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Night Parade

作者: 雪華

 けたたましいセミの鳴き声が、夏休み真っ只中の公園に響く。容赦なく照り付ける太陽は体力と思考を奪い、言ってもどうにもならないと解っていながら、「あちー」と愚痴がこぼれた。


 猛暑は連日、記録更新中。


 アスファルトから湯気のような陽炎が立ち昇る中、公園のベンチに座り、空を仰ぎながら買ったばかりのアイスを一口かじる。すでに溶け始めたラムネ味の氷が、ボタボタと地面に落ちた。


「あーあー。汚ねぇなぁ」


 ベンチの前に停めた自転車にまたがって、幼馴染の修がソフトクリームを食べながら俺を笑う。でも、やっぱりこの暑さでソフトクリームもあっという間に溶けだし、コーンの先からにじみ始めていた。


「お前の方だって、なんかヤバそうだぞ」

「うわマジかよ。いつのまに! 何コレどっから食えばいい?」


 もはやコーンを持つ手もバニラにまみれ、味わう暇もなく、修は必死にソフトクリームに食らいつく。先ほどのお返しとばかりに、俺はゲラゲラと声を立てて笑った。

 炎天下にさらされた修の黒い髪は日光を吸収しやすそうで、もしかしたら頭のてっぺんで、目玉焼き作れちゃうんじゃないかな? パカッと割られた卵が、修の頭の上でいい匂いを漂わせながらこんがり焼きあがる光景がリアルに想像できてしまい、俺は首を振った。

 考えると余計に暑くなる。

 指に付いたクリームを舐めながら、修はため息まじりにぼやいた。


「しかしこの猛暑日に講習会とか、正気の沙汰じゃねぇよな」

「しょうがないだろ受験生だし。二学期入ったらすぐ模試ラッシュなんだから」


 俺は汗で額に張り付く前髪をかき上げると、食べ終わったアイスの棒を近くのごみ箱に投げ入れた。しかしその棒は、無情にもごみ箱のふちに弾かれ地面へと落ちる。


「うわ、マジかー」


 うんざりして体をのけぞらせた。

 暑くてもう一歩も動きたくないのに、なんでこの距離で外しちゃったかな。


「あーベトベト。俺ちょっと手、洗ってくるわ」


 修は今にも蟻がたかってきそうなアイスまみれの手を俺に見せつけてから、公園の中央にある水道まで走っていった。俺も弾かれた棒が気になったので、だるい体を起こしてゴミ箱へと近づく。

 背中にジリジリと太陽の熱を感じた。

 落ちている棒に手を伸ばした瞬間、ふと誰かに見られているような気がして顔を上げる。


「修?」


 しかし修はまだ水道でバシャバシャと手を洗っていた。こちらを見ていたような気配もない。

 おかしいな。

 今度こそちゃんとゴミ箱に捨てて、改めて周囲を見回す。誰かに見られたような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。こんな炎天下の公園に、俺たち以外の人影はない。

 そんな遠くばかりを気にしていた俺の足元に、スルリと何かが触れた。


「うわ!」

「どうした、渉……って、なんだ、子猫じゃん。ビビらせんなよ」


 俺の声に驚いて駆け寄った修は、ほっとしたように小さく息を吐く。

 視線を足元に移すと、小さな子猫がちょこんと座って毛繕いをしていた。真っ黒な体に手足の先だけ白い、いわゆる「靴下猫」というやつだ。


「だって急に足にスリ寄るから」

「あれ、この猫、昔おまえん家にいたヤツに似てんな?」

「うん……」


 修に言われる前から、実は俺もその子猫の佇まいに面影を重ねていた。

 昔飼っていた、黒猫の「呂色ろいろ

 いつも俺の後を追って、風呂にまでついてきたっけ。もちろん寝るときも一緒だった。


「……似てるよな」


 懐かしさに胸を締め付けられながら、俺はその子猫に手を差し出した。猫は嫌がる素振りも見せずにその手にすり寄り、指先をペロッとなめて俺の顔をジッと見る。ふいに黒猫の耳がピンと立ち、何かの音を捉えたかのように遠くを見つめると、跳ねるように走り去ってしまった。

