表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

星霜

作者: 逢坂

挿絵(By みてみん)


 周囲より絵が得意なことを唯一のアイデンティティにしていた子供にとって、大学の美術科ほど残酷な場所はない。ここで一番最初に学ぶのは、自分なんて特別でも何でもないという、薄々勘付いていながら、誰もが目を逸らしてきた痛々しい事実だからだ。情緒不安定な学生で溢れ返るのも、致し方ない話だった。ご多分に漏れず、私自身、二回生になった今でも、自分の在り方に青臭く悩んでいる。

 今年の夏は孤独だった。一回生の頃の長期休暇は、一緒に近畿へ進学した旧友や、大学の同回生と、お酒を飲んだり旅行したりしていたけれど。段々、段々、そういう関係に息が詰まるようになって。気がつけば、自ら好んで一人を選ぶようになっていた。

 お盆くらい、実家に帰ろうかとも思ったけれど、それが愚かな感傷に過ぎないことくらい、少し考えればすぐにわかった。この一年半、家族とは一度も顔を合わせていない。最後の最後まで、娘の美術科進学を反対していた、頭の固い大人たち。田舎者で、文化的な教養なんてまったくないくせに、わかった風なことばかり言って。見返してやるつもりで家を出た。少なくとも、今の自分に胸を張れるようになるまでは、帰るわけにはいかない。

 そうは言っても、入学してからこの方、胸を張るどころか、日増しに気が鬱ぐばかりだった。どんどん自分がわからなくなって、なんで私こんなところに来ちゃったんだろう、なんて、詮無い自問自答を繰り返している。

 さしあたり、一番の悩みの種は、所属研究室の選択だった。三回生以降専修する分野を決めて、二回生の秋までに、希望届けを提出しなければならない。多くの同輩は、人付き合い重視で、友人や先輩の顔を窺いながら、どこを希望するのか決定している様子だった。到底真似できない芸当だ。かといって、純粋に技術や才能から専門を選べる程の力など、私は持ち合わせていなかった。

 どうしたもんかな、と、最近覚えたばかりの煙草をふかしながら頭を抱える。夜の喫煙所には、羽虫まみれの街灯一本と、昨年の四回生が卒業制作として設置した、大理石の彫像が一体だけ。昼間の大学は、どこに行っても喧噪が付きまとってくるから苦手だったけれど、夜の学内は、なんだか落ち着けて好きだった。少なくとも、一人っきりでワンルームの下宿に篭っているよりは、こうして外の空気を吸っている方が、健全な気持ちになれる。

 中庭の喫煙所におかれた彫像は、昨年度の卒業制作の中でも、ピカイチの傑作として有名な代物だった。空へ手を伸ばす女性を象った、たおやかな像。春には、傍らの木から零れ落ちた沢山の桜花が、彼女の掌に降り積もっていた。そのあまりに優美な光景に感動して、自分も彫刻を専門にしようかと思ったことさえある。でも、憧れだけじゃどうしようもないって、すぐに諦めた。

 この彫像を制作した先輩は、院生として今も大学に残っていた。研究室訪問をした時に対応してくれたのが、その先輩だった。「どうして彫刻を専門に選んだんですか?」という私の問いに、彼は、「俺は、彫刻しか出来なかったからな。色彩感覚ゼロで、絵画の成績酷かったし」と、自嘲気味に答えた。その自覚が、自負が、私みたいな凡人からしたらどれほど妬ましいものか。あの人は、多分全然わかっていなかった。


「氷室君?」


 不味くなった煙草をもみ消した私は、突然声をかけられ、背後の闇を振り返った。歩み寄ってきたのは、ふわふわした栗色のウェイト・ボブが愛らしい、一人の女性だった。ブラウスのパフスリーブから伸びる細い腕は、街灯の拙い明かりでもわかるくらい青白い。


「あら、ごめんなさい。人違いね」


 私の顔を認識した彼女は、そう言って、どこか安心したように詫びた。よくよく見てみると、目の前の女性は、第二絵画研の四回生、葉山サチさんだった。


「あの、葉山さん、ですよね」

「え? あぁ。あなた、この前研究室に来ていた」

「はい。二回生の児島です」


 どうせ憶えてくれてはいないだろうと卑屈に考え、自分から名乗った。葉山さんはにっこり頷いて、児島冴子さんよね、と私のフルネームを呼んでみせた。


「こんな夜中にどうしたの? 元気?」


 まるで、親しい後輩を気遣うように、彼女は問うた。


「何か悩み事? 恋愛? あ、研究室選び、まだ決まっていないとか?」


 わかるわかる、と、やけに朗らかに葉山さんは頷いた。エスパーみたいなご明察にどきりとして、私はぎこちなく肯定した。初対面に近いにも拘らず、親身に声をかけてくれることが嬉しかった。けれど同時に、こちらの悩みに共感するような彼女の様子が、不愉快だった。

