たまご
ぱぐしゃー!
「うわー! だめだよー! とれぼー! できないよーっ!? 割れちゃったよー!? タマゴーっ!!」
「いや。ろと。だいじょうぶだ。割れていいんだ。割るためにやっているんだからな。そしてオムレツを作るのにはタマゴが6個必要だ。だからもう5個は割っていいんだぞ」
俺は落ち着いた声でそう言った。
「だめだよー! ぼく、もうできないよー!」
ろとの手は、黄色くて透明で、ぬとぬとになっている。
はじめは「やっていーのー!?」と喜んでいた、ろとであるが、一度の挫折でもう半べそ――いや、全ベソだった。
だがしかし、俺はまったく落ち着いていた。
すべては想定内。
ろとがタマゴを上手に割れない――ということは、予想済み、想定内、ほとんど物理法則の範疇。
そして俺の卓越した頭脳は、ろとに「タマゴを割らせる」とした時点で、およそ起きるであろう惨劇を、完璧に予想しきっていた。
だてに「ろと学」の第一人者を名乗ってはいない。
まず――。
ろとには、手を綺麗に洗わせている。手にべっちゃりと
そしてタマゴは充分な数を用意してある。
いつもは1パック10個以上は冷蔵庫に入れておかないのだが、今日に限っては、予備も含めて20個も備蓄している。
そして本日の夕飯は「オムレツ」だ。割ったあとの大量の卵の使い途だって完備している。
まさに完璧だ。
「さ。2個目にいこうか」
「う。うん。で、でも……。つぎも……、うまくできなくても……、とれぼー、おこらない?」
「おこらない」
「みすてない?」
「みすてない」
「あきれない?」
「あきれない」
「とっぴんぱらりのぷう……って、しない?」
「とっぴんなんとかは知らないが、それも、しない」
「じゃあ……、ぼく……、やる」
ろとはようやく、タマゴを手に取った。
そしてボウルの端にぶつけようとして――。
ぼちゃあ。
手を滑らせてボウルのなかに落としてしまった。
「あああああ! 落ちた落ちちゃったよう! とれぼー! これどうしたらいいのっ!」
「落ちたタマゴを拾えばいいんじゃないかな」
「そっか! とれぼー! すごい! あたまいー!」
卵を拾う。ろとに渡す。
ろとはこんどは、ボウルの縁に打ち付けることに成功したが――。
ぱぐしゃー!
力が入りすぎていて、卵はこなごな。
「だめだよー! とれぼー! うまく割れないよー!」
「だいじょうぶだ。ろと」
「人はタマゴを割れる人として生まれてはこないんだ。誰もがタマゴを割れない人として生まれてくる。そして、誰もが皆、タマゴを割れる人となるのだ」
「う、うん! わかったよ! とれぼー!」
そうか。わかったのか。えらいな。ろとは。
すまんが俺は自分で言ってることがよくわからない。
ろとは3個目を握った。
あれれっ? それはちょっと、握りかたからして、違うんじゃないかなー?
なんか石でも握りこむようにしっかり握りしめちゃって、だから、力が入っちゃうんじゃないかなー?
――と俺は思ったが。
ぱぐしゃー!
ああ。3個目のタマゴもご臨終となってしまった。
「えーと、だな、ろと――」
俺は、軽い握りかたを伝授しようとしたのだが――。
ぱぐしゃー! ぱぐしゃー!
4個目と5個目が後を追った。
「ぼく、がんばる! きっとタマゴを割れるようになる!」
「あー、うん」
最初はびくびくやっていた、ろとだったが……。
なんか楽しくなってきちゃったのか、その顔が明るい。
俺は、ろとが幸せならそれでいい派であるので、まー、いいかなー、とか思い始めていた。
「ふっ。我が子ながら見ていられないな」
顔を横に向けると、ろとままの姿があった。腕組みをして仁王立ち。不敵な笑みを顔に浮かべている。
「そんなこともできないのか。ろと。ままは情けないぞ」
「だってー。だって、だってー。ひとはー、タマゴを割れるひとでー、うまれてこないんだよ?」
うん。ろとの言うとおりだな。
ろとが、いまタマゴを割れないでいるのは――。
ぶっちゃけ、ろとままがネグレクトこいてたせいだな。
ろとが抗議の視線、俺が白い視線を向けていると――。
ろとままは、すこし、たじろいで――。
「か、かしてみたまえ。ままが手本を見せてあげるから」
腕まくりをしてキッチンにやってくる。
タマゴを一個、握って――。
ボウルの縁へと――。
ぱぐしゃー!
「ほ、ほらっ! み、みるんだ! わ、割れたぞ!」
〝割れた〟というより――、〝割れちゃった〟という感じだ。
ろとと、ぜんぜん変わりゃしない。
「すごいよ! ままー!」
ぜんぜん、すごくない。
「さ、さあ! もっと手本を見せるぞ!」
「うん! ぼくもやるー!」
なるほど。タマゴ割ってみたかったのねー。
ろとままも、これまで一度もタマゴを割ったことがなかったのねー。
ろとが割れないのも納得だ。ろとの20年後が隣に並んでいるわけでー。
二人が仲良く、「ぱぐしゃー!」とタマゴを割ってゆくのを、俺は生暖かい目で見守った。
うん。多頭飼いってー。いいよねー。
◇
結局、買い置きしてあった20個、すべてが割られた。
3食ぐらいずっとオムレツが確定した。
ボウルに割られたタマゴには、殻がたくさん混入してしまっていたが――。
これについては「天才」のろとままが、エレガントな解決法を発明した。
どこのご家庭にもありそうな、ステンレスの網で――殻入りタマゴを〝漉す〟のだ。殻は網に引っかかり、黄身と白身は網をこえて下に落ちる。いい感じに混ざっていて、オムレツにぴったりだ。
「どうだ。ろと。割れたろう?」
「うん。ままー。ぼくにもできたー」
「こうすれば、いつでも実用上問題なくタマゴを取り扱うことができるのだから。――つまり! きちんと割れるようになる必要などないのだ!」
ろとままは腰に手をあてて、いばりんぼ。
ああ……。割れてなかったという自覚はあったんだ。
さすが年の功。ろとより20年分の年齢を重ねているだけはある。