 置いてけぼりにされたような気がして、俺は手を差し出したまま猫の行方を目で追う。


「ああ、行っちゃったねぇ」


 猫が姿を消したのを見届けると、修は残念そうに俺の肩をポンと叩いた。そして、まだ猫を目で探す俺の腕を引く。


「いい加減、帰らないと脳みそ溶けそー」

「猫、戻って来ないかな」

「猫だって、こんな直射日光浴び続けたくないだろうよ。どっか涼しいとこ行ったんだよ」

「そっか。じゃあ帰ろうか。……ねぇ修、チャリの後ろ乗せて?」


 俺の言葉を聞いて、修は片眉を上げると、汗でずれたメガネを人差し指で押し上げた。


「は? ふざけんな。このクソ暑い中、渉を乗っけて体力消耗したくねえよ。走れ」

「ムリ、走れない! 死んじゃう!」


 俺は止めてあった自転車の荷台に素早くまたがると、子どもみたいに手足をバタバタさせて駄々をこねてみた。この炎天下の中走るなんて、絶対ヤダ。でも本当は、昔飼っていた猫を思い出してしまって、ただ気を紛らわせたかっただけだ。だってこうすれば、修はきっと構ってくれる。


「あぁ、ホントお前ってズルい。そういうキャラ、得だよなぁ」


 修が俺の髪をグシャグシャっと両手でかき回す。それ以上は何も言わずに自転車のペダルに足を置くと、俺を乗せたままゆっくりと漕ぎ出した。

 ホラね、なんだかんだ言っても、修は優しい。


「さんきゅーな」


 熱風を切り裂きながら、灼熱の街を自転車が進む。

 修は前を向いたまま「どーせ俺ん家、お前の家の斜め前だしな」と笑った。



 修と別れて家についてからも、ずっと子猫のことが頭を離れなかった。

 呂色によく似た、黒い猫。

 俺の大事な呂色は、ある日突然姿を消してしまってそれっきりだ。

 いなくなった当時、小学生だった俺には、とうてい受け入れられない現実で、立ち直るのにしばらくかかった。放心状態のまま給食を食べ、口の端からボロボロこぼす俺を見て、修が心配してくれたっけ。


 ベッドに仰向けになり、天井をじっと見つめる。

 ふいにコツンと、窓に何か当たったような、軽い渇いた音が部屋に響いた。驚いて体を起こし、窓に目をやる。

 コツンと再び音がした。今度は確かに窓に小石が当たるのを見た。

 閑静な住宅街。

 どこにでもあるような、一戸建ての二階の部屋が、今俺がいる場所だ。あと何分かすれば、明日が今日に変わるくらいの時間に、誰が何の用で?

 恐るおそる窓辺に近づき、外を伺う。


「渉~! おーい、ワ・タ・ル!」


 人懐っこそうな笑みを浮かべ、こちらに向かって手を振る人影を見つけた。

 年のころは俺と同じくらいか。黒いサラサラの髪に、メシュのように白い髪が一房、前髪に流れている。スラッと背の高い、目鼻立ちの整った相当なイケメンだ。

 全く見覚えのないその男が俺の名を呼んでいるのにも驚いたが、それよりなにより、そいつのいでたちに度肝を抜かれた。


 このクソ暑いのに、黒い羽織にグレーの袴。

 そして信じられないことに、猫耳に尻尾が二本揺れている。

 え? 何? コスプレ?


「渉ってば、降りておいでよ!」


 真夜中の住宅街に、そいつの声が響き渡る。俺は慌てて唇に人差し指を当てて「黙れ」とジェスチャーを送った。しかし、それを見てもそいつはにっと笑うだけだ。


「渉が降りてこなかったら、もっと大声出すよ!」


 楽しそうにぴょんぴょん飛び跳ねながら、こちらに手を振り続けている。


「くっそ」


 俺は舌打ちすると、机の上の財布とスマホをつかみ、寝ている家族を起こさないように階段を下りて外へ飛び出す。


「やあ、渉。久しぶりだね」


 ニッコリ笑うそいつを見ていると、馬鹿げた考えが頭をよぎった。

 ありえない事だ。絶対に。

 なのに、俺は黒い猫を思い浮かべ、気付くとその名を呼んでいた。


「呂色。静かにしなきゃダメだろ」


 ぱぁっと、呂色の顔が輝く。


「覚えててくれたんだ! 渉っ、大好きだよ!」


 がばっと抱き着かれて、俺は固まった。ふわっといい匂いがする。

 嘘だろう。本当に呂色なのか?