 葉山さんは、第二絵画研が誇る、学内一の才媛だった。制作も座学も飛び抜けた成績らしく、主席での卒業が既に約束されているそうだ。体調不良で去年一年は休学していたらしいけれど、復帰した今年は、精力的に活動し、数々の賞を受賞している。美術雑誌を繰っていて、うちの大学の名前が出てくる時は、大抵葉山さんに関する記事だ。

 容姿だって悪くない。可憐なファッションと物憂げな相貌がどこかちぐはぐだったけれど、それがかえってミステリアスな魅力を生んで、人目を惹いた。しかも、いざ話してみると案外表情豊かで、これがまた可愛らしい。


「二回生の頃じゃ、自分の得手不得手なんて、まだあんまりわからないし。難しいのよね」


 なんでもできるあなたの悩みと、なんにもできない私の悩みを、一緒にしないでください。喉元まで迫り上がった言葉をぐっと飲み込み、愛想笑いだけ返した。すると葉山さんは、急に無表情になり、見透かすような瞳で、私の目を真っ直ぐ見つめた。やがて、ちらりと腕時計を確認し、提案する。


「児島さん、よかったら、ちょっと付き合わない?」


 くいっと、お酒を傾けるジェスチャーをして微笑む葉山さん。


「私本当は、ここで人を待っているんだけれど。約束の時間まで、まだ半時間以上あるから。缶チューハイ一本くらいは、ね?」

「そんな何十分も前から、待ち合わせ場所に来てるんですか?」


 誘いへの返答をはぐらかしたくて、わざと余計なことを訊ねる。待つのが好きなの、と目を細め、葉山さんはさっさと歩き出してしまった。


「今日は雲が少ないのね。星が綺麗」


 大学前のコンビニでお酒を調達した帰り道、夜空を見上げて、葉山さんはぼんやりと呟いた。


「琴座と鷲座ってどれかしら。児島さん、わかる?」

「わかりません。調べますか?」


 わざわざ携帯端末を取り出したのに、葉山さんは首を横に振った。


「多分、あの辺りでしょう」


 自分勝手に指で線を引き、満足げに頷く葉山さん。なんだか呆れてしまって、私はそれっきり特に何も応えず、薄いレモンチューハイをちびちびやりながら歩いた。


「花も星も繰り返すのに、自分たちだけは一度きりだなんて、昔の人は、一体いつ気付いたのかしら」


 不意に、やたらと神妙な調子で、葉山さんが言った。


「春が来る度、花が咲き、冬が来る度、霜が降る。欠けた月が、また満ちるように。星がめぐるように。自分もまた、きっと繰り返すから、待っていて欲しいと。そう告げて、死んでいったんじゃないかしら。昔の人って」


 酔ってるのかと思って、顔色を横目で窺った。彼女の頬は白く、目には確かな理性があった。


「でもある日、自分たちは一度きりなんだって、気付いてしまった人がいて。そのせいで、彫刻や絵画が生まれたのね、きっと」


 何を言っているのか、全然意味がわからなかった。やっぱり、誘いなんて断って帰れば良かった。


「第二絵画研は、お眼鏡に適わなかった?」


 空模様に対する感想と同じくらい、淡く些細な声色で、葉山さんが問う。にわかに話題が現実的になり、危うく聞き流しそうになった私は、慌てて首を横に振った。


「いえ。ただ、西洋画でやっていける自信が、あまりなくて」

「確かに、就職とかは、良くないかも知れない」


 納得したように頷き、ライムチューハイの缶を傾ける葉山さん。そういう意味じゃないですと、胸の内だけで応えた。本当のところ、研究室訪問をするまでは、第二絵画研が第一志望だった。うちの大学の美術科には、絵画研究室が三つある。日本画が専門の第一絵画研と、西洋画の第二。第三絵画研は、絵画とは名ばかりで、現代アート全般を広く扱っていた。大学に入るまでは、美術と言ったら西洋絵画、程度の教養しかなかった私だから。消去法で考えていった時、第二絵画研が候補として残るのは、至極自然なことだった。

 けれど、研究室訪問で葉山さんに会った瞬間、心が変わった。彼女が第二絵画研に所属していることは、もともと知っていて、研究室を訪問しようと決めた時から、劣等感を受け止める覚悟はできていた。でも彼女は、私が予想していた才媛とは、全然違う人種だった。彼女は、傲慢さも、不安定なところもなくて、ただ、穏やかで気さくだった。あんまりだと思った。例えどんなに天才でも、同じ美術の世界に居るからには、私たち凡才と同じように、どこかに不完全さや、苦悩を抱えていて欲しかった。

