大六畳間最後の日④
退去の期日がやってきた。
朝がやってきても、俺たち二人は、布団から這い出す気力がなくて――。
頭から布団をひっかぶって、二匹の布団オバケとなって、ぼーっと、座りこんでいた。
六畳間には、ふたつ布団を敷いている。
ろとの布団と、俺の布団。
こたつをすこし脇によけて、二つ布団の布団を直角に敷いている。
一つの布団でいいよー、と、ろとは言うのだが――。
ろとのほうはそれで良くても、俺が困る。めっちゃ困る。ワードナーがしょっちゅう口走っているような、「テラオカス」とかいう事態になりかねない。
だから布団は、絶対に、二組が必要なのだった。
俺たちはいま、布団と布団の境界線を越えて、手を繋ぎ合っていた。
手を繋ぎ合っているだけでは足りなくて――、そのうち、どちらからともなく、ぎゅううっと、お互いの体を抱きしめあった。
ワードナーがいつも口走っているような「テラオカス」とかいう意味合いでは、もちろんない。
不安だからだ。怖いからだ。
「とれぼー……」
「ろと……」
ゾーマは「私に任せてくれませんか」と言っていた。だから任せた。
しかし期日の日の、今日になるまで、連絡はなくて――。
こちらから連絡をするのも、なんだか気がひけて――。てゆうか。またうっかりしていて、携帯番号聞きそびれていたし、IDの交換もしてないし。ログインしてこないし。
駅前デパートのワードナーのところにまた押しかけると迷惑だろうし、化粧品買わされるし。
「まあ……、だいじょうぶだって。なんとかなるさ。ここに住めなくなったって、どっかに住めばいいさ」
「とれぼー。ぼくね。……とれぼーと、一緒だったら、どこでも平気だよー?」
ろとは、そう言う。だが、その小さな体は――震えている。
住む場所、それ自体については、どうにかなると思っている。
また違う部屋を借りればいい。現住所がなくなってしまうと、新たに部屋を借りるのは難しくなるだろうが……。それでも最悪の場合には、借りるのでなくて、買ってしまえばいい。中古の一軒家なり、マンションの一室なり、あまり選ばなければ、数百万ぐらいから、いくらでも見つかる。
この部屋を出なくてはならないことが、問題なのだった。
この大六畳間が終わってしまうことが――。
そうして――。
ろとと抱きあって、ただ怯えるだけの時間を、どれほど過ごしていただろう。
不意に、足音が聞こえた。
大勢の人間が歩く足音が、廊下から聞こえてくる。どんどんと近づいてくる。
俺は、ろとをぎゅうっと抱きしめた。ろとも、俺のことをぎゅうっと抱き返してくる。
ついにはじまったのだろうか……?
強制退去させられてしまうのだろうか……?
どんどんどんどん!
急に部屋のドアが乱暴に叩かれて、俺と、ろとは、びくっとなった。
「ひいっ!」
「だいじょうぶだから。だいじょうぶだから。だいじょうぶだから」
俺はろとの耳元で、そう言いつづけた。
『あー、そこの部屋はいいですから。他の部屋のほうをお願いします。ここ以外、他は、すべてリフォームですので』
ん?
ドアの向こうから聞こえてきた声には――、聞き覚えがあった。
「ぞーま?」
ろとが言う。
俺もうなずいて返した。
「ゾーマだよ」
二人で――、布団オバケになったままで――、そうっと、ドアを開けて、廊下の様子を窺う。
灰色の作業服をきた大勢の人たちが、まず見えた。
そしてゾーマは――いた。
「やあ。トレボー殿。ロト殿。――起こしてしまいましたかな?」
「いや。起きてたけど……。ええっと? これは――?」
作業服を着た大勢の人たちは――工務店とか、そういうところの作業員さんたちのようだ。
ゾーマはその皆に指示を出していて……。
「なに……してんの?」
「ああ!」
ゾーマは、ぽん、と、手を打ち合わせた。
「そういえば。ぜんぜん連絡していませんでしたな。お伝えしておりませんでしたな。いやぁ。すいません。すいません。いろいろと手筈を整えるのに忙しくて、すっかり忘れておりました」
ゾーマは、すごく明るい顔をして、にこにこと笑っている。
「えーと……?」
俺は、ろとと抱き合ったまま――、布団オバケになったまま――、立ちつくしていた。
「もう心配いりませんぞ。すっかり。解決いたしましたぞ!」
◇
「それではー。みんなビール持ったわねー?」
ワードナーが音頭を取って、乾杯が行われる。
今夜ばかりは、俺も、ろとも、ビールのコップを手にしている。
ろとは、ビールとか、いいんか? ――という感じであるが、まあ、運転免許は持っているというし、見た目がいかにJSであっても成人しているはずだ。信じらんないんだけど。