「とりあえず、落ち着け。そうだ、コンビニ行こう。涼しいし」


 抱き着く呂色を引きはがし、俺は少し離れたところに見えるコンビニの明かりを指さした。こんな奇妙な格好をしたヤツ、連れて行って大丈夫だろうかと一瞬不安が過ったが、これ以上家の前で騒がれるのも困る。


「僕、あれ食べたい。渉がこっそりくれた、ビーフジャーキー」


 呂色はスキップするように俺の後ろをついてきた。


「あれは猫にはしょっぱ過ぎるから、もう駄目だって言ったろう」


 そこまで言ってハッとする。何フツーに呂色って前提で話してんだ、俺。しかし、呂色が実はビーフジャーキーが好きだったなんて、家族でも知らないのに。


「怒らないから、本当の事言ってくんない? アナタ、誰なの?」


 急に立ち止まって振り返った俺を、首をかしげて不思議そうな目で見る。


「呂色だよ? なんで? さっきちゃんと名前呼んでくれたじゃない」

「いやいや、さすがに無理だよその設定。何コレ、ドッキリ? どっかにカメラあるの?」 


 きょろきょろとあたりを見回した俺は、呂色に視線を戻してぎょっとする。


「なんで信じてくれないの? 僕、渉に会えるのすっごく楽しみにしててさ。渉もすぐに僕だって気づいてくれたから、嬉しかったのに……!」


 その大きな目から、ハラハラと涙が落ちる。着物の袖で涙をゴシゴシぬぐいながら、子どものようにしゃくりあげた。


「渉、僕の事あんなに好きだって、可愛いって言ってくれたじゃん。僕の事、もう嫌いなの? あんなにずっと一緒にいたのに。寝るときだって、お風呂だって一緒だったのに」


 仕事帰りのお姉さんが、通りすがりに呂色の言葉を聞き、驚いて二度見した。泣いてる呂色と、焦る俺を交互に見て、ニヤニヤしながらそそくさと通り過ぎる。

  違う違う! お姉さん、誤解してるっ!


「わかった! わかったから、とりあえず泣くのやめようか? あ、そうだ。呂色だって信じられるように、呂色しか知らない俺との思い出、言ってみてよ」

「渉の思い出……?」


 ごしごしと目をこすりながら、呂色はうーんと考え込んだ。


「あ! 小四の時、怖いテレビ見ちゃって夜中にトイレに行けなくて、おねし……」

「はいストップ! うん、わかった!」


 慌てて俺は呂色の口を手でふさいだ。もごもごと呂色が不服そうに口を動かす。


「ホントに呂色?」

「だから、そう言ってるでしょ」


 二股に分かれた呂色の尻尾がパタパタ揺れる。


「なんで……急にいなくなっちゃったの? 俺、ずっと探したんだよ」


 ヤバイ、泣きそう。

 半信半疑のはずなのに、自然とそんな事を聞いてしまった。

 俺の言葉に、呂色が「んー」と困ったような顔をして、言い難そうに首を傾げる。


「お散歩中に、車に轢かれちゃってさ」


 呂色は両手を広げると、俺を包み込んだ。

 あぁ、やっぱり呂色の匂いだ。

 日向ぼっこして、陽の光をいっぱい浴びた、懐かしくて愛しい匂い。


「呂色ぉ」


 俺は呂色の羽織にしがみついて、ボロボロと泣いていた。まさか高校生にもなって、こんな泣き方をするとは思わなかったが、涙が止まらない。まるで小学生に戻ったみたいに、わんわん声を上げる俺の背中を呂色は優しくさすった。

 今さらだが、もしこれがドッキリなら凄く良い絵が撮れただろうな。

 でももう、そんなの全然、どーでもいい。


「ごめんね渉。渉にサヨナラも言わないでお別れしちゃって。僕ずっとそれが心残りで、今日は特別に寄り道を許してもらえたんだ。だから、真っ先に会いに来た」


 背の高い呂色が、俺の額にスリスリと頬摺りをした。


「寄り道?」

「そうだ! 渉にもちょっとだけ見せてあげるよ。百鬼夜行って知ってる? 今日は妖怪のお祭りなんだ」

「え?」


 言うと同時に、呂色は俺をふわりと抱き上げると地面を蹴った。あっという間に屋根の上に乗ると、そのまま飛ぶように軽く、隣の屋根に飛び移る。

 涙なんて、吹っ飛んだ。


「ろ……呂色!」

「あは。楽しいね、渉! ほら、見えてきた。あそこでお祭りをしてるんだ」


 抱えられながらその行く先に目を凝らすと、町はずれの神社に確かに明かりが見える。俺はその明かりから呂色へ視線を戻した。楽しそうに笑う呂色を見上げながら『夢なら醒めないで欲しい』と、真剣に願ってしまう。やがて鳥居の前にゆっくり着地した呂色は、「さあ、行こう」と手を差し出した。


