こわれゆく世界 6
明治から大正期に大流行した奇病。
脚気。
長く原因不明だった。
まず、抵抗力が弱いはずの老人や子供が感染しづらい。むしろ若く屈強な兵士などがかかってしまう。
裕福で、良い食事を摂っている者の方がかかりやすい。
ビタミンの存在が明らかになっていない時代である。
しかも日本の医療を急速に進歩させた西洋医学において、脚気という症例がほとんどなく、研究も進んでいなかった。
まさに奇病だ。
症状としては全身の倦怠感。手足のむくみ。感覚の鈍化などがあり、最終的にはウェルニッケ脳症や衝心脚気などを併発して死に至る。
「どうです? ガリシュさん。症状に心当たりはありませんか?」
「……ございます」
私の質問に、一拍の沈黙を挿入して応えるガリシュ。
困ったことになった。
現代において、脚気というのはべつに怖ろしい病気ではない。
と書くと語弊があるが、これはきちんと治療法が確立されている、という意味である。
ビタミンB1の欠乏によって引き起こされるのが脚気なので、それを補充すれば良い。
そう難しい話ではないのだ。
ただ問題は治療法の難易度にあるのではない。
市井の人々に、すでに脚気が蔓延しているというこの状況、それこそが問題なのである。
どうする。
どうすればいい?
「……エイジさま。私は死ぬのでしょうか……?」
蒼白な顔でガリシュが訊ねてくる。
ずっと仕事に邁進し、若くしてギルド長の顕職についた。数年前に妻も娶り、まず順風満帆な人生。
それが、きいたこともないような病気にかかって死ぬ。
こんな理不尽があって良いのか。
口調に悔しさが滲み出していた。
当然だろう。
病気というのは、たいてい理不尽なものなのである。
まったく同じ生活をしていても、糖尿病になる人とならない人がいる。
癌になる人もいれば、ならない人もいる。
そういうものだ。
しかし、脚気に関してのみいえば、治療もできるし予防もできる。
抗生物質などが必要な伝染病に挑むわけではない。
「大丈夫です。ガリシュさん。治せます」
安心させるように、私は微笑んだ。
「本当かや? エイジや。中途半端な慰めは、ときとして事実を突きつけるより残酷じゃぞ?」
横からティアマトが口を挟む。
彼女は私が医者ではなく、ただの木っ端役人であることを知っているのだ。
「脚気なら、食生活で治せるんだよ」
「ほほう?」
「たとえばガリシュさん。あなたは白いご飯が大好きですよね?」
質問ではなく確認だ。
頷きが返ってくる。
どうして知っているのか、という顔で。
「あと、お酒も大好きですよね?」
「はい」
「ついでに、体を動かすのを億劫がる性質でもない」
「なぜ判るのですか? エイジさま」
「そうですね。ここは神仙だから、としておきます。さしあたり食生活を見直してください。私が治療法を作るまで」
「はい……」
「お酒は禁止です。ご飯もなるべく控えて、安静にしていてください」
ビタミンB1が不足しているため脚気になった。
これ以上不足させるわけにはいかない。
となれば、糖質の分解に必要な栄養素がビタミンB1であるため、まずはその消耗を避ける。
激しい運動も今はやめておいた方が良い。
スポーツ選手や軍人に脚気が多かったのは、運動によってブドウ糖の代謝が高まり、ビタミンB1の必要量も増えてしまうからだ。
これらを止めることで、症状はある程度改善に向かうだろう。
あとは補給するようにすれば良いだけ。
具体的には、肉とか魚の動物性タンパク質をしっかりと摂る。大豆などの豆類にもけっこう含まれているし、それになにより、白米から玄米に変えるだけでかなり劇的な効果が期待できる。
まあ、そこまでしなくても、ビタミンB1のサプリメントでも飲んでおけば解決するって話だ。現代社会ではア○ナミンとかそのへんだが、さすがにこの世界にそんなものはないし、簡単に薬に頼るような世界にするわけにもいかない。
それでは、これまでの転移者たちと同じ轍を踏むことになってしまう。
簡単に、便利に、都合良く世界を変えてしまった者たちと。
