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作:東河哲也



24.読書三昧




 「……殺されたんです。舌を引き抜かれ、目玉をえぐり出され、犬に食わせていました。情け容赦ない傲慢な若者に殺されたんです。われわれの事を人間と思っていないのでしょう。興味本位で平気で殺人をする異常なよそ者に殺されたんです。おじいさんは立派な人でした。その世界で精一杯頑張って私たちの一族を守ってきたのです。みんなが愛していました。尊敬していました。傲慢でヘラヘラとしたよそ者に殺されたんです。犬に食わせたのです……」
 小次郎はうめき、歯を食いしばったまま目を覚ました。汗が大量に吹き出て、真っ青な顔色だった。彼は掛け布団を壁に投げつけて机の椅子へと移動した。そしてがつがつとパンを食べ始めた。そしてごくごくと水を飲んだ。そこにあるぶんすべてを強引に口に突っ込んだ。無理やり水を全部飲み干した。
 そして彼は頭を抱え、長い間うずくまっていた。涙がとめどなく流れ、床にポタポタと落ちた。やがて小次郎はふらふらとした足取りで部屋を出て、巨大な共同トイレで用を足した。何人か人とすれ違ったが、お互いまったく目を合わせなかった。洗面所で顔を洗い、上着で水を拭った。そして鏡を見た。醜い顔だった。片目で潰れた鼻、何から何まで醜かった。この世に存在してはいけない、人の目には触れてはいけない人間の顔に見えた。小次郎はコソコソとトイレを後にした。
 そのあと彼は魂が抜けたようなフラフラとした足取りで本棚を眺め歩いた。もとの世界で見たことのある本がたくさんあった。しかしまったく意味不明な本が圧倒的に多かった。
 【ガンジル】【マチナリエス】【ジプサー】【ドリー】【ポニー】【ガーシャ】……
 題名だけだと何のことだが分からない本。おまけにそういう本に限って物凄い厚みであった。小次郎は手にとって広げてみた。小さな文字でびっしりと埋め尽くされていて、とたんに読む気が失せる。彼は元の世界で見たことのある本を選んで手にとって、眺め、読んでいた。しかしこの図書館の八割はそんなタイトルだけではなんのことやらさっぱり分からず、信じ難いほど分厚くて、重くて、そしてページはびっしりと小さな文字で埋め尽くされている本ばかりであった。残りの二割の本は元の世界に存在する本や漫画などであった。おそらくすべての本が揃っていた。莫大な量の本だった。
 来る日も来る日も小次郎は本や漫画を読んだ。恐怖やストレスを一時の間だけでも忘れたいと思った。本の内容はほとんど頭に入ってこないくせにひたすら読んだ。ひたすら眺めた。そして何もかもを忘れてしまいたいと思った。悪夢は毎日だった。毎日、彼が殺した人間の身内の人間が現れ、彼に切々と訴えた。自分達が心の底から愛していた人が、傲慢で残酷なよそ者からむごい殺され方をしたという内容だった。
 この日もいつものように悪夢で目を覚まし、がつがつと食料を口に詰め込み、巨大な共同トイレで用を足した。そしていつものように本棚を眺め歩いた。
 ふいに小次郎の足が止まった。一つの本の題名に目がクギ付けになり、心臓は高鳴り、足はガクガクと震えた。その本は恐ろしく重くて分厚い類の本の一つだった。
 【小次郎】
 彼は手を伸ばし、その本を取り出した。とにかく重くて大きくて分厚い。その本を近くのテーブルに運ぶまでに彼は三回も持ち直した。一旦下におろし、再度、持ち上げるという風であった。ようやく彼はテーブルにその本を置いて、広げてみた。広げると両手を伸ばした位の幅だった。縦は6,70センチはあった。そこにびっしりと小さな文字が埋め尽くされていた。小次郎はかじりつくようにその内容を読んでみた。そして仰天した。
 彼の今までの人生がその中に、克明に記されていた。彼が生れ落ちたその日からその本は始まっていた。生れ落ちた彼の体重が何キロであったか、その時どういう感覚を持っていたか。その時その場にいたのは誰であったか、その人たちはどんな感情を持ったかなど。すべて克明に記されていた。小次郎の唇はぶるぶると震えていた。生れ落ちた直後の事など覚えている筈は無い。しかしその内容は確かに生まれたばかりの自分であると、はっきりと理解できた。ぼんやりと思い出しさえした。生まれた直後の自分の記憶をである。
 小次郎はとり付かれたようにその本から目を離す事が出来なかった。小さな文字も読みにくさも全く苦にはならなかった。小次郎の365日、24時間、60分、60秒がまったく漏れなく、記されていた。どういう感情であったか。何を見たのか。誰がいたのか。何を聞いたのか。何をにおったのか。何を触ったのか。その時の天気はどうだったのか。湿度はどうだったのか。あらゆる情報が克明に記されていた。その他にも小次郎には全く理解できないような情報も大量に載っていた。構成物質、空気感、存在の有無……?
 とにかく小次郎は読み取れるものはすべて読んだ。まったく読み疲れなかった。貪るように読んだ。食事も睡眠も完全に忘れた。かすむ目をゴシゴシこすってまた読んだ。読んで読んで読みまくった。三日四日の後には気絶するように眠った。そして目覚めると再び読んだ。空腹で死にかけた。彼はいまいましげにパンを口に突っ込み、食べながら読んだ。どのくらいの長い月日が流れたのか検討もつかなかった。小次郎の本は、小次郎がこの二階に上がって来たところで途切れた。五年間の逃亡生活が終わり、目覚めて、この階に存在した所で途切れていた。それ以降はすべて空白だった。

