った。結局彼等は無力だ。口先だけで何も出来ない。自分の愛する者を殺された事の復讐は彼らには出来ないのだ。
ある日、小次郎は地面に目を落としながらひたすら街中を歩き回っていた。あいかわらず通りの至るところで議論議論の大洪水である。小次郎は特に発言はせず、立ち止まっては聞き耳を立て、また歩き出して、また別のグループの議論に聞き耳を立てなどしていた。
「ちょっと、小次郎じゃないの。何してるの。こんな所で?どうしたの?」
ふいに小次郎は元気な若い女性に声をかけられた。そして彼は振り返り、その顔をマジマジと見つめた。どこかで見たような顔だったが、どうにも思い出せなかった。しかし確かに小次郎の名を呼んだのは間違いなかった。
「私の名は確かに小次郎と申しますが、あなたはどなたでしょうか?」
そう声を掛けられた元気な女性は仰天して見せた。
「こんな美人を忘れたの?この引き締まったボディ。美しいフェイス。もっとよく見てごらんなさい。どう思いだした。あのめくるめく夜を!」
女性は叫んだ。小次郎は疑わしげに目を細めてその顔を体を眺めた。確かにどこかで見た覚えがある。しかしどうしてもそれが誰なのか見当が付かなかった。
「失礼ですが、どなたでしょうか。どこかでお見受けした気はするのですが、思い出すことができません」
小次郎は素直にそう言った。すると女性の眉と目の端がキュっと上がった。顔色はみるみると真っ赤になった。そして必死になって自分の怒りを自制している姿が見受けられた。それを見て小次郎はその女性が誰であったかすぐに気付いた。そして愕然とした。それはまた別人のような姿であった。その小次郎の表情の変化をいち早く見て取って女性はニヤリとした。
「気付いたようだね。でさあ、あたしメラニーとかいうおばさんの店で働くようにサリーに言われてるんだけど、この辺でいいんだよね。知ってる。メラニーとかいう奴の食堂」
「あ、ああ、存じてます。では私が案内いたします。どうぞ、こちらです」
小次郎はどぎまぎとして女性を案内した。その女性は一階で狂乱のユリリーと呼ばれていた女傑だった。一年処刑という極めて残酷な処刑を考案し、日々それを実践していたヒステリックで残忍な女性だった。頭に血が上ると前後の見境を完全に忘れる恐ろしい性格で何度も自分のボスであるカイザーに対してさえ、殺意を持って襲いかかる事もしばしばあったらしい。小次郎は恐る恐る並んで歩く女性を観察した。人間離れした体力の持ち主だった。鋼のムチを持ち歩き、その一振りは岩をも真っ二つにした。
「いやさあ、あたしさあ、ここにきてまだ二週間くらいなんだけど、もう働かなければいけないんだってさ。まああたしもそろそろ何もしないことに退屈していたところなんでちょうど良かったんだけどね。でもここでは男は何もしなくてもいいんだってね。女はみんな働くんだってさ。これは完全に性差別だと思わない?遅れてるわよねホント。なんなのかしら。でもまあいいわ。気に入らない仕事ならとっととやめてやるしね。そのメラニーとかいう女にもでかい顔は絶対にさせない。こういうのは最初が肝心だからね」
道中ずっとユリリーは喋りっぱなしだった。小次郎は適当に相槌を打っていた。ユリリーはありとあらゆる事に文句ばかりを言っていたがその様子はとても楽しそうだった。その姿を見ているうちにだんだんと小次郎は安心してきた。やがて店に到着した。
「ここでございます。ユリリー殿。では私は失礼します」
「ちょっとまって!待ちなさいよ。中に入って。送ってもらったお礼をするから。あたしは恩を受けるとそれをすぐに返してしまわないと気がすまない性格なのよね。なんだったら体で払って上げてもいいんだけど、こんなごつごつした体は男は好かないか」
そういって自分の腹の辺りをぽんぽんと叩いた。全身バネの鋼のような肉体だった。胸のふくらみはまったく無かった。彼女は小次郎の上着を引っ張って店内に引きずり込んだ。
