こわれゆく世界 4
江戸時代、日本人は現代よりずっと老けていた。
厳密な統計があるわけではないし、写真とかがあるわけではないので、きちんと検証できるわけではない。
平均寿命が、というのはあまりアテにならない。乳幼児死亡率が高く平均が押し下げられるためである。
統計のある一八九九年では十五パーセント以上。明治三十二年の数字だ。
理屈として、十人中八人くらいしか五歳をこえて生きられないという意味である。
近代化のだいぶ進んだ明治時代でこの状態だ。
江戸時代が、それより数値が良いはずもなく、もっとずっと多くの子供たちが亡くなっているだろう。
平均寿命という発想だけでは計れない。
一八九一年、つまり明治二十四年の数字で四十四歳くらいの平均寿命。
ちなみに平均寿命というのは、死亡した人の平均年齢ではなく、その年に生まれた人が何歳まで生きられるか、という数値をグラフ化したものである。
明治二十四年生まれの人は、とくに何の問題もなければ男性なら四十二.八歳、女性なら四十四.三歳まで生きることが可能だった、という意味になる。
では、五十歳をこえて生きる人がいなかったか、ということになれば、答えは否だ。
当時でも長命な人はいた。
ただし、現代の日本人より長生きだったか、と問われたならさすがにそんなことはない。
五十歳くらいともなれば、もう老人だ。
わりとちゃんとした写真が残っている人で、夏目漱石あたりを例に挙げると、あの写真はいくつに見えるか? という話である。
念のために言っておくと、彼は四十九歳で亡くなっている。
江戸時代に敷衍して考えてみよう。
まず栄養状態が違う。
骨や筋肉を強くしてゆく食材など、ほとんど口に入らない。
化粧品やケア商品だってない状態で過酷な労働をしているのだから、お肌だってぼろぼろだ。
どこまで本当かは判らないが、現代人より二十歳ほどは老けていた、などという説もあるほどである。
となれば、二十一歳の兵隊さんが四十代半ばに見えるのは、そう異常なことではないかもしれない。
「いや。神仙さまは羨ましいですな。さぞ長命なのでしょうなぁ」
「……どうでしょうね」
曖昧に言葉を濁しておく。
もし彼らの平均寿命が四十歳程度だとするなら、私たちは二倍近くも生きることになるのだ。
さすがに笑いながら語るような話題ではないだろう。
「では、ゆるりとリシュアをお楽しみくだされ」
書類を受理し、槍を掲げてみせてくれる兵隊さん。
好漢というべき人物だった。
「なにやら思い屈しておるようじゃの。さきほどから」
目抜き通りを歩きながら、ティアマトが口を開く。
「さっきの兵隊さんの年齢とか、いろいろね……」
「エイジより年かさに見えた、とか、そういうことかの?」
「まあねぇ……」
そりゃあ考えるところのひとつくらいはあるだろう。
私は現代人で、彼は異世界人。
文明の違いといってしまえばそれまでだが、自分の寿命の半分しかない人間を見て、なかなか虚心ではいられない。
「ふむ。二十歳そこそこであれでは、おなごの方も期待薄だと思ったわけか」
「いやいや。いやいやいやいやっ! おかしいよねっ! なんでそういう解釈になったのさっ!?」
「はて?」
ドラゴンが首をかしげる。
可愛くなんぞない。
「私にはちゃんと恋人がいるから!」
「そこはそれ。現地妻というやつじゃ。リゾラバでも良いぞ」
「生々しいっ! あと後ろのは意味が判らない!」
「一九八九年のヒット曲じゃ」
「しるかーっ!」
当時、私はまだ三歳である。
「バブル時代を象徴するような曲じゃ。崩壊とともにその言葉も廃れ、今では死語となったの」
「誰が解説しろと……」
相変わらず、謎の引き出しの多いドラゴンだ。
インストールされた無駄知識とやらの恩恵か。
本気で無駄な知識である。
「まあ、良いではないか。我らはしょせん異邦人じゃ。情を移さば、互いに不幸になろうぞ」
……こいつ。
私の気を紛らすために、わざとおかしなことを言ったのか。
なんてやつだ。
「……借りとくよ。ティア」
「返すときは、多少の利息をつけるのじゃぞ」