 書籍【小次郎】を読み終わった彼は本を片付ける事も忘れ、放心状態でよろよろと窓際を目指して歩き始めた。窓際に到着した彼はぼんやりとした目つきで窓の外をずっと見ていた。彼は思っていた。今までの人生で自分がどれだけ多くのものを捨ててきたのかを。本当の自分をどれだけ押し殺してきたのかを。しかしそれらのすべては止むを得ない事でもあった。本来の自分自身をそのまま大切にしてゆけばこんな風にはならなかった。しかしこういう風になるに至る原因がありすぎるほどにあった。すべては定められた道を歩んだだけであるかのようにさえ思えた。子供の頃、奔放で巨大な可能性の塊だった。まわりの人間はそれを押さえつけるばかりだった。彼は幾たびも嫌な思いをし、苦しい思いをし、少しずつ自分の天才を捨てていった。そして彼の両親もこんなにも必死に彼を育てたのかと驚いた。彼により彼の両親は多くの事を考えた。切実に苦しんだ。たくさんの成長をした。そして確かに愛されていた。両親にとっての頑張る目的の大半を彼は占めていた。彼を育てるために両親は切実に強さや賢さを求めていた。そして驚いた事に両親は全く考え方の違う個別な人間だった。小次郎の中では父と母は二人一組だった。しかし実際は、まったくの別物だった。両親はただ彼によってつながっていた。それ以外の共通点は驚くほど少なかった。
 窓際に立ったままの彼の頭の中は嵐のようにさまざまな想念が吹き荒れていた。三日間ほどもずっと立ち尽くしたままだった。まるで石像にでもなったかのようにピクリとも動かなかった。
 ようやく動き出したかと思うと今度はフラフラと部屋へと戻り、そのまま布団にもぐりこんでやはり三日間ほど出てこなかった。悪夢は見ていないようだった。
 突然彼はバネ仕掛けのような勢いで布団から飛び出した。そして餓死寸前であったかのような勢いでがつがつと食事を始めた。腹をパンパンに膨らませた彼は巨大トイレへと向かった。起きた後の食事、その後のトイレは彼の習慣になっていた。トイレで用を足した小次郎はゆったりとした足取りで、それでも今度はしっかりとした態度でじっくりと本棚を眺め始めた。分厚くて大きくて重い類の本のコーナーであった。彼はいくつかの知り合いの名前をそこに発見した。その中には彼が殺した人間の本もたくさん見つかった。その中の一つを小次郎は手に取った。最悪の人間だった。こいつだけは殺した事は正解だと思えた。未だ悪夢にも出てこない人間だった。おそらく誰一人彼を愛してはいなかったのだろう。彼はその人間の本を苦労してテーブルに運び、熱心に読み始めた。
 やはりそうだ。小次郎の場合と同じ事だ。彼は天才だった。天才として巨大な可能性を持っていた。そして莫大な苦しみのため、その天才は完全に抹殺された。彼を愛する者は極めて少なかった。彼の人生には他人の好意がほとんどなかった。その中で彼はもがき苦しみ、必死で生きていた。最悪の人間の内面には単に弱い人間があった。弱い人間が必死で強くなろうとする痛ましい姿があった。
 小次郎は次から次へと彼の殺した人間の本を読んだ。みな一様に天才だった。天才が徐々に自分の天才を殺していく過程は人それぞれ違っていた。そしてやはり皆、弱かった。弱い人間だった。弱い人間が頑張って強くなろうとする痛ましい姿があった。哀しい姿があった。愚かで無知で残念な姿だった。すべての人間に甲乙付け難い深い人生の足跡があった。そして一人一人の感覚がこんなにも違っている事に驚いた。表面上は同じような生活であったとしてもその内面生活は全く異なっていた。
 小次郎は殺した人間の本を読み、憎んだ人間の本を読んた。元の世界の人間の本は見つけられなかった。













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