「ねえ、ちょっと!店長のメラニーさんはいるかい?」
超満員の店内が静まり返るような人間離れした声量でユリリーは怒鳴った。そしてしばし後、奥の階段から中年女性があたふたと降りてきた。
「メラニーはあたしだよ。あんたまさか。今日からうちで働くとかいうユリリーかい?」
メラニーは気味悪そうな目をユリリーに向けた。
「そうだよ。あたしがユリリーだよ。でも気に入らないね。初対面から呼び捨てはないんじゃないかい?あんた二階で礼儀作法をならわなかったのかい。ふざけんじゃないよ。トウヘンボクめ。あたしがその気になればこんな店、すぐに粉みじんに出来るんだよ。口の利き方気をつけな」
「なにをー、小娘!それが店長に対する口の利き方かい?あんた一階でどれだけブイブイ言わせてきたのかは知れないけれど、あたしも一階ではサソリのメラニーと恐れられたもんさ。あたしの毒ナイフで何人が死んだと思ってるんだい。あんたここか三階だからって安心してんじゃないよ!」
中年女性が怒鳴った。ユリリーはそれを聞いて真っ青な顔になり、メラニーの胸倉を掴んだ。
「サソリのメラニーがあんたかい?あたしは狂乱のユリリーといわれた女だよ。あんたとは格が違うんだよ。格が!」
「う、狂乱のユリリー。あんたが……」
とたんにメラニーはおとなしくなった。
「よくあんたみたいなのが三階まで来たね……でもちゃんと二階ではお勉強してきたんでしょうね。ユリリーさん。あんたとは争うつもりはないよ。ここは三階なのよ。あんたもそれは肝に銘じておいてよ。しかし困ったわね。あんたにしてもらう仕事なんてねえ……」
しどろもどろにそう言ったメラニーの胸倉をユリリーは離した。
「おい、店長のメラニーさんよお。あたしを舐めるんじゃないよ。どんな仕事でもやらせてもらおうじゃないの。それにあたしの事はユリリーと呼び捨てにしなさい。それを許可してあげる。それと遠慮なくなんでも指図しなさい。なんだってやってあげるから。皿洗いでも床掃除でも洗濯でもなんでもやるよ。あたしはあたしなりにこの三階の運営には貢献していきたいのさ。もっともあたしはいつまでもこんなちっぽけな店にはいないよ。商売を覚えたらすぐに自分の店を持つ。そしてより大きな貢献をこの世界でするのさ。さあ、指図しなさい。でもちょっと待った!これからしばらくはここにいる小次郎の世話をさせてもらう。先ほどちょいとした恩義が発生したものでね。その後、指図を聞きに行くからちょっと待ってなさい」
メラニーはぶつぶつと文句を言いながら奥の階段を上がっていった。
「さて小次郎さん。何を注文するんだい?ビールでも持ってこさせようか?」
ユリリーは猫なで声を出してそう尋ねた。
「いや、私はアルコールは絶っております。そうですな……ではお茶でも頂きます」
「それだけ?しらけるなあ。もっと盛り上がろうよ。折角久しぶりに会ったっていうのに」
ユリリーはがっかりした様子でそう言った。そしてこの店の店長のような横柄な口調で店員を呼びつけ、お茶を持ってこさせた。
ユリリーは長い間誰とも話をしなかったような物凄い勢いで小次郎に対して喋り続けた。自分が一階で心変わりをしてもう二度と他人を憎まない事に決めたこと。そしてその意志を五年間貫き通したこと。そして二階に上がったこと。そして女の二階は男の二階と違うらしいことを語った。
「男は図書館らしいわね。女は学校なのよ。これは性差別なんじゃないかしら。はっきりいって気に入らないわね。でもあたしにとっては二階での経験は素晴らしいものだったわ。先生たちは皆さん全員、素晴らしく魅力的な人たちだった。本当に最高の人たちだった。あたしにとって他人なんてどいつもこいつもクソ野郎ばかりだったけれど、二階で色々な事を学んであたしは変わった。素晴らしい他人たちとの生活があたしを変えた。そしてあたしもあの素晴らしい人たちのような人間になりたいと本当に思っている。あの魅力的な人たちの一員になりたいと切望しているのよ!」