「それではー。大六畳間の存続を祝しましてぇー! 乾杯ーィ!」
カンパーイ。ごくごく。
隣を見ると、両手でコップを抱え持った、ろとが、口をつけて――。
だーっ……。
「うわっ! リバースしたっ! ふきんふきん! 台ぶきん! タオルでいいから! それ取ってそれ!」
「とれぼー……。にがいよー……。にがいよー……。これー、にがいよー……」
ろとはそう訴えかけてくる。
ビールを飲むのは、はじめてか。
クリスマス用の子供用シャンパンがまだ一本残っていたから、それを持ってきて、ビールと取り替えてやった。ノンアルコールだが。ろとにはこっちのほうがいいだろう。
それでもろとは、まだビールに未練があるのか、泡だけを、ちびちびと舐めている。
「まあでも。よかったじゃない。出ていかなくて済んでさ」
ワードナーが言う。
手酌で二杯目を、コップにどぼどぼ注いでいる。
「こいつもたまには役に立つのよねー!」
ゾーマの背中を、ばしばしと叩いている。
ビールを飲むことができずに、ゾーマは困った笑顔をうかべていた。
「どうやったのか、もういっぺん、説明してあげなさいよー。ロトちゃん、きっとわかってないわよー」
いや。ろとは何回説明してもわかんないじゃないかと思う。
ゾーマは、一体どうやって強制退去を防いでくれたのか――。
「いや。このあいだの焼肉チェーンの買収に比べれば、ぜんぜん、小さな買い物でしたよ」
ゾーマは照れたようにそう言う。
つまりは。こうだった。
――つまり。アパートをまるごと、買ってしまったのだ。
一部屋とかそういう単位ではなくて、何部屋もあるアパート物件、まるごとを、お買い上げになってしまわれたわけだ。
なんと大胆な解決法か。
現オーナーとの交渉に数日。所有権の書き換えと登記に数日。改築プランとリフォーム会社の選定にも数日。――などなど。ここ数日は忙しくて、連絡を忘れていたということだ。
いまこのアパートのオーナーは、ゾーマである。
つまり大家がゾーマだ。取り壊しはなくなった。よって俺たちは出ていかなくてよくなった。
「でも。すげえ悪い気がしてならないんだけど……。俺たちのために、そんな――」
「――ストップ」
俺がそう言いかけると、ワードナーが手をかざして、言葉を止めてきた。
「こいつが、いくら友達のためとはいえ……。損になるようなこと、するわけがないでしょ?」
「そうですよ。WINWINが、私の理念でしてね。誰かに損を押しつけるのもよくないですし、もちろん、自分が損をかぶるなんていうのは、もってのほかです。私が商売をするからには、関わった人には、全員、笑顔になっていただきます」
笑う聖者は、そう言って、笑った。
「だけど、こんなボロアパート買ったって……、得なんて……あるのか?」
「ええ。たしかに今現在は空室だらけですがね」
「だらけ、っつーか……。俺たちしか住んでないけど」
俺と、ろとは、顔を見合わせた。
人っ気のないボロアパートだなー、と思っていたが、なんと、ほかに住人は一人もいなかった。
「立地自体は悪くないんですよ。駅も近いですし。たしかに古いですが。でも賃貸の場合には、一軒家と違って築年数を気にする方も、これが意外と少ないんです。リフォーム、あるいはリノベーションを行って、見た目を新しくすれば、入居者は充分に見込めます。私の試算では、建て直すよりも安く済みますし。表面利回りはなんと三〇パーセント。実質利回りでも――」
「――ああ。ストップ。ストップ」
俺は手をかざした。
専門用語が出てきても、俺には、よくわからない。
ろとには、きっと、もっとよくわからない。
「まあ。ゾーマが損していないってことがわかれば、充分だよな? ――ろと」
「ぞーま。ありがとねー」
「まあ、しばらくは工事で騒がしくなるのはご容赦ください。あと、今後、ここには、外国人の方とかお年寄りの方とか母子家庭の方とか、色々な方々が入ってくるでしょうから、そのへんにつきましても、ご容赦ください」
「この部屋がこのままになるなら、なんだっていいって」
俺はそう言った。
「あたしも引っ越してこようかなー。ここ。家賃。安くするんでしょ?」
「くんのかよ」
「ああ。いま嫌そうな顔、したでしょ! したでしょ!」
「してないよ」
「いいや! ぜったいした!」
「それでは乾杯もご説明も終わったことですし――。鍋とまいりましょうか。鍋っ♪」
ゾーマが笑った。ここからが鍋奉行の本領発揮だ。
俺たちは「おー!」と言いながら、箸を持った手をつきあげた。
大六畳間の夜は、賑やかにふけていった。