「……わかりました」
「すぐに朗報をおもちできると思います。ただ、材料を集めたりするのに自由に動き回れる身分があった方が良いかもしれません。私たちでも冒険者になれるのでしょうか?」
「なんじゃエイジ。汝は冒険者になるつもりなのかの?」
「ティアもだよ」
「我もかっ!?」
「……神仙さまが冒険者に……?」
「ええ。いちいち神仙だと騒がれては、狩りにも買い物にもいけませんし」
私は肩をすくめてみせた。
ようするに、ガリシュ氏や奥方のような反応をされては面倒なので、市井のいち冒険者になってしまおうという算段である。
「そういうことでしたら」
苦笑したガリシュが一筆したためてくれる。
ギルド長のお墨付きというわけだ。
冒険者として登録するときに融通をきかせてもらえるのだろう。
「助かります。では、さっそく取りかかりましょう」
ぽんとティアマトの肩を叩き、私は部屋を出た。
やや遅れてどすどすという足音が続く。
ホールに戻った私たちは、受付カウンターにて冒険者として登録することとなった。
受付嬢たるガリシュ氏の細君から、細々とした説明を受ける。
どうやら冒険者にはランクというものが存在するらしい。
登録したての新人は最下級であるF級とやらからスタートし、実績を積むことで昇級してゆく。
一番上はS級だという。
まあ、世に溢れる異世界転移ファンタジーなどで、よく見かける設定だ。
ゲーム的だといっても良い。
「考えてみれば、フリーアルバイターをクラス分けするようなもんだね」
正社員として就職せず、またはできず、派遣や短期雇用やアルバイトで生活している人は数多い。
彼らにランクをつけて、従事できる仕事や受け取れる報酬を制限する。
これはそういうシステム。
「当社を希望されるなら、最低でもB級でないと」
「F級に任せられる仕事はないなぁ。他を当たってくれよ」
日本に置き換えて想像すると、こんな感じだろうか。
「グロテスクな話じゃの」
ティアマトが嫌な顔をする。
職業選択の自由が法によって保障された社会とは思えない。
「ま、ある意味でシステマチックだけどね。採用される見込みのない会社に面接に行くなんて無駄がなくなる」
「無駄はないが進歩の可能性もないの。人間の潜在能力とは数値で計れる類のものなのかや?」
「君は本質を突いたね。ティア。このシステムは人間というものに対する冒涜だよ」
我ながら苦い表情を浮かべ、渡されたばかりの冒険者カードとやらを眺める。
データ化された私の能力が記載されていた。
体力E。
魔力F。
知力C。
幸運D。
ありがたくて涙が出そうである。
ちなみに測定方法は、水晶球みたいなものに右手をかざしただけ。
たいしたものだ。
たったそれだけで、私は体力がなく魔力もなく幸運にも恵まれておらず、かろうじて知力が並みだと判るらしい。
ようするに、愚にもつかない人間だということである。
ふざけんなって気分だ。
「ゲームセンターなどにある占いの機械と同じじゃろ。なんの根拠もないデータじゃ。気に病むようなものでもあるまいて」
「そっすねー……」
さすがすべての能力がSを示したドラゴンさまである。
とてもとても説得力のあるお言葉だ。
おざなりな同意をしておく。
私の能力など、どうでも良いのだ。
べつに冒険者とやらで身を立てようと思っていたわけではない。
まずは依頼掲示板で、ガリシュのような症状に絡んだ依頼が出ていないか確認してみよう。
部分的にだが、どの程度まで蔓延しているか知ることができるはず。
「あの。エイジさま……」
歩き出そうとした私を受付嬢が呼び止める。
「なんでしょうか?」
「登録料を……」
「おうふ」
お金を取るらしい。
なんと世知辛い世の中だ。
「ティア」
「なんで我が金を持っていると思ったのじゃ? エイジ」
「……デスヨネー」
私は恋人と待ち合わせをしていたときの服装。
ティアマトにいたっては全裸である。ドラゴンだから。
当然のように、この世界のお金なんか持っていない。