ユリリーはそう言って泣き叫んだ。相変わらず元気の塊のような女性だった。小次郎はだんだんとユリリーへの警戒心を解いていった。そしてその代わりに非常にユリリーという女性に対して面白みを持った。そして語る言葉、コロコロと変わる表情を飽きることなくいつまでも眺めていた。やがて泣き終わったユリリーは小次郎の事について根掘り葉掘り尋ね始めた。塔に来るまでの生活、一階での生活、二階での生活、三階での生活。まるで小次郎の骨の髄まで把握しようとしているかのようにいつまでも質問は途切れる事はなかった。そして小次郎の方も次から次へと浴びせかけられる質問に対して満更でもない態度で熱心に誠実に正直に答えていた。そして小次郎は自分でも気付かなかった自分自身の思想をたくさん発見することとなった。
熱心に喋り続け、激しく相槌を打ち続けていたユリリーの態度がとたんに凍りついたようにとまった。そして見開いた目で店の入り口の方を凝視した。すぐに我に返ったユリリーはいきなり身を低くして店の奥へと逃げ去った。小次郎が気付いた時にはもうユリリーはどこもいなかった。彼はユリリーは突然消えたような印象を持った。
「やあやあ、小次郎殿。お久しぶりですなあ。どうですかその後は?同席させてもらってもよろしいかな。あれからまた色々と研究なされたのでしょうな。その成果をお聞かせ願えませんか」
小次郎は自分に話しかけた男を見上げた。やや寂しそうな顔つきながら、無理やり満面の笑顔を作っているカイザーの姿がそこにあった。
「これはこれはカイザー殿。どうぞどうぞ、お座りください。私の記憶が確かであれば昨日午前にお会いしましたね。お互いに用事があって、挨拶程度で別れましたが」
小次郎は丁寧にそう言った。カイザーとは特に約束をするわけではないが、頻繁に会って、情報交換を行っていた。今では何一つお互い隠す事無く腹を割って話し合える関係となっていた。
「今、一階で狂乱のユリリーと呼ばれていた女の人と会ったんですよ。あなたのグループのNo.2でしたね。あなたが現れたとたんにいなくなってしまいましたな」
小次郎は笑ってそう言った。
「やはりユリリー殿でしたか。先日往来でも似たような感じの人を見たのでよもやと思ったのですが。今先ほどその女性とは戸口で目と目が合いましたよ。そして怯えた様子で逃げていかれた。彼女は拙者の素顔を知っている数少ない側近の一人でしたからなあ。どうも拙者は駄目ですね。拙者を見知った顔の人たちはみな拙者を避けようとする」
カイザーは柄にもない弱々しげな苦笑いを浮かべてそう言った。二人はしばし沈黙し、お互いの顔を見合っていた。
「時にどうですか?夢の連中とは折り合いがつきましたか?」
やがてカイザーは尋ねた。
「いや、駄目ですね。とにかく私は誠意が一番だと考えて、今の私の思想のすべてを隠すことなくすべてさらけ出しています。最近私は結局、人間というものは身内に対する愛だけでは不十分だという考えを持っておるのですよ。身内や恋人に対する愛情は偏愛というもので自分自身のみを愛する事とほとんど変わらないものなのではないかと思っています。愛というものは人間にとっておそらく最も大切なものです。愛がすべてといっても良いのかも知れません。しかしどうしても身内のみに対する愛、恋人のみに対する愛、友人のみに対する愛だけではカバーしきれない問題がありすぎます。最も自分から遠い存在である人に対する愛情こそが本当に必要な愛情だと思っているのです」
小次郎は早速、自らの考えを披露した。カイザーは目を輝かせて耳を傾けていた。
「博愛の問題ですか。拙者もまさしくその通りだと思います。人に憎まれている者、無視されているもの、そんな人たちに対する愛こそ、必要なのだと思います。身内に対する愛、魅力的な人間に対する愛はたやすいことです。もっともそれもまた素晴らしいものではあるのでしょう。しかしそれだけでは確かに不十分です。自分達だけ良ければそれでよいというのではこの世に争いは絶える事はないでしょうなあ。難しい問題です。それで夢の住人たちはそれを聞いてなんと答えます?やはり聞く耳持たずで叫んだり、怒鳴ったりばかりですか?」
