こわれゆく世界 5
「神仙さま!? これはご無礼を。少々お待ち下さい」
恐縮の体で、受付嬢が奥へと引っ込んでゆく。
効果覿面である。
それだけではなく、店内もなんとなくざわついていた。
「こういうときは変に遠慮などせぬものじゃ。エイジよ」
リシュアの街に入るとき、私たちは神仙ということで門をくぐった。
一度そう名乗った以上、二度でも三度でも同じである。
ましてアピールポイントなのだから、積極的に言った方が良い。
就職面接の心得である。
この場で必要かどうかは、けっこう微妙だ。
黙ったまま、私は肩をすくめてみせた。
判っていても、長年培ってきた習慣というものはなかなか抜けない。
「勿体つけて最後まで印籠を出さないタイプじゃな」
「最初に出したら話が成立しないでしょ」
「エイジ好みに面白くしても意味がないからの」
無駄知識に基づいた無駄問答をしている間に、責任者と思しき人物をともなって受付嬢が戻ってくる。
恰幅の良い中年男だが、見た目から年齢を推し量ることは私には難しい。
何年かここで暮らせば目も慣れてくると思うのだが。
「お初にお目にかかります。神仙さま。冒険者ギルド、リシュア支部を預かりますガリシュと申します」
「これはご丁寧に。私はエイジ。こちらはティアマト。以後お見知りおきを」
男の一礼に対して私も頭をさげた。
丁寧な一次接触というのは、日本で社会人をやっていれば当然のように身に付くスキルだ。
初対面の相手にいきなりタメ口とか使っている主人公がファンタジー作品などで散見されるが、そんなことをしてしまえば、たいていの折衝は不調に終わるだろう。
頭で思うことと口に出すことを使い分けるのが大人。
まったく、高尚でもなんでもない話である。
「当ギルドの成り立ちについてききたい、とのことでしたが」
「んむ。我の記憶違いでなければ、百年前はこのような組織はなかったはずじゃからの」
答えたのはティアマトである。
本当に彼女が百年前の知識を持っているかどうか、私には判らない。
「左様です。冒険者ギルド自体、五十年ほど前に作られた組織ですので」
「ほほう。若い組織なのじゃな」
ティアマトにかかれば、創業五十年の老舗も若いということになるらしい。
ガリシュはべつに機嫌を損ねなかった。
むしろ誇らしげである。
新進の組織が、なみいる同業組合を押しのけて力を持った。
矜持だろうか。
いつだって、伝統や格式というのは立ちふさがる壁だから。
「神仙さまに立ち話というのも失礼の極み。どうぞこちらへ」
誘ってくれる。
突然の来訪という失礼をしているのは私たちである。
あまりに歓待されると恐縮してしまう。
「ご都合は大丈夫ですか? もしアレでしたら日を改めますが」
アレってなんだとは問わないで欲しい。
ジャパニーズソリューションというやつなので。
「問題ありませんよ。最近は仕事も妻に任せきりでしてな」
ちらりとガリシュが受付嬢に視線を送る。
なんと、細君だったらしい。
家族経営である。
「どうにも身体がだるくていけません。充分に休息は取っているはずなのですが」
おいおい。
病人ってことじゃないですか。
ますます私たちと話している場合ではないだろう。
「そのような事情でしたら、無理をせず休まれた方が……」
「気怠いだけですので。一応、医者にも診せましたがとくに病ではないとのことでした」
この世界の医療水準を私は知らない。
医師の診断を鵜呑みにして良いものか、その判断を現時点でくだすことはできない。
できないが、改めて観察すると、ガリシュ氏の体調は良くなさそうではある。
体格は良いが、太っているというよりむくんでいる感じだ。
専門家でない私には、それ以上のことは判らないが、何かが頭に引っかかる。
だるさとむくみ。
……まさか。
そんな馬鹿なことがあるのか。
いや、だが、符合する部分がある。
リシュアの街に入る直前、ティアマトは何といっていた?
銀シャリのご飯が食べられる、と。
白米、だるさ、むくみ。
これは、あれなのではないか?
だとしたら、この世界に訪れた日本人は、とんでもないことをしでかしたということだ。
たしか、毎年一万人とか二万人とかが亡くなったんだぞ。
私は、自分の顔色が加速度的に悪くなっているのを自覚した。
「どうしたのじゃ? エイジ」
心配したのか、ティアマトが訊ねる。
「……ガリシュ氏は、病気かもしれない」
口にした私は、だぶんどちらが病人か判らないような顔をしていただろう。
案内されたのはギルド長の執務室のような場所だった。
ただ、応接室の役割も兼ねているらしく、執務机の他にソファセットが置かれている。
しかし私は内装や調度品などにまったく注目していなかった。
必死にあるものを探していたからである。
「いかがなさいました? エイジさま」
「あの……ハンマーないですかね? 小さいのでかまわないんで」
「ハンマーですか? なんでそんなものを?」
不思議そうな顔をするガリシュ。
当然である。
いきなり金槌を要求するとか、正気の沙汰ではない。
しかし必要なのだ。
慣れればチョップとかでもできるというが、私にそんな技能はない。
「これでよろしいですかな?」
意味が判らないという表情のまま、棚の工具箱からハンマーを取り出すガリシュ。
「では、そこの机に腰掛けてください。膝から下をラクにして、ぷらぷら動くように」
「はあ……」
ガリシュ氏の顔には、何いってんだこいつ、と、大書きしてある。
私を神仙と思っていなかったら、間違いなく叩き出しているだろう。
どこからどうみても、おかしな人としか思えない。
「こうですかな?」
執務机の書類をどかし、そこに座るギルド長。
私は腕を伸ばし、膝下がフリーになっていることを確認する。
「ガリシュさん。これからハンマーで膝の下あたりを軽く叩きます。力を抜いてラクにしていてください」
「はあ……?」
何をしようとしているか、たぶん彼には判らないだろう。
ティアマトも判らないのか、興味津々で覗き込んでいる。
私は小さく息を吐いた。
叩くのは膝の下。少しくぼんでいるあたり。
気持ち下から上に向けて。
ボールを弾ませるような感覚で。
ぼん、と。
「…………」
動かない。
私のやり方が悪かったのか。
もう一度。
動かない。
動かない。
動いてくれない。
「く……」
「あの……何をしておいでなのですか? エイジさま」
額に汗を浮かべ、必死の形相で男の足を軽く叩き続ける青年。
なんだこの絵図という場面である。
「……膝蓋腱反射といいます。この部分を叩いたとき、ぴくんと足があがるんです」
「いや、だから、それはいったい?」
まったく判らないという顔。
そりゃそうだろう。
知っているわけがない。
病名も、原因も、治療法も。
中世ファンタジー風の世界に、日本人が持ち込んでしまった悪魔。
江戸患いとも呼ばれ、明治初頭から大流行し、結核と並ぶ二大国民病と怖れられた病。
毎年、万単位で犠牲を出し、年間死亡者数が千人を下回ったのは昭和五十年代の後半である。
「ガリシュさん。あなたは病気にかかっています。このままでは死に至るような。怖ろしい病です」
つとめて冷静に、私は告げた。
医者でもないのに診断を下すのは怖い。
しかし、これがきっと、私がしなくてはいけないことだ。
同胞がしでかしてしまったことの尻ぬぐい。
「なんですとっ!? しかし医者は……」
「判らなくて当然です。たぶんどんな名医でも」
この時代には、否、この世界にはなかった病気なのだから。
「ガリシュさん。あなたがかかっている病気は、脚気といいます」