おヒゲ
いつもの午前。いつもの大六畳間。
朝ご飯と、お昼ご飯との、合間の時間――。
ろとのやつが、じーと見てくる視線には、さっきから気がついていた俺であった。
だが、いったいどこを見ているのかわからなかったので、放置していた。
なんとなく、口元あたりを見られている気がする。
なぜ見られているのか、よくわからないのだが。
「ねー、とれぼー?」
「うん。なんだ?」
ようやく聞いてきてくれたか――と、思いつつ、俺はそう答えた。
「とれぼーって、おヒゲ、あるよねー」
「うん? まあ、あるかなー」
ん? ヒゲ、伸びていたかな?
俺は口元を撫でさすった。
仕事をしていたときには、毎日、剃っていたのだが……。
ろとと二人っきり。
外へも出ない日があるような日々のなかでは、ひげ剃りを忘れてしまうこともあったりする。
無精ヒゲでも生えていただろうか。
ちょっとたるみ過ぎだろうか。
それを叱られてしまったのだろうか。
男としてサボりすぎだったろうか。
でも、ろとだって、ジャージ姿で、どてら着用だったりするんだがなー。
そういや、どてらはいつまで着ているんだ? もうすっかり春なのだが。
まさか夏になっても、どてら着用なのか?
まあ、ろとの場合には、それが、ろとという生物なのであって、万年ジャージで、ぜんぜん構わないわけであるが……。
女の子としてサボりすぎとか、俺は言ったりしないわけであるが……。
「とれぼー、むずかしい顔? してるよ?」
「えーっ? そうか?」
俺は顔をこねまわした。
ヒゲは……だいたい、1日分ぐらいか。
まだ「生えてる」とか「伸びてる」とかいう感じでもないが。
そういえば今日は剃ってなかった。
「ヒゲ生えてるの、だめかな? てゆうか。生えてた? 気になる?」
「ううん。だめじゃないよー。すごいよー。とれぼー、おヒゲはえるよねー。すごいねー」
「うん? すごいのか?」
なんだか褒められている。
無精ヒゲがアウトな話ではなかった……のか?
「とれぼー。おひげー。いいなー。……ぼくも大きくなったら、おヒゲ、はえるー?」
「いや。生えんだろうな」
俺はきっぱりと言った。
考えてみるまでもなく、明らかだった。
女にヒゲは生えん。以上。証明終わり。
だいたい、ろとはもう充分に大きいし。これ以上大きくならんし。
ろとの正確な年齢はわからないものの、二十歳(推定)という説がある。
「そっかー。そうだよねー……」
ろとは、しょぼーんとうつむいた。
そこって、残念がるところなのか?
「おまえ? おヒゲ? ほしいの?」
「おヒゲ、カッコいいよー?」
「えー?」
「いいよー?」
「えー?」
「すごくいいよー?」
「えー?」
エンドレスになってしまいそうなので、俺はこのへんで、「えー?」を自粛した。
そういえば、ろとのゲーム内キャラって「ヒゲ面のオッサン」だったっけ……。
そうか。
あれは「適当」に選んだのではなくて、憧れの具現化だったわけか……。
ちょっと、よくわかんない趣味ではあるが。
「とれぼー。いいなー。いいなー」
ちら。
「いいなー。いいなー」
ちら。
「いいなー」
ちら
「諦めろ。ろと。無理だから。生えないから」
俺はそう言った。
ちらちら見てきても生えないものは生えない。いいなー、と言っても生えないものは生えない。
「ぜったい? ぜったいに? ――はえない?」
「だいたい、たぶん、絶対といってもいいだろうな」
「だいたいとか、たぶんとかって、それはぜったいなの? ぜったいじゃないの?」
「絶対ないとはいわないが、まあだいたい絶対だろうな」
女性は、普通、ヒゲは生えない。
たまに男性ホルモンが濃いとかで生える人もいるようだが、まあだいたい生えないと言っていいはずだ。
「とれぼー。いいなー。ぼくも、おヒゲそりたーい……」
「ん?」
俺は首をひねった。
「ろと、おまえ。ヒゲが欲しいんじゃなくて、ヒゲが剃りたいだけなのか?」
「うん。そうだよー? しょりしょりでもいいし……、ジー、でもいいんだよ?」
しょりしょりは、あれか。安全カミソリか。
んで、ジーっていうのは、あれか。シェーバーか。
「ジーってほうは、買ってこないとだめだが。しょりしょり、だったら、やれるんじゃないか?」
「ええっ? ぼくどうすればおヒゲはえるっ!?」
