動き出す歯車 4
帰りの行程は四日なのに五日分の食料を残したのは、ようするに保険である。
「やすい保険じゃのう。一日分くらい予備があったところで、何か事があったときはどうにもなるまいに」
「安心感が違うんだよ」
ティアマトのもっともな指摘に、私は苦笑を浮かべた。
予備をどのくらい用意するのかという議論になれば、じつは充分な量というのは存在しない。
もともと、使わないことが前提の物資である。
予定通りに行動ができれば。
したがって、四日の行程に十日分とか、まったく意味がないのだ。
ティアマトは何か事があったらと言ったが、何事もないように、事故の起きないように計画を立てるのが立案者の仕事であって、何かあったときの備えというのは、その範疇には入らない。
最初から、不測の事態が起きることを前提としなくてはいけないのなら、計画そのものにどこか不備がある。
たとえ辿り着けないと判っていても、いかなくてはいけないときがある、というのは、残念ながら計画とは呼ばないのだ。
覚悟の表明とか、衝動の論理化と称すべきだろう。
計画とは、誤差のないように立てなくては意味がない。
「エイジさまって、慎重なのか大胆なのか、よく判らないですね」
歩みよってきたサイファが笑う。
「じゃのう。変なところで割り切ると言い換えてもいいのう」
同調するドラゴン。
「そうかな? 備えの備えの備えとか、考えたって意味がないってだけの話なんだけどね」
「なのに五日分は残すのじゃな」
「言っただろ。安心を買うんだって」
ぴったりの量では、常に「もし足りなかったら」という不安に晒されることになる。
残量が減っていくにつれ、不安は増大してゆくだろう。
足りると判っていても、人間の心理というのはそのようなものだ。
しかし、一日くらいなら遅れても大丈夫、という保険があれば、この不安はぐっと減る。
「でも、二日遅れちゃったらアウトなのでは?」
「そうだね。サイファくん。だけど二日、つまり四十八時間も遅れる可能性があるような計画は、計画立案そのものに問題があるってことなんだよ」
「なるほど……」
頷くが、あまり納得はできていないようだ。
こればかりは仕方がない。
事務職と現場の違いのようなものだろうから。
「ともあれ、今宵は宴会ですな。エイジ卿」
ヒエロニュムスも近づいてきた。
なんかメイリー嬢を侍らせて。
なんでそんなに仲良くなってんの?
ずるくない?
「如何なさいました?」
「べつにー? うらやましくなんかないもんー」
「これはしたり。麗しの竜姫と行動を共になさる御仁の言葉とも思えませんな」
冗談と解釈したように、妖精猫が笑う。
いや、もちろん冗談ではあるのだが。
「ティアが褒められまくってるね」
「んむ。我は美しいでの。仕方のないことじゃろうて」
そっすか。
私には、その美的感覚は、いまひとつ理解できませんよ。
ティアマトなんて、緑っぽくて羽のあるジークじゃん。
「念のため言っておくと、あのものはかなりの美形じゃぞ? 汝らには判らぬかもしれんがの」
ほんとに判らないよ。
幼女化したやつならみたことあるけどねっ。
むっちゃ可愛かったけどねっ。
「人間は人間以外に、異性としての美を見出すことは難しいからのぅ」
「ティアたちはそうじゃないのかい?」
「基本的には同じじゃよ。じゃが、種族によっては人間を性欲の対象として見なすものもおる」
ファンタジー作品に登場する、オークなどだ。
これ以外にも、魔族と人間の混血や、エルフと人間の混血は、数多く登場する。
エピックファンタジーの草分けとして知られ、多くの異世界ファンタジー作品に影響を与えた『ドラゴンランス戦記』。あれの主人公もハーフエルフだったはず。
「タニスは、むしろ人間の男がエルフの女王を暴行して産ませた子供じゃがの」
「しっているのかっ ティアっ」
初版は一九八四年である。
たぶんいまのファンタジーを愛する人々は知らないだろう。私だって、生まれたか生まれてないか、という世代だ。