「りょーかい」
さて、多くの異世界ファンタジー作品で描かれてきたように、リシュアの街にも冒険者組合があった。
「そりゃあるじゃろうよ。名称はともかくとしても、同業者が連合を組むのは歴史の必然というやつじゃ」
ティアマトの言うことはもっともである。
冒険者でも何でも屋でも万事屋でもいいが、個人で仕事を受けようとしても簡単なことではない。
まして現代のような広告戦略は使えないのだ。
テレビもラジオもネットもない世界。
自分はこんな商売をしていますよ、と宣伝するのも容易ではない。
店舗を持つ者ならば看板を掲げることで客を呼び込むことが可能だが、ほとんどの人はまずその次元まで昇ることが難しいだろう。
だからこそ、看板というのは信頼の証でもあった。
「個人で仕事を取れないから、同業者組合をつくって仕事を受けやすくする。うん。自然な流れだね」
「自然発生したならば、そういうことになるじゃろうな」
皮肉げにいったティアマトが、尻尾をびったんびったんと地面に打ち付ける。
冒険者ギルド。
ここが最初の目的地だ。
もちろん私たちは、ギルド員に登録するためにきたわけでも、仕事を斡旋してもらうためにきたわけでもない。
「まあね」
私は肩をすくめた。
考えてみずとも、冒険者などという職業が、一般的であろうはずがない。
遺跡に潜ります。
モンスターを退治します。
薬草を採ってきます。
旅人の護衛をします。
これらが職業として成り立つような世界というのは、やはりフィクションだけなのである。
最初のひとつは論外として、他のものだって腕におぼえがある者が従事しなくてはならないのなら、国なり街なりが対応に乗り出さなくてはいけない事態だ。
外敵の脅威が至近にまで迫っている、ということなのだから。
無頼漢のような連中に丸投げしている場合ではない。
「そもそも、冒険者とはなんぞや、という部分の話からじゃがの」
傭兵なのか。
山師なのか。
探偵なのか。
便利屋なのか。
「どれにしたって、そんなに需要のある仕事じゃないさ」
苦笑しながら、私はギルドの扉を開いた。
広いホールにはいくつかのテーブルセットが置かれ、壁には依頼を張り出すためだろう掲示板。
そして奥には受注カウンターのような場所がある。
店内には何組かの客。
おそらく冒険者パーティーなのだろう。
あまり友好的ではない視線を、私たちに注いでいる。
目立つのは間違いない。
私のようにでかい人間と、人間サイズのドラゴンの取り合わせである。
お約束を踏襲するなら、ちんぴらっぽいのが絡んでくる流れなのだが、残念ながらただ見られているだけだ。
もっと私を見て! という趣味は持っていないので、居心地が悪い。
受注カウンターへと歩を進める。
「あの……」
「ご依頼ですか? それともご登録ですか?」
対応してくれたのは女性職員だ。
柔らかな口調とにこやかな表情。受付の鑑みたいな人である。
年齢は四十代前半に見える。
ということは、二十歳そこそこなのだろう。
「いえ。どちらでもなく、すこしお話を伺いたいのですが」
「どのようなことでしょうか?」
小首をかしげる。
可愛らしい仕草だ。四十代の女性には似合っていないが、きっとこの人は二十代である。
目前の事象と持っている常識が、うまく噛み合ってくれない。
「このギルドの成り立ちについて、少し興味がありまして」
「はあ……」
不思議そうな表情。
それはそうだろう。
こんなおかしけな質問をする人間は滅多にいないだろうから。
それに、たぶん受付嬢に答えられる類の質問でもない。
権限的な意味ではなく、知識的な意味で。
上役なりに取り次いで欲しいところだが、さて、どういったものか。
「娘御よ。我らは旅の神仙での。俗世の様子にいささかならず興味がある。このギルドのことも知りたいゆえ、ギルド長を呼び出してくれぬか?」
私が困っていると察したのか、ティアマトが助け船を出してくれた。
ていうか、自分で神仙とか言っちゃうんだ。
もう少し慎みを持っても良いと思うな。
などと考える、謙虚さを美徳とする日本人の私だった。