 この人は、自分は特別だってアイデンティティを保ち続けて大人になった、幸福な化け物だ。この人は私みたいに、鼻っ柱を折られて、自分を見失って、周囲の視線を厭うようになってしまった人間とは、違う。


「第三絵画研に入ろうかと思うんです」


 喫煙所まで帰ってきたところで、私は言った。


「現代アートに興味があるの?」


 彫像の掌に乗った落ち葉を払い落としながら、葉山さんは首を傾げた。


「私、この大学に入ってから、劣等感ばっかりなんです。才能、ないですから。人付き合いも上手くいかないし、自分のことすらよくわからなくて、グチャグチャで。そういうコンプレックスを、現代アートなら、上手く昇華できるかなって」


 半分くらいは、葉山さんに対する嫌味と当てつけだった。思案するように押し黙ったあと、小さく頷いて、彼女は口を開いた。


「何の工夫もなくぶちまけられたペンキを、芸術だ、って有り難がってくれるのは、そういうものを初めて観る人と、自分もペンキをぶちまけたいって望んでいる人だけよ」


 お酒の席とは思えない、必要以上に冷たく鋭い言葉だった。一気にアルコールが回り、かっと顔が熱くなる。自分ばっかり言葉を選んでいるのが馬鹿馬鹿しく思えて、私は声を荒げた。


「だってしょーがないでしょ、私には他に何もないんだから! 大した才能もないのに美術科なんかに来ちゃった人間には、自分なりの道とか、自分らしい道とか、わかんないんですよ。どこにも見つからないんです、そんなもの!」

「誰かに訊いた?」


 さらりと、こちらの激情などまるでどこ吹く風に、葉山さんは問うた。


「あなたのことを、あなた自身が一番よくわかってるとは、限らないじゃない」


 なんでこの人は、こんなに私の神経を逆撫でするんだろう。腹が立って、腹が立って、涙が出そうだった。でも、それだけは意地で堪えて、言った。


「誰もそんなに、ちゃんと見てくれていないです。私のことなんて」

「じゃあ、私が見てあげる」


 こともなげに。本当に、全然大したことじゃないみたいに、葉山さんは応えた。その瞬間、ぷつりと、私の中で張りつめていた何かが切れて。せっかく抑えたはずの涙が、止まらなくなった。何度拭ってもキリがなくて。しばらくの間、言葉を返すことすら出来なかった。


「どうして」


 ようやくそれだけ声になった。拙い問いに、葉山さんは目を細める。


「私も昔、色々悩んだから。悩み過ぎて、病気になって、結局、一年も大学を休んでしまったけれど」


 続く言葉を飲み込んで、はにかむように笑む葉山さん。傍らの彫像に手を伸ばし、ちょっとだけ自慢していいかしら、と彼女は頬を紅くした。


「この彫刻ね、実は私が……」

「葉山?」


 暗闇から声がして、葉山さんはハッとしたように佇まいを整えた。現れたのは、くわえ煙草で、どこか眠そうな目をした男性だった。その顔には見覚えがあった。彫刻研院生の、氷室先輩だ。


「なんだ、取り込み中だったか?」

「あ、いえ。大丈夫です」


 瞬時に様々なことを察し、私は背筋を伸ばした。一気に酔いが醒め、涙も引いていった。頷いた氷室先輩は、記憶を探るように眉を寄せ、私の顔をじっと見つめた。


「あぁ、児島さんか。どうした? 失恋? それとも、研究室が決まらなくて困ってるのか?」

「えっと、あの」


 それは、数分前の葉山さんとほとんど同じ物言いだった。戸惑う私の視線を柔らかく受け止め、葉山さんが種明かしをする。


「あなたが一番、必死に、真剣に、悩んでいるように見えたから。研究室訪問の時に」


 言葉がなかった。黙って私と葉山さんの顔を見比べた後、静かに息を吐き、氷室先輩は灰皿に煙草を捨てた。先に行くぞ、と歩き出した先輩の背中を、葉山さんの情を含んだ視線が追う。反射的な動作で踏み出された足を、一歩で留めて振り返り、彼女は告げた。


「またいつでも、研究室に来て。待ってるから」


 何も言えず、ただ頭を下げた。顔を上げると、もう二人の背中は見えなくなっていた。葉山さんの真似をして、彫像に触れてみる。冷たく、滑らかな感触がした。天に伸ばされた白い腕を、視線でなぞってゆく。人差し指の先が、ちょうど、ひと際瞬く星に重なっていた。琴座と鷲座はどれだろうかと、私は考える。


「どれでもいっか」


 夜空に適当な線を引きながら、残った缶チューハイを飲み干した。



『春(あるいは、待ち焦がれる二人)』

http://ncode.syosetu.com/n2240bs/

という話が本編で、『星霜』は、その一年後の余話になっています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