「迷子になると、帰れなくなっちゃって大変だから、手をつなごうね」


 真夏の深夜に秘密の縁日。

 駆け出す呂色に手を引かれ、幻想的な提灯の明かりの中に飛び込んだ。やぐらを中心として輪になって踊っている妖たちは、人の形をしていたり、明らかに人外だったり。


「渉、人間界の盆踊りでも、お面をしている人に話しかけちゃダメだよ」

「どうして?」

「あの世から、こっそり帰ってきてる人かもしれないからさ」


 陽気なお囃子と和太鼓が響く境内で、俺と呂色は夜店を片っ端から回った。型抜きに挑戦したり、射的で勝負したり。


「ねぇ渉、金魚掬いがあるよ!」


 まるで子供のようにはしゃぎながら、呂色は屋台目がけて駆け出した。手をつないだままなので、当然俺も引っ張られる。


「ちょっと呂色、落ち着いて!」


 俺の声も届かないほど興奮した呂色は、金魚の生け簀を前に座ると尻尾をパタパタと揺らした。


「おじさん。金魚すくい一回!」

「あいよ。一回三百円ね」


 射的で全財産を使い果たした呂色が、キラキラした目で俺を見上げる。猫だった頃も、こうしてよく上目遣いでおねだりされたなと、懐かしくて胸がじんわり暖かくなった。


「じゃあ、三百円」


 財布から小銭を出し、店主に渡すと「おや」と顔を覗き込まれた。


「お兄ちゃん、人の子だね。珍しい」

「ど、どうも……」


 見た目は人間そのものの店主も、実は妖怪なのだろうか。クンクンと匂いまで嗅がれて俺は身をすくめた。


「ちょっとおじさん! 僕の渉にちょっかい出さないでよね」

「ああ、そいつは悪かったね」


 頬を膨らませる呂色に、店主はあははと笑って金魚を掬うためのポイを手渡した。それを受け取ると、呂色は舌なめずりをしながら「えい!」と勢いよくポイを水の中に突っ込む。当然金魚はスイッと逃げた。


「ああ、もう!」


 悔しそうに目をギュッとつぶる。呂色は再びポイを水中に入れると、今度は金魚を追い回した。一匹も捕れないまま、ポイの方が先に破けてしまう。


「ああ、破けちゃった。渉、もう一回!」

「いいけど……うち、水槽ないから捕ったって飼えないよ? 呂色はちゃんとお世話できるの?」

「お世話? やだな渉。これはおやつだよ? 飼うんじゃないよ~」


 何言ってんのと、まるで当たり前のことのように言って呂色は手をたたいて笑った。いやいやいや、金魚がおやつとか。でも、猫ならそれもアリなのか……。

 生け簀を泳ぐ金魚が急に不憫に思えて、俺は呂色の袖を引っ張った。


「金魚より、もっと縁日っぽいもの食べようよ。目の前で金魚バリバリ食べられるのはちょっと……」

「えーっ。渉が言うなら仕方ないけど。金魚ダメかぁ」


 頭を掻きながら立ち上がった呂色が、残念そうに金魚を見下ろす。屋台の店主がクックと肩を揺らした。


「じゃあね、おじさん」


 バイバイと手を振った呂色に向かって、店主は「おい猫又」と呼び止める。


「その人間はこのまま連れて行くのかい?」


 連れて行く?

 何の事かと俺は呂色の横顔を見上げた。呂色は店主に向かって曖昧に笑ったまま、「連れて行く」とも「連れて行かない」とも言わない。顔を伏せ、さっさと歩き出してしまったので、慌ててその後を追いかける。


