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こわれゆく世界 7


「うう……もう帰りたい……」

「大の男がめそめそするでない。うっとうしい」

 ティアマトが言う。

 そりゃあアンタは痛くも痒くもないだろう。

 まったくなんにも負担してないからねっ。

 金銭を持っていなかった私たちは、身につけているものを売るしか方法がなかった。

 これは仕方がない。

 借金をするにしても、何の信用もない私たちに、誰が金を貸してくれるというのか。

 救いの神となったのは、ホールに居合わせた商人である。

 彼は私が左腕に巻いていた腕時計を買い取ろうと申し出てくれた。

 ティアマトに確認したところ、この国の時刻概念も日本と同じ二十四時間らしい。あらたな感覚を身につけるのは大変だから、いささか都合の良い話には目をつむるべきだろう。

 どうせ日本人が持ち込んだ概念だろうし。

 ともあれ、当座の生活費を得ないことには何もできない。冒険者としての登録料だって払えない。

 背に腹は代えられないというやつだ。

 ただ、この腕時計は私にとって、非常に大切なものなのである。

 非常に大切なものなのである。

 二回言っちゃうぞ。

 (インターナショナル)(ウォッチ)(カンパニー)のポルトギーゼクロノグラフ。

 どうしても欲しくて三年間お金を貯めた。

 この会社の製品の中ではけっして高価な方ではないが、私が購入したモデルは六十五万円ほどだった。

 しかし、問題は値段ではない。

 惚れちゃったのだ。

 一目惚れだった。

 ああ私は、君に出会うために生まれてきたのだな、と。

「金に換えられるようなものを持っていて良かったではないか」

「そうだけどっ まったくもってその通りなんだけどっ」

 スイスの職人さんが、海を渡るポルトガル商人のため作り上げたのがポルトギーゼだ。

 ロマンが詰まっているのである。

「ロマンで腹はふくれぬからのぅ」

 葛藤と問答の末、私は惚れ抜いた腕時計と別離することなった。

 生涯、君しか身につけないと決めていたのに。

 ちなみに買い取り価格は金貨で百枚だった。

 ものすごい大金らしい。

 金貨一枚というのは、だいたい一万円くらいだと考えれば目安となるとティアマトが言っていたので、採算としては大きな黒字である。

 しかし、値段の問題ではないのだ。

 ただ、商人もそれほどの現金を持ち歩いているわけではない。

 さしあたり一割にあたる十枚だけ手渡され、後ほど証文を持参して彼の店を訪れる運びとなった。

 ギルドの受付嬢や他の客たちの立ち会いのもとに結ばれた約束なので、反故(ほご)にされることはないだろう。

 アデュー。私のクロノグラフ。




 掲示板に張り出されていた依頼の中には、薬草採取のものがたしかに多かった。

 依頼元は治療院や魔法医。

「想像以上に多いのぅ」

「もちろん、これが全部脚気に関係したものとは限らないけどね」

 まったく無関係の病気や怪我の薬だってあるだろう。

「んむ。それで、どの仕事を受ければ良いのじゃ?」

「ざっと見た限りじゃ、どれもダメだね」

 私はこの世界の薬学に詳しいわけではない。

 が、草で脚気が治らないことは知っている。

 もしこの中に大豆や芋を求める依頼があれば、あるいは、とも思ったのだが。

「つまり、この国の医者たちは、未だ脚気の治療法にたどり着いてはいないというわけじゃな」

「そうだね……これは江戸患いよりひどいことになりそうだ」

「どういうことじゃ?」

「歩きながら話そうか」

 結局、依頼も受けないまま、私たちは冒険者ギルドを後にする。

 何のために冒険者になったのか、という視線を背中に浴びながら。

 向かう先は、腕時計を売った商家だ。

「まず江戸患いというものから説明してもらおうかの」

 目抜き通りを並んで歩きながら、ティアマトが問う。

「うん」

 江戸患いというのは、脚気の別名である。

 どういうものか江戸でばかり発生し、田舎に行くと患者がいなかったり、症状が改善したりとかしたから、こんなふうに呼ばれたらしい。

