大六畳間最後の日③
「きたわよー」
「お邪魔しますぞー」
ワードナーとゾーマがやってきた。
俺たちは空の土鍋だけをガスコンロの上に置いて、コタツの席で正座待機していた。
「なに? あんたたち? もう全裸待機してんの?」
「へ? 全裸?」
「はだか? はだかにならないとだめー? ぼくー、ぬぐー? ぬぐー?」
ほっとくと脱ぎだしかねない、ろとの頭を、こつんとやって、止めておく。
「おお。鍋ですな。鍋がよいですなー。冬は鍋で決まりですなー。今夜はよい貝がありましたからー。海鮮鍋とまいりましょうぞー」
ゾーマは、全裸待機しているガスコンロと土鍋を見て、にこにこと聖者の笑みを浮かべている。
「ご飯だけ。もう炊いてあるから」
「おお。ご配慮。痛み入ります」
ゾーマを接待するには、鍋を作らさせてやるに限る。ぜったい、食材持参だと思ったし。
食事がはじまった。
ことことと、煮える鍋を、俺と、ろととは――ちまちまと食べて。
いや。食が進まないのは俺だけか。ろとは、いつものように、おいしー、おいしーと連発して、子供のように喜んで食べていた。「ほんびのす」とかいう貝を、はじめてたべるー、とか、喜んでいた。
ワードナーは、いつものように、「ぷっはー」と缶ビールをいくつも開けていた。
彼女が飲むのは、いつも決まってエビスの金缶。資源ゴミの日まで、大量に空き缶が溜まることになる。
「さて。……なにか困りごとということでしたが?」
「えー? そうらっけー? あたしたちー、鍋に呼ばれたんじゃないっけー?」
ワードナーはすっかり出来上がっている。すっかり酔っ払いだ。
ゾーマはすこし飲んでいるが、ゾーマの付き合い程度で、ほとんど素面。
すっかり酔っ払いのワードナーをよそに、俺は、ゾーマに封筒を渡した。
読んでもらったほうが早い。
ゾーマは、一枚きりの、簡素だが重要なことの書かれている書面に、ざっと目を通して――。
「ふむ。なるほど……」
顎髭を撫でながらうなずいた。
俺もゾーマと同じように顎を撫でた――が、こちらには、顎髭はなかった。
ちぇっ。
「ところで、この部屋の契約は? どうなっておりますかな?」
「それは――」
俺はろとに視線を送った。
「けーやく?」
きゅるんと、小首を傾げる。ハムスターのような仕草をする。
「とれぼーが、やってくれてるよ?」
「俺が来る前のことだろ」
「じゃあ……。しらないよ?」
俺は手を水平に広げた。
ろとのやつは、こんなやつだった。
マズった――と、自分でも思う。
ろとの部屋に転がりこんだときに、当然、そのあたりから始めるべきだった。
家計の管理だけはやっていたが、そこまで頭が回らなかったというか、ちょっと発想の外にあった――。
しかし――。重要な郵便物も、ダイレクトメールも、ぜんぶ一緒くたにしてゴミ箱に放りこんでいるとか――そのくらい、想定して然るべきだった。
ろとだし。
「そうしますと……。部屋の賃貸契約は、完全放置で、更新されていないのであれば、法定更新ということになっているはずですが……。ところで、家賃のほうは? 滞納状態であったり?」
「それは、こっち」
こんどは通帳を出す。年金や国保と一緒に、引き落としされているという記録だけは出てきていた。
「ふむ。ちゃんと払ってますね。じゃあ契約上は問題ありませんが。しかし、やはり不利なことにはかわりないですよ。居住権のセンで粘るとしても……」
ゾーマは顎髭を撫でて考えこむ。
「なになに? 裁判すんの? あたしが弁護してあげましょーか? 民事? 刑事?」
「弁護? 誰に? どこに?」
もー、ヨッパライは静かにしていてほしい。
「もちろん。法廷でよ」
「なんでだよ? そーゆーの、弁護士とかの仕事だろ?」
「そうよお。だからあたしの出番なんでしょ?」
「あーもう。静かにしててくれよ。よっぱらい」
「なにようー。酔ってるけど、シラフよおー。弁護士の資格ぐらい持ってるわよー」
「え? ウソ! ……マジで?」
「ふっふーん……。さーて、――どうかしらー?」
ワードナーは謎めいた笑みを浮かべた。思わずゾーマを見る。困った顔で苦笑い。
冗談なのかマジなのか、その表情からは、どうにも判断がしがたい。
「まあ仮に民事裁判をやったとして、どんな敏腕弁護士が担当したとしても、せいぜい、退去まで最大六ヶ月の猶予が勝ち取れるだけですな。あとは、退去費用を何十万か出させられる程度で……」
「金の問題じゃないんだよなー」
俺はため息をついた。
金なら、四億円、持ってる。
退去費用とかは、ぶっちゃけ、どうだっていい。
そう。金の問題ではないのだ。
ろとと二人で、一生、ここに住んでゆくつもりだった。
慣れ親しんだこの部屋を離れるストレスを、ろとに与えたくない。
ハムスターとかウサギとかは、巣箱【巣箱:ケージ】が変わると、ストレスで円形脱毛症になったりすると聞く。
俺は円形脱毛症になった、ろとの姿を見たくない。
「ぼく……。とれぼーと一緒だったら、どこでも平気だよ?」
ろとが、そんなことを言う。
「ろと……」
俺は、じーんとなった。
「ぼくね。ぼくね。……このあいだの、マンガきっさ? あそこのお部屋に住むのでも、ぼく、ぜんぜん、へいきだよ? とれぼーの膝のうえ、すっごくいいよ?」
「あんたらカップル席でなにやってんのよ?」
「やってない! やってない! マンガ読んでただけ!」
「ほんとかしら?」
「まあ。それはともかく――としてだ」
「そうね。でも、マン喫はないわー。ないわー。ないわー。ろとちゃんが、かわいそうよ」
「俺だって、そのつもりはないから」
ワードナーが、ずっと黙りこくっているゾーマに顔を向ける。
「なによゾーマ。さっきから黙りこくって。カンジわるーっ。……あんた。なんか言いなさいよ?」
ゾーマは髭を撫でていた。
皆の視線が集まるなか……。
ゆうに、数分に渡って、髭を撫でつづけていた。
そして、数分経って――。
ゾーマは――。
「……ここはひとつ、私に任せてくれませんかね?」
そう、言ったのだった。