「呂色!」


 呂色は手をつないでいないことを思い出したのか、ハッとして顔を上げると、振り返って俺に手を差し出した。


「ごめんね、手を繋いでいなかった」

「ねぇ、連れて行くってどこへ?」

「……連れてくなんて言われたら、ビックリしちゃうよね。安心して、ちゃんとお家に帰れるから」


 困ったように、悲しそうに、眉を寄せて小さく笑う呂色の手を取る。


「呂色」


 何となく嫌な予感がしてその先が言えない。不安をかき消すために、俺は呂色の手を強く握った。

 そうこうしているうちに、東の空が白んでくる。


「あぁ。もうお別れだ」


 呂色が低い声で残念そうに呟いた。

 嫌な予感が当たって、俺はつないでいた手を更に強く握る。


「また会える?」


 そんな問いかけをした俺を、優しい瞳で呂色が真っすぐに見つめた。にっこり笑って俺の頭を愛おしそうに撫でる。


「渉がおじいさんになって、天国へ旅立つときに、僕が必ず迎えに行くからね」

「そんなに待てないよ!」


 どんどん昇る朝日に溶けていくように、呂色の姿が薄くなっていく。いつの間にか、お囃子も遠ざかっていった。


「公園で、子猫に会ったでしょ?」


 消えてしまいそうな呂色に、俺は必死にすがりついて、うなずくしか出来ない。


「あの子、僕の子供の子供だから、良かったら大事にしてあげて」

「お、お前、いつの間に」

「えへへ」


 照れ臭そうに呂色が頭をかいた。


「わかった。大事にするよ」

「ありがとう」


 つかんでいた呂色の感触が急になくなって、俺は慌てて何度も呂色に手を伸ばすが、その手は虚しく空を切った。


「呂色!」

「またね、渉」


 辺りが徐々に白くなって、呂色は笑顔のまま吸い込まれるように消えていく。


「呂色っ! ねえ、呂色!」


 白い空間に一人取り残された俺は、必死にその名を呼び続けた。


「呂色!」


 次の瞬間

 俺は自宅のベッドで、泣きながら目を覚ました。


 夢じゃないことくらい、ちゃんとわかる。


 時計を見ると、針は五時を指していた。

 俺は着ていたシャツの袖で乱暴に涙を拭くと、公園へ向かうために素早く着替える。

 家から出て空を見上げると、朝焼けの中、まだ月が残っていた。

 猫の爪の様な細い三日月。


「渉!」


 頭上から名前を呼ばれ、俺は声のする方を見上げた。


「今そっちいくから、そこで待ってろ」


 窓から顔を出していた修が部屋の中に引っ込むと、その言葉通りあっという間に外へ出てきた。


「どこ行くんだよ?」

「公園」

「俺も行く」


 修が自転車の後ろに乗れとあごで指したので、俺は素直に従った。修は力いっぱいペダルをこぎだす。


「お前、真夜中に猫のお化けと出かけたろ」

「……うん」

「あれ、呂色?」

「うん」


 なぜか怒ったような声の修が、深く息を吐いた。


「つーか、いつ家に戻ったんだよ? お前があのまま帰ってこないから、どうしようかと思った」

「ごめん」


 もしかしたら修は、俺が出かけてからずっと、窓から外を見ていたのだろうか。


「心配した?」

「当たり前だろ。でもまぁ、帰って来たからもういいよ」


 やがて公園の大きな木が見えてくる。

 まだ寝静まった街の公園に、ぽつんと黒い小さな影が一つ。

 公園の入り口から自転車に乗ったまま、俺はその影に「おいで」と声をかける。迷わず影は俺の方へと駆け寄ってきた。


「この猫は呂色の生まれ変わり?」

「いや、呂色の孫だってさ」


 ぴょんと胸に飛び込んできた子猫を、俺は大事に抱える。

 出会いは別れの始まりだ。

 この子ともいつかサヨナラするんだろう。

 だけど、一緒に過ごした時間まで、なかったことにはならないだろう?


「俺がじーさんになって天国に行く時は、呂色が迎えに来てくれるんだって。修が天国に行く時は、俺が迎えに行ってやるよ」


 再び走り出した自転車で、修の背中に独り言のようにつぶやいた。


「ばーか。お前は俺より長生きしろ」


 空を見上げれば、もうすっかり日も登り、一日の始まりを告げていた。

 消え入りそうな三日月に、俺は手を振る。


 サヨナラ、呂色。また会う日まで。

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― 新着の感想 ―
[一言] 猫飼ってただけに、グサグサきた。 泣いた。 おっさんなのに。(^^;)
[良い点] 夏の暑い日の……怪談……。 だけど、全然怖くない。 ロイが可愛いくて、ちょっと切なくて……。 私も帰ってこなかった犬を思い出しました。 一日だけでも会いに来てくれたらな~……。 お友達の修…
[良い点] 昔飼っていた猫が化けて会いに来てくれるお話で、ペットを飼った経験のある方には刺さる内容だと思います。 飼い主の知らないところで家族ができていたりする点などは、猫を上手に表現できていると思い…
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