だが、と私は思う。
古典を知らず、古くさいと笑い飛ばして、では何を未来へと引き継いでゆくのか、と。
先人たちの功績というのは、そんなに軽いものじゃない。
「シリーズは全巻読破したからの。我もスタームの死に涙した口じゃ」
「おおう……」
なんだろう。
彼女とは美味しい酒が飲める。
そんな気がする。
「今宵は語り明かそうかの。エイジや」
「もちろんだよ。ティア」
「いえ。早朝に出発なんで早く寝てください」
呆れたように言うサイファに、私とティアマトが、ぺこぺこと頭を下げるのだった。
「出発します」
先頭の馬車。
御者台の隣に座った私が号令する。
燦々と朝の日差しが降り注ぐ。
四両の馬車の荷台には、甜菜の根が満載されている。
総量はざっと一トン。
リゲルに含まれる糖分が一パーセントだとすると、ここから十キロの砂糖がとれる計算になる。
「ただ、もう少し含有率は高そうじゃがの。土壌に恵まれたのと、気候にも恵まれたのが大きいのじゃろうな」
頼もしいいななきを発し、馬たちが歩みを始める。
「そうなのかい? むしろ判るの?」
横に並んだティアマトの言葉に、疑問を返す。
「ふたつみっつ、そのまま食ってみたのじゃ。一パーセントという甘さではなかったのじゃよ」
そのままて……。
思い出してみれば、ベイズもそのまま食べてた。
ワイルドな人たちである。
人間じゃないけど。
「四から五。うまくすると、六パーセントくらい含まれているやもしれんの」
「えっらい細かく判りますねっ!?」
びっくりである。
アンタの舌は糖度計か。
「どこぞの食通もびっくりじゃろう?」
「うん。全私が驚いたよ」
「とはいえ、数値そのものに確度はない。このくらいかのぅ、という感覚じゃ」
「それでもすごいよ」
なにしろ私の舌は、ビールと発泡酒の違いすら判別できない。
あと、すげー高級な日本酒の、『久保田』とか飲んでもべつに感動とかしなかった。
なんか水みたいなお酒だなぁ、と思った程度である。
全国の日本酒ファンの皆様、ごめんなさい。
「ともあれ、四パーセントだとしてもすごいね」
「じゃな。十キロから四十キロに跳ね上がる。思案のしどころじゃぞ。エイジや」
「うん」
やや口調を変えた相棒に、私が頷いてみせた。
この地のリゲルから、それだけの砂糖が作れるとしたら、たぶん採算ベースに乗る。
つまり、利権が生まれてしまうということだ。
製法や原料はミエロン一人の胸の内に、というわけにはいかなくなるだろう。
広め方を間違えれば、ことは容易に血を見る事態に発展する。
たかが砂糖で、とは、現代日本に生きているからいえることである。
平和な国に暮らしている私たちには想像しにくいが、地球世界だって、たとえばアメリカではたった数ドルを奪うために殺人を犯す少年もいる。
そして砂糖の価値は、数ドルなんてレベルじゃない。
「……王様に会うしかないかな」
「公定価格かや?」
「ご明察」
ティアマトがいったのは経済統制の一種である。
自由主義経済、市場主義経済を謳う日本でも、いくつかのものにはこれが設定されている。
たとえば、幼稚園の学費とかだ。
最低価格も最高価格も決められているため、業者はその中で値段を設定しなくてはいけない。
もちろん暴利をむさぼったりするのを防ぐためである。
砂糖に関しても、そのような処置が必要になるかもしれない。
「しかし、不安は残るの。この国の王とは、米をも持ち込んだ勇者の末裔じゃからの」
「だね。気が重いよ」
「もっとも、すべては砂糖の精製に成功してからの話じゃがな」
「そうだった。上手くいくとは限らないんだよね」
ふたりして苦笑を浮かべる。
現時点で砂糖の影響力の話をするのは、最大限好意的に評価しても取らぬ狸の皮算用というものだろう。
参考資料
マーガレット・ワイス トレイシー・ヒックマン 著
富士見書房 刊
『ドラゴンランス戦記』シリーズ