「発想をそこから離せ」
「???」
「ろと。洗面所に安全カミソリあるだろ。黒い柄のやつ。俺のいつも使っているやつ。あとセッケンと、洗面器にお水なー」
「???」
「はい。持ってくる。はやくする」
俺は、ぱんぱんと手を叩いた。
ろとのやつは、わかったのか、わかっていないのか、たたたーっと、駆けていって、俺の言ったものを、ぜんぶ集めてきた。
「それでは。ヒゲの剃りかたを伝授するものなり!」
「うん! うんっ!」
ろとは目を輝かせて聞いている。
両手を力いっぱい握りしめて――。すごい集中っぷり。エキサイトっぷり。
「まず。セッケンでぬるぬるを作る。ほんとはシェービング・クリームとかを使ったほうがいいんだろうけど。セッケンでもできるから、これは節約だ」
「うん。節約だいじだよねっ!」
話がいきなり横道にそれた。俺はひげそりの説明を続ける。
「セッケンのぬるぬるを剃るところに付ける。そしたら、カミソリを持って、肌に軽くあてたまま――まっすぐ下ろす」
しょり。
――と音がした。
あー。やっぱりすこし伸びてたな。
ろとは、くわっとばかりに、目を見開いて――俺の一挙手一投足を見ている。
「ほれ。やってみろ」
2枚刃の安全カミソリを、俺は、ろとの手に渡そうとした。
「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくっ、できないよー! 自信ないよー! ぼく見てるからー! とれぼー、やってー!」
ろとは、いやいやをして、受け取ってくれない。
「いや。おまえにはできる。自分を信じろ」
「ぼぼぼ、ぼくっ! 自分がしんじられないよーっ!?」
「いや。だいじょうぶだ。俺が信じてる。おまえは自信がなくてもいい。俺が信じている。おまえはやればできる子なんだ。……だから、俺の信じるおまえを信じろ」
「??? ……えと? えと? えっと……」
ろとは、こんらんしている。
俺も、なにを言っているのか、自分でもちょっとよくわからない。
「んと……、んとね……、ぼ、ぼく! やってみるよ!」
ろとはカミソリを取った。そして俺の顎にあてる。
俺はちょっとばかり体を固くした。自分でやるときにはなんでもないが、人にカミソリを当てられるというのは、けっこう、怖い……。
床屋でカミソリを当てられるときには安心していられるのに、なんでだろうか?
カミソリを持っているのが、ろとだからか? ろとか? ろとだからかっ!?
俺は、ぎゅーっと身を固くしていた。
身動きもしない。呼吸も止める。
ただでさえ危なっかしい手つきなのだから、そこに、余計な動きを加えないように、最大限、配慮する。
自分の身の安全のために、全力を尽くす。
ろと。信じてるぞー。ろと。
ろと。信じてるからなー。ろと。
「んっ……」
ろとが、カミソリを俺の肌に当てて――。
動かした。
――横に。
「いってえええええ――!?」
「うわあーーー! ごめんごめんごめーん! とれぼー、とれぼー赤いよっ! 血っ! 血いぃぃぃぃ!」
「ちょ――ちょちょ、ティッシュ! いやタオルでも! なんでもいいから取って取って取ってくれーっ! 血! 血ぃ!」
「やだー! とれぼー! 死んじゃやだあぁぁ!」
「死なない! 死なないから! すこし切れただけだから! だからはやくティッシューっ!」
俺たちは、大騒ぎとなった。
◇
実際には、顎のところが、ちょっと切れただけ。
ティッシュを押しあてて、圧迫して止血して、そのあとで絆創膏を貼っただけで済んだ。
しかし安全カミソリでも切れるんだ。
まあ……、横に動かせば……。そりゃ、切れるわなー。
「ごめんねごめんね。ごめんね。とれぼーごめんね? ぼくもう絶対一生カミソリ持たないから!」
ろとは、悲壮な決意を固めている。
後日――。
「カミソリを持たない」の誓いを立てたロトが、「ひげそり」をできるようにと――。
俺たちは「電動シェーバー」を買った。
ろとは安心して「しょりしょり」できるようになった。
毎朝ろとは、俺の膝の上に乗って、シェーバーで「シャー」とやってくる。
ろとの髪の毛を洗ってやるのは、俺の係。
俺のおひげをしょりしょりするのは、ろとの係。
これが俺たちの大六畳間のルールである。