「不思議な話じゃの」

「まあね。でも種を明かせば不思議でもなんでもないんだ。当時の江戸は豊かで、文化の中心でもあったんだよ」

 そして贅沢の最たるものは、白いご飯だ。

 田舎から上京してきた下級武士すら、見栄を張って白米を食べたらしい。

 江戸を離れて田舎に行けば、食事は白米から雑穀を入れた玄米に変わるため、脚気は自然と快方へと向かった、という次第だ。

「つまり、銀シャリが悪いということかの?」

「まさか。だったら私たち現代人だって、みんな脚気に苦しむことになってしまうよ」

 平成日本で玄米を主食としている人など、いったい何パーセントいることか。

 ただ、現代人と江戸自体の人々の食事には、決定的な違いがある。

 一人あたりの米の消費量と、副菜の種類と量だ。

「当時は一日に五合くらい食べたらしいよ。ひとりで」

「それは豪気じゃの」

 ちょっとびっくりする数字である。

 一合でだいたいご飯茶碗に大盛り二杯くらいだから、大盛り十杯という計算だ。

 どんだけ炭水化物ダイスキなんだってレベルだが、おかずの少なさにも驚く。

 むしろおかずというものがつくのは昼食くらいで、それもちっこい焼き魚が一切れ程度。朝晩は一、二切れ漬け物しかなかった。

 あとはみそ汁くらいだが、これも朝しか飲まない感じ。

「栄養バランスって言葉がばかばかしくなるような内容だよね」

「しかし、それで良く体が保つのぅ。運動量など現代とは比較になろんじゃろうに」

「保つさ。炭水化物ってのはエネルギーだからね。燃料だけはばっかばっか補給されてるってこと」

「なるほどのぅ。それで汝はガリシュに体を動かしているか訊ねたのか」

 ティアマトはおぼえていたようだ。

 軽く頷いてみせる。

 運動をしてブドウ糖の代謝が促進され、糖質を分解するためにどんどんビタミンB1が消費されてゆく。

「で、ビタミンB1は玄米というか胚芽に多く含まれている。普通ならべつに問題なんて起きないんだけど」

「精米して必要な栄養を捨てていた、というわけじゃな」

「そういうこと」

「じゃが、エイジら現代人は白米を食しておるが、べつに脚気にかかっておらんのではないか?」

「ビタミンB1が含まれている食品は他にもあるんだよ。豚肉、ウナギ、たらこ、大豆。芋なんかにも含まれてるね」

「けっこうあるのぅ」

「うん。ちゃんとおかずを食べてれば、脚気になんかそうそうかからないさ。とくに豚肉はすごく優秀だね」

「なるほどのぅ。見えてきたようじゃの。エイジの書く処方箋が」

「そうだね。ただまあ、食文化的な部分もあるから」

 たとえばイスラム教徒に健康のため豚肉を食えといったって、それは難しいだろう。

 宗教的な理由で。

 理由は違えど江戸時代の日本人だって同じ。

楊貴妃(よう きひ)は きれいな顔して 豚を食い』

 などという川柳があったほどである。

 これは、中国人が豚肉を好んで食するのを忌み嫌って詠んだものらしい。

 食文化の差違というものは、けっこう根強いのである。

 たとえば私はジンギスカンが好物だが、内地の人々は羊肉をあんまり好まない。

 美味しいのに。

「それで商家というわけかの」

「だねー 思いがけずコネクションができたから、アズールの食生活についていろいろ教えてもらえればな、と」

「腕時計を渡すときに、妙に諦めが良いと思ったら、そういう算段があったのじゃな。策士なことよ」

 それは言いがかりである。

 すげーショックだったし、断腸(だんちょう)の思いだった。

 金がないと何もできないというのは、日本だろうとアズールだろうと変わらない事実なので、仕方なく、本当に他に手段がなかったから渡しただけなのである。

 ただ、渡してしまった以上は、最大限に活用しようと考えているだけだ。

 それがクロノグラフへの、せめてもの(はなむけ)だろう。


 

参考資料


石川 英輔 著

講談社 刊

『大江戸神仙伝』

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