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作:東河哲也



20.先客に驚く小次郎



 その日、夜が明ける前に始めての森に入った。そしていつもの如く、茂みの中に穴を掘り、そこにすっぽりと身を隠した。そしてその中でただひたすらじっとしていた。辺りは昼になっても彼の世界は真っ暗だった。ただひたすら五感を研ぎ澄ましていた。ほんのかすかな物音、かすかな臭い、かすかな空気の変化、それらすべてを敏感に感じ取った。そして極力人に気付かれないようにと集中していた。空腹は凄まじかった。彼はもう木の枝のようにやせ細っていた。それでもひたすら夜になるまでじっとしていた。昼の間、彼は半分寝て、半分起きているような状態だった。かすかな臭い、空気、音の変化に敏感に反応し、寝たり起きたりを繰り返した。

 『こんな生活がいつまで続くのだろう。もう長い時間が過ぎたのではないだろうか。もう時間の感覚がほとんど分からない。昼が来て、夜が来る。その繰り返しが幾たび重ねられた事だろうか。モグラのような生活だ。肌はすっかりとかさかさでブツブツだらけで、人間の肌ではなく、象か何かの皮膚のようになってしまった。もう人間らしい姿でもないように思える。命を守り、保つだけの毎日だ』

 小次郎は土の中に潜み、ぼんやりとそんな風な事を考えていた。この逃亡生活の中、彼はいくたびも自らの人生を見直していた。命を守ること、命を保つ事のほかにはそれしかする事も無かった。小学生の頃、彼は餓鬼大将だった。しかし小学六年生の頃、喧嘩で負けた。そして喧嘩に負けた相手から苛められ、そしてその相手から逃げまわる日々だった。そして地元でも有名な不良中学校に入った。彼は周りの不良たちに怯えながら中学校生活を過ごした。やはり一部の不良たちに苛められた。彼はひたすら目立たないように、不良たちから目を付けられないように、不良たちを怒らせないようにとばかり気を使い、生活を送っていた。一部の不良たちからは通りがかるたびにサンドバッグのように殴られ続けた。彼はヘラヘラと作り笑いを浮かべながらそれにじっと耐えた。小次郎は体力は有る方だった。だから本気で喧嘩をすれば彼等のほとんどに勝てる筈だった。しかし心が完全にいじけていた。極めて弱気だった。臆病者だった。
 高校生になった小次郎は植え付けられた強烈な劣等感からの脱出のため、狂った様に陸上競技短距離走に打ち込んだ。脚には自信があった。狂ったように走りこみ、狂った様に筋肉を鍛えた。高校二年生の頃、中学の頃のいじめっ子の一人と街で出くわし、ひとけの無い公園に連れて行かれ、小突き回され、金をせびられた。その時、小次郎は極めて冷静にこう決めた。

『こいつを殴ろう。そして徹底的に喧嘩をしてみよう』

 小次郎はいきなり相手を渾身の力を込めて殴りつけた。
 「何すんだ手前この野郎。ぶっ殺すぞこの野郎!」
 相手はそう言いながらも、小次郎の強烈なパンチをくらい、一気に戦意を喪失し、走って逃げ去った。小次郎はぼんやりとそれを眺めていた。
 その後、その相手の親から小次郎の親へと苦情が入った。暴力行為を受けて顔面が骨折し、歯が何本か折れたという事で警察に訴えると相手の親は言った。小次郎の親と相手の親との話し合いの場が持たれ、小次郎の親は30万円ほど相手に支払い、示談となった。小次郎は謝るようにと親から命令されたが頑固に謝らなかった。自分が悪い事をしたとはまったく思わなかった。ただ自分が誇らしかった。弱々しかった自分から一皮むけれたような気がした。そしてますます陸上競技に取り組んだ。そしてインターハイに出場するまでになった。そして大学生になって、遊びまくった。長谷川優子という誰もが認める美人の恋人も出来た。しかし裏切られた。友人たちにも裏切られた。ただ一人、高山という友人だけは誠実だった。そのほかの友人らしき人間も親も誰一人信用できなかった。しかしその高山とも特別に親しい間柄でもなかった。考えて見ると、誰一人、愛していない気がした。愛する人間は一人もいないような気がした。

 新しい森に移動したばかりの小次郎は、日中の間はそんな風に自分の人生を振り返りつつ土の中でひっそりと過ごしていた。
 『????』
 小次郎の五感は何かの違和感を感じていた。そして夜になって、夜の生物たちが活動を始めた時にもやはり何かの違和感は残っていた。彼は土から出てきて、いつものようにこそこそと食料を探し歩いた。何かの気配がした。彼は立ち止まりじっと感覚を研ぎ澄ました。そして動き出し、そしてまた立ち止まった。
 『なるほど、そういうことか。驚いたな。こんな事は始めてだ』
 小次郎ははっきりと悟った。この森には先客が居るのである。人間の気配を感じ取ったのだ。小次郎はそれを知ると次の森へと移動した。













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