こわれゆく世界 10
奇妙な言い方になるが、私は大人である。
年齢的な意味においてとか、性的な意味でとか、そういう話ではなく、社会生活を営んでいるという意味合いにおいて。
働いて、給料をもらう身分。
多くの場合、社会に出たら言い訳ができなくなる。
高校生くらいまでは、理不尽な大人というのは親と教師くらいのものだったが、就職してしまえば周囲すべてが対象だ。
上司、同僚、後輩、たいていみんな理不尽である。
そして自分もまた理不尽な大人の一人だと見なされるわけだ。
社会というのは、教科書なんかよりずっと複雑にできている。
「ということを皮膚感覚で理解できる程度には大人だよ。私は」
「んむ。何を言いたいのかさっぱりじゃな。エイジが大人なことと、我らがミエロン家の世話になることと、どう繋がるのじゃ?」
冒険者ギルドでのガリシュ氏との会談と、商家での調理実習でだいぶ時間を使ってしまった。
もうすぐ日暮れだ。
腕時計を売った金があるので懐は暖かいが、さすがにこれから宿を探すのは面倒くさい。
あと疲れた。
お風呂でも入ってもう寝たい。
だから、ミエロン氏が自宅に泊まるよう誘ってくれたのは、じつにありがたい申し出だった。
「厚意を受け入れるくらいには大人だってことさ」
「じゃが、特定の商家と仲良くしすぎるのは、かえって面倒なことになるのではないかの? これは我より汝のほうが詳しかろうが」
「まあね」
私は公務員である。
役所で使うちょっとした文房具を仕入れるときだって、ひとつの業者に偏らないよう気を配らなくてはいけないことも知っている。
公平性を欠く、というのが最も忌避される事態なのだ。
この場合だと私たち神仙がミエロン商会に肩入れしている、と思われるのが一番まずい。
「でも、どのみち繋がりは必要なんだよ。コネ元の固有名詞は、この際はなんでもいいさ」
ここでミエロン氏の厚意を謝絶したとして、遅かれ速かれどこかの商家とは繋がりをもたなくてはいけない。
私たちが枝豆を街頭販売したところで、誰も買ってくれはしないのだから。
いつか結びつくのであれば、協力関係となる商家をいま吟味したところで意味がない。
せっかく知己となったのだから、この縁を大切にした方が良いだろう。
「なるほどの。それが大人の対応というやつかの」
「だろ?」
「てっきり我は、これ以上動くのが面倒だから受けたのかと思うたがの」
「そそそそんなことないよ?」
「なぜ目をそらしたのかは問わんでおくが、問題はこれからじゃ」
与えられたベッドに転がり、話題を変えてくれる。
うつ伏せっぽい姿勢で腕を前に出し、尻尾を丸め、なんかくつろぎモードの猫みたいなポーズだ。
「枝豆では必要な栄養は摂れないのじゃろ?」
「そうだね。思案のしどころだよ」
私も横になった。
どうでも良いが同室である。
いちおう男女なのだが。
いまさら玄米食には戻れない以上、おかずから栄養を得るしかない。
枝豆では恒常的な副食になりえない。安価で美味しいが、調理のレパートリーが少ないのだ。
「本当に少ないかは、研究してみねば判らぬじゃろうがの」
苦笑するティアマト。
「申し訳ない」
応用をきかせられないのは私のせいだ。だってしょうがないじゃない。
料理人じゃないもん。公務員だもん。
「汝が他に言っていた食材はどうなのじゃ? 芋とかたらことか」
「じゃがいもは、いつ植えたかによって収穫時期が違うからね。いちおう一年中、たいていの季節で採れるけどさ」
食用として簡単に普及させるには、ちょっとした問題がある。
芽の部分に毒があるのだ。
軽い食中毒を起こす程度で、死に至るようなものではまったくないが、きちんと啓蒙活動をしないで普及させるのは少しばかり危ない。
たらこの方は、もうちょっと難しい。
時期的な意味で。
スケソウダラの季節は真冬だ。初夏のこの時期に手に入れるのは無理だし、加工方法が判らない。
「北海道民のくせにのう」
「今日び、北海道人だって魚を捌けない人は多いと思うよ」
「嘆かわしいことじゃな」
「仮に捌けたとしても、この国でサシアミ漁とかやってるのか、かなり微妙だけどね」
「海産物に関しては、きちんと調査する必要があるじゃろうな」
「そうだね」
枝豆で急場をしのぎつつ、他の食材を探さなくてはいけない。
現実的なラインでギャグドだろう。
「明日、またギルドに行ってみよう。生息地とか狩りの仕方とか、情報が集めないと」
「汝が狩るのかの?」
「無茶いわないでよ。猟師を雇うか、ティアにやってもらうさ」
「見事なまでの他力本願じゃのぅ」
呆れたように言ったティアマトが、大きなあくびをした。
翌朝のことである。
内院の井戸で顔を洗っていると、ミエロンが現れた。
昨日と比較すると、いくぶん体調が良さそうだ。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
「気怠さを感じずに起きられたのは、ずいぶんと久方ぶりの気がしますよ」
笑顔が返ってきた。
たった一晩で何が変わるのか、と、言いたいところだが、脚気というのは栄養素の不足で起きている病気である。
必要な栄養が体内に入れば驚くようなスピードで回復してゆく。
充分なビタミンB1を摂り、一週間ほども安静にしていれば、症状はすっかり出なくなるだろう。
ただ、アズール王国の人々は慢性的なビタミンB1不足なので、抜本的な食事改革をしなくては、またすぐにぶり返す可能性が高い。
「それは良かった。継続して枝豆を食べ続けてください」
「じつは今朝もいただきましたよ。あっさりしているので、朝食にもいいですな。ただ問題は」
「問題?」
「エールが飲みたくなる、という点でしょうか」
「なるほど。それは同意します」
商人の諧謔に、私も相好を崩した。
エールというのはビールの一種で、わりとファンタジー作品には定番ものの酒として登場する。
日本で多く飲まれているラガービールとは風味がだいぶ違うが、ビールであることには違いがない。
枝豆に合わないはずがあろうか。
「ですが、飲酒はしばらく控えてください」
「せつないですなぁ」
「そう長いことではありませんよ」
「期待しておりますよ。エイジさま」
私たちがギャグドを手に入れようとしていることは、すでにミエロンには話してある。
豚肉には遠く及ばないものの、イノシシ肉にはビタミンB1が含まれている。含有量的には、たしか枝豆とそう変わらないはずだ。
しかし、肉というのはおかずになる。
それが大きい。
毎日でも食べることが可能だ。
さらに、他の栄養素だってイノシシ肉は豊富である。高タンパク低カロリーでミネラル分も豊富、だったはず。
きちんと数値を憶えているわけではないので、確たることはいえないが。
「これからギルドですか?」
「ですね。ティアはともかく、私には狩りなどできませんし。依頼を出すか、狩人を雇うかしないと」
私の言葉に頷くミエロン氏。
「資金的な部分はご心配なく。私どもがバックアップいたします」
スポンサー宣言とともに。
さすがは大商人。
機を見るに敏だ。
自ら身体の変化を実感し、枝豆は売れると読んだのだろう。
もちろんイノシシ肉も。
「私たちに知識はあっても広める方法がありません。ミエロンさんにご協力いただければ百人力ですよ」
「神仙さまにお力添えできるのは、むしろ名誉なことでございますよ」
右手を握り合う。
社交辞令まみれの言葉だが、目的に対して真摯であることを私は疑わなかった。
人々が元気であってくれたほうが、商売は上手くゆくのだから。