小次郎はうんざりし尽くしているようなノロノロとした動作で両手の平で自分の顔をゴシゴシとこすった。
「言葉だけなら何とでも言える。とにかく死んでお詫びしろ。死ねばお前の言葉が誠実なものだと認めてやる。と、言っていました」
二人は長い間、沈黙した。
「論外ですな。拙者はそう思います。違いますかな?」
やがてカイザーは言った。小次郎は頷いた。
「確かに死んでお詫びするというのは適切ではないでしょう。夢の人たちは私に危害を加える事は出来ないようです。しかし私が彼らに殺害の許可を与えれば彼等はその武器で私を切り刻む事が出来るらしいですな。ご存知でしたか?」
「……それは、気付いていました」
沈痛な面持ちでカイザーは答えた。
「夢の主人はあくまで拙者自身です。彼等は手ぐすね引いて拙者を殺したがっております。殺害の許可を出せば一瞬にして踏み潰され、切り裂かれなどされるでしょうね。恐ろしいことです」
カイザーは身を震わせた。二人はやはりしばし沈黙した。やがて小次郎は言った。
「私はあの夢がなんなのか、どうもいま一つ理解していません。あの夢の住人たちはただの幻のようなものかも知れないのです。その幻のために自分の命を差し出したところで犬死にの可能性が大です。もし仮に彼らの言う事が本当で死んでみせる事で彼らに理解してもらえて、彼らの幸福に貢献できるのならそれはまた話は別ですが、そういう効果が期待できるとも思われません。それに何よりも私は私の命を徹底的に大事にしたいと思っています。他人のために命を投げ出すのは立派な事なのかも知れませんが、私はそれは出来ません。この命は何よりも大切に守り、育んでいくべきだと思っていて、それが人間にとっての基本的な、第一の使命だと思っているのですよ」
小次郎は右拳を固めてそう言った。二人はやはり長く沈黙し、テーブルの上のコップや床をじっと眺めていた。
やがてカイザーは天井に目を上げて、しばしそのままの姿勢で物思いに耽り、そのまま何気なく店の奥の出入り口に目を向けた。そしてこっそりとこちらの様子を窺っているユリリーとまたしても目と目が合った。すぐにユリリーは店の奥に消えた。カイザーは小次郎に向き直り、まっすぐにその目を眺めた。小次郎はいつまでもテーブルのコップから目を離さなかった。
「では小次郎殿。拙者は今すぐ片付けたい用事が出来たので、今回はこれで失礼致します」
小次郎は我に返ってカイザーの方を向いた。そして気のない返事で、ああ、どうも、と答えた。
「拙者は今から店の奥に行ってユリリー殿と話をしてきます。拙者は昔の拙者ではない事を誠心誠意、説明してみようと思っています。ユリリー殿の考えや経験もぜひ色々と参考にさせてもらいたい。彼女は拙者にとっては謎の多い人物です。お互いが腹を割って話し合えればきっと得るものは大きいと考えます。一階ではほとんど喋った事はないのですよ。いつも人を介しての連絡の取り合いでしてなあ。お互い、内心では憎み合っていたのですよ。実に恥ずかしいお話です。では失礼致します」
カイザーは珍しく青ざめた緊張した面持ちで立ち上がり、その巨体をゆらして店の奥へとノロノロと進んでいった。やがて店の奥からユリリーの獣じみた物凄い叫び声が聞こえてきた。そしてやがてそれも収まった。小次郎はしばしテーブルに座り込んだまま、カイザーが戻ってくるのを待ってみた。長い間、彼は戻って来なかった。やがて小次郎は立ち上がり、店員に向かって片手を上げて、頭をペコリと下げ、そのまま往来へと出て行った。
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